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本人ウェブサイト www.toddlockwood.com より:
コロラド州ボルダーで生まれ育つ。ロッキー山脈を裏庭にもつ大学街で、「サマー・オブ・ラブ」(*ヒッピー運動の出発点となった1967 年を指す)を11 歳の目で経験。「G.I. ジョー」が目新しかった小学校3年生の頃、「ロスト・イン・スペース」を見る。その後は「スタートレック」を見るようになり、レイ・ハリーハウゼンの映画がお気に入りだった。言うまでもなく、SF とファンタジーにどっぷり浸かった子供時代を過ごす。10代になりトールキンの「指輪物語」に出会い、その後間もなくダンジョンズ&ドラゴンズに出会う。現在ロールプレイング歴は25年余!大人になってからは神話に魅了されるようになり、特に変身の神話や、神話に隠された意味に多大な関心を寄せる。ジョゼフ・キャンベルの思想や、その徹底的な世界神話の研究に感銘を受ける。
絵を描き始めたのは2歳になる前からである、と少なくとも周りからは聞いている。子供時代を通して、絵を描くことが一番の楽しみだった。高校卒業後、デンバーのコロラド美術学院 (Colorado Institute of Art) に進学。主にデザインの学校だったが、重要な基礎は一通り(最低限とはいえ)教える学校だった。学院を卒業してすぐの1年半は、イラストレーターとしてではなくデザイナーとして仕事をする。その後イラストレーターの道を進むべくデザイナーを辞めるが、師は自分自身、つまりろくでもない師につくことになる。一番影響を受けたアーティストは、だいたい上から順にいってマイケル・ウィーラン (Michael Whelan)、フランク・フラゼッタ (Frank Frazetta)、NC ワイエス (NC Wyeth)、ウォルト・ディズニー (Walt Disney)、スパイク・ジョーンズ (Spike Jones)、自分のオヤジ、ブロム (Brom)、そしてジェフ・イーズリー (Jeff Easley)。1984 年と 1985 年には『Satellite Orbit』誌という、衛星アンテナを持っている人向けのテレビガイドの一種にあたる雑誌の一連の表紙の仕事を比較的楽しんで手がける。この表紙のイラストは非常に名高い『コミュニケーション・アート・イラストレーション年鑑』 (Communication Art’s Illustration Annual) に掲載されたが、これは我ながらカッコいい栄誉といえる。しかしその後5年ぐらいの間は「衛星アンテナのヒト」となってしまい、この地球上でなんどきも衛星アンテナの絵を必要とする人あらば必ずお呼びがかかることとなる。広告業界からの脱出を最初に企て始めたのはその頃で、脱出に成功するにはそれから12年もの歳月がかかった…。
本領を発揮しだしたのは SF『Asimov’s』誌と『Analog』誌の表紙を始めてからのことだった。3年の間コンベンションに足を運んだのと他のアーティスト達と交流をもったのは、学校で学んだことやそれまでの12年ほどのキャリア全体よりも学ぶことが多かった。要するに、正規の美術教育を受けるというやっかいな周り道を自分は通ってしまっていたわけだ。コンベンションの中でも特に「ドラゴン・コン」が、のちに機会を与えてくれる人達と出会った場であった。ひょんなことからトントン拍子に話が進み、突如家族を連れてイリノイ州に引っ越したわけだが、そこはウィスコンシン州とジュネーブ湖をはさんで州境にあるところで、TSR 社のアート・スタッフの新入りとして迎えられた場所であった。そのチャンスといったら、ほんの束の間に開いたごく狭い扉のようなもので、そこに何とか滑り込むことができたわけだ。その後、ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が TSR 社を買収したことで、アメリカ中西部という大嫌いな場所(中西部出身の人には心底申し訳ないのだが・・・)から救出されワシントン州に移ることになるが、ここは実に気に入っている。
自分は神経症的な人間である。強迫観念がある。嫌悪するものは嘘、二重性、惰性、道徳観の欠如、吠える犬、無駄。こよなく愛するものは、概して夕暮れと空、静かな森、アフロ・ケルト・サウンド・システム (Afro Celt Sound System) のような混成ロック、民俗音楽、神話、造形美を備えた身体、妻のリタ、子供たちのオーブリー、タイラー、ケイトリン、猫たち(スプーク、恋しいぞ!)、美味しい食べ物、異国情緒、哲学、そして山脈。
自宅の地下室には、ファンタジーの世界を潜ませている。ただ湯沸器の裏に行き壁を叩くだけで、想像もつかぬほど広大で美しい地に赴くことができる。そこはドラゴンやその他美しいものや恐ろしいものに満ちている。その世界にはごく簡単に足を踏み入れることができる。とはいえ、はるばる12 もの州を超えてその世界を移動させてくるのは一仕事だったけれど。