エファラの神託者

更新日 Magic Story on 2014年 3月 28日

By Jeremiah Isgur

Jeremiah Isgur is known around these parts as The Sheriff. He is a senior technical producer of customer engagement systems—the group responsible for the technology behind Magic organized play. In his spare time he lives in the future.

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 エファラ神の神託者イリスは木製の肘掛椅子に座し、注意深く上体を前に伸ばして小さな脇机を探った。指先が陶製の杯に触れると、彼女はとても用心深くそれを口へと運んだ。恐る恐る杯を机へと戻すと、彼女の唇に紫の染みが薄く残っていた。

「私は子鹿のように逃げ隠れしたくはありません」 彼女は言った。「もし私達が他の神々につく者との戦争を避けたいというのであれば、私はここに居なければなりません、捕虜を尋問するために。ご存知でしょう、私の先見の力は触れることによってのみ現れます。私が遠くに身を潜め続けていては、力になることなどできません」

「敵の工作員達が都市に侵入しています」 ペリソフィア、十二賢として知られる統治議会の現在の長が言った。十二賢は統治府の大広間の中央に、円を描いて勢揃いしていた。彼女らの頭上高くにそびえる円形屋根を支える巨大な大理石の柱、イリスは彼女らの声がその間に響くのを聞いた。

「もしも囚われるか殺害されてしまうような事があれば」 ペリソフィアが続けた。「貴女はメレティスやエファラ様の力になることはできません。そしてパーフォロス様へと忠実な者達の中に、裏切り者がいます。人類の間で公然と紛争が行われるのを回避するためには、我々はまた彼らが争いを刺激することを防がねばなりません。我々は神殿との協議の結果、貴女をソーリの要塞に避難させることで合意しました。我々がお迎えにあがるまで、そこで安全に過ごすことができます。これは最終決定です」

「私はどのようにしてそこへ行けば良いのです?」 諦めとともにその命令を受け入れ、イリスは尋ねた。一つの豪華な檻からまた別の檻へ。神と都市国家へ身を捧げて生きているとはいえ、少なくとも彼女はメレティスにおける身の振り方を知っていた。ソーリの要塞について学ぶことは難しいものとなるだろう。彼女はそこではむしろ捕虜に近いのだろうから。

「貴女は護衛兵一人に付き添われ、陸路で向かうことになります」 ペリソフィアは答えた。

「陸路で、護衛は一人だけですか?」 彼女は冷やかすように言った。「私が殺されることをお望みですか?」

「貴女がた二人は道中で発見されることはありえないでしょう。したがって、これはずっと安全な選択なのです。もし我々が貴女を兵士の一団とともに送り出したなら、発見されて標的となってしまうでしょう。それだけではなく」 ペリソフィアは続けた。「貴女の護衛は決して並みの兵士ではありません。極めて安全に旅ができるはずです」

 イリスは椅子に座り直し、木のざらつきが手に触れるのを感じた。彼女の白く濁った、見えない眼は普段と同じように、無を見つめていた。

「彼を中へ」 ペリソフィアは命じた。広間の前方に鎮座する、彫刻で飾られた巨大な木製の扉が勢いよく開かれた。イリスは木が巨大な青銅の蝶番にこすれる音を聞いた。その扉に押されて外気が入り、わずかな風を感じた。武装した男性が一人、広間へと入ってきてイリスに近づいた。彼の一歩ごとに、その金属製の靴飾りとスカートが音を鳴らした。彼はイリスの前にひざまずき、彼女はその手に彼の息を感じた。

アクロスの空護衛》 アート:Mark Winters

「神託者様」 彼は口を開いた。深く、意気揚々とした声だった。「メレティスの空騎士、アレクシオと申します。我が任務は貴女様をソーリの要塞へと安全に送り届けることです」

 彼はイリスの手をとった。彼女はその上に自身の指と掌を這わせた。そして彼の腕を撫でると、体毛と筋肉に触れるのを感じた。彼の肩に触れた時、彼女は古い、深く刻まれた傷を感じた。その傷をなぞると彼の肩の頂上まで達しており、そして何かが彼女の指の背をこすった。わずかに実体のある、霊的な塊。神々からの贈り物であると彼女も知る、光の翼だった。彼女はそれを感じられるまでゆっくりと腕を伸ばし、優しく撫でた。彼は完璧に静止し、彼女による吟味が終わるのを待っていた。

 イリスは指を翼から離し、彼の顔を調べた。そして彼の外見を理解した――鷲鼻に角ばった顎、厚い唇、突き出た眉、短く癖のある髪。彼女はその手をしばし、彼の顔の脇に添えていた。そして、幻視が訪れた。

神託者の眼識》 アート:Raymond Swanland

 彼女は未来の、特定の出来事を見てはいなかった。それはむしろ感じることに近く、彼女はアレクシオの夢の中にいるようで、そして彼自身であるように同じ感情を共有していた。彼は彼女へと恋に落ちていた。もちろん今ではない、二人は出会ったばかりなのだから。だがこの先のいつかに。そしてイリスは彼を奪われるのを感じた。そして彼の悲しみと、彼の虚無を。

 その思考は彼女を拒絶した。彼が反発したのではなく、彼女が、二人がどのように終わるかを知ってしまったためだった。彼は都市国家の高貴なる兵士であり、彼女はエファラ神に仕える盲目の神託者。この千年の間、そのような二人が一緒になることなど決して許されなかった。もし彼がイリスを愛することで死ぬというのであれば、彼女はそれを防がねばならない。

 彼女は不意に手を引き、一つ強く息をついた。

「いかがなされました、神託者様?」 彼は尋ねた。

「大丈夫です」 彼女は答えた。「夜明けには発ちましょう。旅には少なくとも三日かかります。急がねばなりません」 そして何よりも、彼女は可能な限り早く要塞へと到着したかった。彼女の予言が実現するほどの時間ができる前に。

 地平線にかすかな光が差し込み始める頃には、イリスは政府が用意した馬に乗り、冷気を防ぐべく旅装を堅く着込み、必要な所持品は鞍袋の中にしっかりと詰められていた。アレクシオは手綱を手にしていた。ペリソフィアは中庭に立ち、しばしイリスの手を握っていた。

「視る者イリスよ、エファラ様が貴女に安全と迅速な旅を与えんことを」 彼女は厳かに言った。「戻っても安全とわかり次第、貴女には速やかに連絡を送りましょう。どうか幸運を」

 そしてペリソフィアはイリスの手を離した。アレクシオは彼女の馬を誘導し、都市を通り抜け、石造りの城門をくぐって街道を南へ進んだ。彼らは公道を避け、その代わりにもっと狭い、森を通る古い小路を選んだ。その日の終わりには、彼らは要塞へと辿り着くために横切らねばならない山、その麓まで行けるだろう。

》 アート:Adam Paquette

 陽が昇るにつれ暖かくなり、そしてアレクシオは旅の中、すぐに彼女を会話に誘った。

「何か起こるでしょうか、神託者様――」

「どうか、私のことはイリスとお呼び下さい」

「我が神託者、イリス様」 彼は続けた。「待ち伏せに遭った時は、もしくは危険にさらされた時は、貴女様の馬を信じて下さい。そして自分がお守り申し上げます。お知りおき下さい、自分は飛ばねばならぬ時があろうとも、貴女様の所に必ずや戻って参ります。命をかけてでも」

「勿論、存じています」 彼女は丁寧に認めた。

「貴女様は平和へと何をお望みでしょうか、我がし……イリス様?」 彼は尋ねた。

「おそらく、私はそれを望んでいます。ですが神々は私達を見放し、私達は心の欲求のままに置いておかれました――そしてそれが良い形で終わることは稀です」

「不幸なことです」 彼は頷いた。

「運というものはほぼ無力です。私達の操り紐を、竪琴のように操るのは神々です。とはいえ神々は私の呼びかけに幾夜も答えて下さっていません。ですが私にはわかります、彼らはそれでも聞いて下さっていると。ただ、気にかけて下さっているかまでは定かではないのです」

「多くの者が、兵士は戦うために生まれたと信じております」 アレクシオは言った。「ですがそれは常に真実というわけではありません。自分は、戦を避けるためには何であろうと捧げましょう。それに戦場において神々の勝手な理由で死ぬよりも、むしろ自分は酒杯を手に貴女様と暖炉の傍で語り合いたいものです」

「貴方は訓練において、既に死んでいると教えられたのではありませんか?」 彼女は冷たく言った、感情的な距離を保とうと努めて。「兵士は毎朝、そう目覚めるものです――その生命は既に捧げられたものだという確信とともに」

「神託者様」 彼は堅苦しく返答した。「周囲を警戒して参ります、尾行されていないかを確認するために。先に進んでいて下さい、この先で合流します」 イリスは彼が外套を広げて翼を伸ばす音を聞き、そして突然、空を切る羽ばたき音を一つ残して彼は去った。

 前日の幻視を思いながら、イリスは黙って騎乗していた。そう、アレクシオは彼女を会話に誘った、彼なりに魅力的でさえあった。だが彼女はわかっていた、彼を近すぎない距離に留めておかねばならないと。彼のその愛があまりに早く形となってしてしまわないために。もしかしたら私はこの運命を逃れることができるかもしれない。もしも神々が沈黙を続けようとしているなら、運命もまた神々によって握られてはいないかもしれない。アレクシオが、自分へと恋をする…… 彼女はその考えを心から振り払った。それは単純に、起こってはならないことだから。

 彼女は自由と安堵を感じながら、馬を速歩に進めた。都市から、統治の重苦しさと威圧的な石の建造物から、格式ばった慣例と重い責任から。彼女は素早く安全を祈り、馬を励まして疾駆けると、それは喜んで応えた。

 午後の暖かな風は外套をはためかせ、彼女は顔に風を感じた。片手で手綱をゆるく握り、もう片手で鞍の前橋を握りしめ、何年もの年月の中で本当に初めて、彼女は笑った。心の中で風景が飛び去っていった。彼女の左右で木々が後方に流れていく音が聞こえた。何もかもが自由で、愉快に感じた。何年もの年月の中で、護衛も従者もなくただ独りになったのは初めてのことだった。

「イリス様!」 アレクシオの声がどこか上空から聞こえた。馬の手綱を引くよりも早く、彼女はアレクシオの強靭な腕に鞍から空へと運び去られ、そして草の上へ乱暴に投げ出された。彼女は馬が激しくいななき、吼えるのを聞いた。アレクシオの剣が鞘から抜かれ、鳴った。別の男二人が叫び、アレクシオの刃に切り捨てられた。そのうち一人が立ち上がって剣と剣で戦うも、やがて沈黙させられた。そして静けさが世界に戻った。聞こえるのは、どこか離れた所で彼女の馬が苦しそうに呼吸する音だけだった。

 イリスは状況を確認しようと、周囲を手探りした。アレクシオは彼女の隣へと荒く降り立った。

「お怪我はございませんか、神託者様?」

「いえ、驚いただけです。それと、混乱してしまって」

「待ち伏せでした。追いはぎ、もしくは追いはぎと思われる者が二人です。武器から判断するに、彼らはパーフォロス様の信奉者と思われます」 彼はイリスの手を取り、立ち上がる手助けをした。

「ありがとうございます、騎士様」 彼女は微笑んだ。

「あいにくですが、彼らは仕掛け紐を用いて貴女様の馬を転ばせてきました。馬は片脚を折ってしまったようです。もし自分が間に合わなければ、貴女様も頭部に重い怪我をされていたかもしれません。何をお考えで、あのように急がれていたのですか?」 アレクシオは彼女を叱った。優しく、だが真剣に。

「ごめんなさい」 彼女は言った。「何を考えていたかは……わかりません。私はただ、この自由な時間に浮かれてしまっていたのです」

「ここで待っていて下さい」 彼は言った。「馬を楽にしてまいります」

 彼女は無言で自身を、感情を自制できなかったことを呪った。それは彼女の馬を失わせ、彼女の命をも失わせるところだった。自分の傍に、平凡で哀れな役人達ではなく、アレクシオのような護衛が常にいてくれたなら。鋭く信頼できる視線で見てくれていたなら。彼女はつかの間抱いた自由を思い出し、そしてその考えを振り払った。二度とあってはならない。空気が変わり、彼女は、馬の苦しそうな息が聞こえなくなったことに気がついた。

 彼女はアレクシオの足音が近づくのを聞いた。彼は優しくイリスの手をとった。

「終わりました、イリス様。ここからは徒歩で進まねばなりません」

 アレクシオは彼女の手をとって、森の小路を隣り合って進んだ。彼の大きく力強い手は彼女のそれを優しく包んでいた。

「感覚を研ぎ澄ましていかねばなりません。貴女様の耳がとても鋭いことは存じております。危険を察するのをお助け下さい。今や我々は徒歩で、攻撃を受けやすくなっています」

「ごめんなさい」 彼女は再び言った。「私が軽率でした」

「そのようなことはありません、イリス様」 アレクシオは彼女の手を優しく握り締め、返答した。彼女にはそれが故意なのかさえわからなかった。「貴女様はただ自由な瞬間を楽しんでいただけです、ほとんどの人々にとってはその人生を通じて許されているものを。このことで貴女様を咎めたりはしません、それどころか自分はますます尊敬致します。貴女様の人生は自分とそう違わないと知りました。常にメレティスのために捧げられ、決して自分自身のものではない」

 彼女は手を引っ込めた。「音で貴方を追えます。子供のように手を引いて下さらなくても大丈夫です」

「仰せのままに」

 イリスは彼の声に、かすかな失望を感じ取った。

「明日、別の乗騎を見つけようと思います。山腹を放浪する動物の群れを知っています。太陽が沈む前に野営し、夜明けには出発しましょう。もし貴女様を自分の翼で運ぶことを許して下されば、しばらくの間共に飛ぶことができます。自分の翼には十分な力があります」

「それには及びません」 彼女は返答した。「私は盲目ですが、無力ではありません」

 イリスの脚が疲れるまで、彼女たちは黙って歩いた。アレクシオは小路を外れ、人知れず眠ることができるような森の中の空き地へと彼女を導いた。彼は小さな炎を秘かにたき、当座しのぎの天幕を彼女のために設置した。二人は鞍袋からいくらかの食糧を分け合い、葡萄酒を少しずつ飲んだ。イリスが天幕に下がると、アレクシオは監視のため樹上に立った。

「奴らはここを数時間前に通ったばかりだ」 死んだ仲間を転がしながら、指揮官は言った。「こいつは明らかに空護衛の仕業だ」

「見て下さい、馬です」 野伏の一人が言った。

「おお」 指揮官は答えた。「彼女のものに違いない。いいぞ。もし奴らが徒歩で進んでいるならば、明日には追いつけるかもしれんな」

 野伏がもう二人、小路の更に先で話し合っていたが、彼らは振り返ると指揮官のもとへと戻ってきた。

「足跡が二つ、この方角に続いています」 一人が言った。「一つは女、もう一つは空護衛です。二人の他には誰もいないようです」

「エファラの神託者が、空護衛ただ一人だけだと? 何を考えている? お前達、満月の前には家に戻れるだろう。捕虜を連れて、空護衛の首を持ってな」

 白昼の日差しが木々の間から差しこむ頃には、彼女たちは山々の麓へと辿り着いた。彼女たちは既に何マイルも旅をしてきたが、イリスはアレクシオの腕の中で運ばれるのをまたも拒否していた。彼は小路から離れてイリスを大樹の根元へ導くと、彼女を座らせて食事をさせ、その間に自身は乗騎を探しに出かけた。彼女はこの休息に感謝した。人生のほとんどをエファラ寺院の贅沢な内部で過ごしてきた彼女は、これほどの旅には不慣れだった。

 苔に覆われた樹の幹によりかかり、差し込む陽光に浸り、食事で胃袋も満たされ、イリスはしばしの間夢の世界へと漂い流されずにはいられなかった。

 彼女は馬がいななく声と大きな翼の羽ばたき音で目を覚ました。そしてまたアレクシオが地面に降り立つ小さな羽ばたき音も近くに聞いた。彼が着地する独特の品格と歩調をイリスは認識したが、もう一組の翼についてはわからなかった。陽光は消え、その場所には涼しい影が彼女の身体へと被さっていた。イリスは大気に水の匂いを感じた。

「乗騎を連れて参りました」 彼は意気揚々と言った。彼女はその声の中に笑みを感じた。「彼は望んでついて来ました。空護衛とは仲が良いんです」

忠実なペガサス》 アート:John Severin Brassell

 イリスは座っていた樹の根から立ち上がり、ペガサスの息遣いの音へと近づいて手を伸ばした。その動物は彼女の手に頭を寄り添わせた。彼女はその首を撫で、その手を動かしていくと翼を覆う大きな羽根に触れたのを感じた。飛べそうだという予感に、彼女は笑みを浮かべた。

「何て素晴らしいのでしょう、騎士様。言葉にできません」

「これで急ぐことができます」 アレクシオは言った。「準備は宜しいですか?」

 イリスは頷き、彼は彼女の腰を抱えるとその素晴らしい乗騎の背へと上げた。この時は、イリスは彼の逞しい手が身体に触れるのを気にしなかった。飛べる乗騎があれば、自分達はもっと平等になれる。

「しっかり掴まって下さい、ですが彼は貴女様を落としはしませんよ」 アレクシオが喉を鳴らして激励すると、ペガサスはその翼をはためかせて地面から飛び上がった。突然の動きにイリスは思わず悲鳴を上げた、命惜しさにその首へとしがみついた。

「何てすばらしいのでしょう」 彼女は笑った。「こんな感じは、初めてです」

「楽しそうな貴女様が見られて、自分も嬉しく思います」 アレクシオが答えた。

「どんな景色が見えるのか、教えて下さい」 彼女はアレクシオに願った。

 アレクシオは前方の山々を、眼下の森を、高地から遥か背後の都市へと流れ下る、曲がりくねった河を語った。イリスはそれらを頭の中で精一杯思い描いた。

「空が暗くなってきました」 彼女の隣で飛行しながら、アレクシオは付け加えた。「雨になる前に山を越えられるとは思いますが、確実かどうかはわかりません」

 嫉妬深い神がその言葉を聞いていたかのように、雷が遠くで鳴り響いた。イリスは神々へと、彼らが山を越えるまで空が閉じていることを祈った。

 あっけなく、雨が降り始めた。最初は霧のように、それは穏やかなにわか雨にゆっくりと変わり、彼女の顔を濡らした。

「大丈夫ですか、イリス様?」 アレクシオは尋ねた。

「はい」 彼女は答えた。「進みましょう」

 彼らは集中し、無言で飛んだ。雨は激しくなり、その中を切り開くように進むうちにイリスの外套はずぶ濡れになり、彼女の顔には雨粒が浴びせられた。彼女は寒気を覚えはじめ、乗騎にしがみつき続けた身体は疲労し、落下の恐怖に怯えた。

「止まって、雨宿りをするべきかもしれません」 彼女は雨の向こうへと叫んだ。

「もし可能でしたら、先へ進み続けることをお薦めします。貴女の乗騎には耐える力があります」

「ええ、ですが私には無理です。お願いです、もし休む場所を見つけることができれば、ありがたく思います。そうすれば明日には更に進むことができます」

「勿論です。どこか見つけましょう」 彼らは雷鳴が再び砕ける中を斜めに飛び、それまでよりも更に近づいた。イリスは寒さに震え、乗騎の濡れたたてがみにしがみついた。

 彼らは何分かの間、打ちつける雨と風の中をねじれるようにあちらこちらに行き交い、時折逆戻りした。

「あそこへ」 少ししてアレクシオは言った。その言葉はペガサスへと向けているようだった。

 堅い地面へと静かに降り立って、イリスは安堵した。アレクシオは彼女たちを山腹の洞窟へと導いた。洞窟は寒かったが乾いていた。彼は素早くその洞窟を偵察し、そこには二つの小部屋しかないこと、岩がちの露頭の中に伸びていること、出入り口が両側にあることを報告した。

 イリスはペガサスから降りて外套を脱ぎ去り、寒さに震えた。アレクシオは素早く鞍袋をほどくと、イリスが食糧を分けている間に火をおこした。ペガサスはもう一つの小洞とへひづめの音を立てて向かい、身を震わせていななきとともに座りこんだ。

「こんなひどい天気では見つかりやしませんよ」 野伏の一人が隊長へと愚痴をこぼした。

「言い訳はいらん」 隊長は返答した。

 多少の雨を避けられる枝を広げた樫の木の下、彼は部下達を脇に呼び寄せると馬を降りた。部下達が見守る中、彼は袋から黄金の杯を取り出した。そして澄んだ水たまりから水をすくって杯に入れ、その上ににかがむと外套で頭部を覆ってその水を守り、水面が滑らかに落ちつくのを待った。集中して、彼は呪文をつぶやき、杯の水が鏡の表面のような銀色に変化するまでそれを繰り返した。その鏡の中に、神託者と空護衛が山道へと降り、そして洞窟の入り口へと滑りこむのが見えた。

霊体のヤギ角》 アート:Aleksi Briclot

 水の一滴が隊長のフードから落ち、杯へと弾けた。鏡の表面が砕けて映像は消え去った。隊長は杯を地面へと投げ捨てて立ち上がった。

「奴らがどこにいるかはわかった」 彼は見回りの部下へと言った。「だが夜明け前に追いつくには急がねばならんだろう。洞窟で待ち伏せをする。運がよければ上の森にいる蜘蛛を一体、餌でおびき寄せて使えるだろう」

 彼は馬に飛び乗ると拍車をかけて駆け出した。

 食事と炎で温まった後、イリスは持ち物の底に埋もれていた葡萄酒の袋を見つけ、それをアレクシオへと差し出した。

「イリス様」 彼は一飲みして言った。「休むと言って下さって嬉しく思います。それに暖かく乾いた場所で炎の明りに照らされた貴女様は、外の天気に際立ってお美しい。再び貴女様の務めへと向かう前に、もう一夜の自由を楽しみましょう」

「ええ」 彼女は頷いた。「もう一時間でもあの嵐に打たれていたら、私は死んでいたかもしれません。私も同じく、終わりのない隷従へと急ぐよりも、山腹の洞窟で貴方とともに夜を過ごすことを選びましょう」

 アレクシオはイリスへと近寄り、葡萄酒の袋を手渡した。彼女は熱心にそれを飲み、毛布で肩を包んだ。

「ここは安全なのでしょうか?」 彼女は静かに尋ねた。炎がパチパチと音を立て、彼女の顔を熱く照らした。

「ここで、自分といれば安全です。自分といればずっと……」 彼の声は小さくかき消えた。

 イリスは手を伸ばし、幻視を求めて彼の手を握った。来たるものの前兆を求めて。だが何もなかった。そこにあるのは自分自身の思考、願望だけだった。そして彼の、戦士の手が握り返してきた。

 彼女はアレクシオの隣へと動いた。並ぶと、互いの身体が触れた。イリスの手が震えた。

「大丈夫ですか、イリス様?」 彼は尋ねた。囁くような柔らかな声だった。

 その時、彼女は理解した。アレクシオの運命についての幻視は不完全であったと。彼は私に恋をして離れていく、そう見ていた。だが彼女はその予言の中における自分自身の役割を見ていなかった。神々はこの運命を既に定めたのだろうか、もしくは彼女自身の行動で未来を変えられるのだろうか? 彼らが共に生き、世界を自由に飛ぶことは果たしてできるのだろうか? あるいは、私も彼を愛するなら、その運命を――彼の、私の運命を変えられるのだろうか。

 イリスはアレクシオへと顔を上げ、唇をわずかに開いた。いけない、そう彼女は思った。許されることではない。だが内なる疼きがそれを押しのけた。自身を抑えるよりも早く、彼女はアレクシオの唇が自身のそれに触れるのを感じた。彼はその力強い腕でイリスを抱きしめると、炎の傍の毛布へと彼女を横たえた。

 彼女へとそのように手を触れた男性はかつて誰もいなかった。彼女はただ、今だけに身を任せ、安心と喜びと解放感に包まれながらこの時を生きた。

 やがて、イリスはアレクシオの腕の中で眠りについた。穏やかに音を立てる炎の傍、暖かな毛布にくるまり、その顔に微笑みを浮かべ、下腹部に火照る幸福感を抱いて。その時、夢の世界へと連れ去られる寸前、彼女はかつてない幸せと自由を感じた、もしくはそう感じられると思った。

 彼女は夢から目覚めた。奇妙な夢だった。期待していたような美しい夢ではなかった。大きな手が彼女の口を塞いでいた。彼女が息を吐こうとすると、手は更に強く押しつけられた。

「静かに」 アレクシオが囁いた。「起きて下さい。出る準備を。洞窟の後ろの出口からです」

 イリスは二つの音を聞いた。彼女の隣でペガサスが息を吐く音、そして洞窟の入り口の外で金属がかすかに鳴る、硬貨が岩の上に落とされるような音。彼女は黙って毛布を脱ぐと、周囲に深靴を探した。炎は炭へと燃え尽きていたらしく、その熱はほとんど感じられなかった。

 アレクシオはゆっくりと剣を鞘から抜いた。イリスは彼が小部屋の中を歩き回る音を聞いた。彼女が深靴を履いていると、その肩に外套がかけられた。外でまだ振り続ける雨の向こうに、イリスは男たちが小声で話すまぎれもない声を聞いた。

 イリスは洞窟の入り口を指差し、彼らの声が聞こえたことを示した。アレクシオは彼女を乗騎の背へと持ち上げて乗せた。

「後ろの出口へ行きましょう。私が誘導します」 彼は囁いた。

 まさにその時、一本の矢がヒュンと彼らの脇を飛び去り、背後の洞窟の壁にぶつかった。イリスは音の方向から、その矢は洞窟の入り口から放たれたとわかった。

 アレクシオは後ろ側の出口を目指して駆け出した。ペガサスはその後を追った。イリスは少なくとも男が二人、剣と鎧を鳴らしながら洞窟に入って来る音を聞いた。彼女はエファラ神へと無言で祈った、私たち全員無事に、この洞窟から出してくれるようにと。

「神々よ」 アレクシオは突然叫んだ。彼女はその声に躊躇を感じ取った。「蜘蛛が一匹、後ろの出口に巣を張っています」

墓荒らし蜘蛛》 アート:Richard Wright

 イリスの乗騎が急に立ち止まってうなり、神経質にその場を行き来した。彼女はアレクシオの剣が荒々しく振るわれ、蜘蛛の巣を切ろうともがく音を聞いた。何か恐ろしい生物が甲高く鳴き、シーッと息の音を立てて後退した。

「行って下さい、今です!」 アレクシオは叫んだ。

「貴方を置いては行けません」 イリスは必死に返答したが、自分は完全に無力だという恐ろしい考えが心に沁みていた。

 さらなる矢が風切り音とともに洞窟内に放たれ、今回は目標をとらえた。矢の軸が何か柔らかいものへと沈む音に、イリスは身震いした。アレクシオはうめき、蜘蛛の巣の中でもがき続けた。

「私の手を」 彼女は叫んだ、暗闇の中で手を伸ばすも、触れるものはなかった。

「蜘蛛の巣は片付けました。貴女様の乗騎は行くべき所を知っています」 彼は声を震わせ、喘いだ。

「やめて」 彼女は叫んだ。ペガサスは怯えながもら前へ進み、引き留められなかった。

「飛べ!」 彼はペガサスの尻を剣の腹で叩き、叫んだ。

 ペガサスは力強く跳躍し、洞窟の出口を飛び越えた。イリスは洞窟の入り口を越えて、気温と圧迫感が変わるのを感じた。翼を力強く羽ばたかせ、彼女たちは雨空へと飛び立った。

「駄目!」 彼女は泣き叫んだ。「お願い、駄目よ」

「愛しています」 彼女は彼の言葉を聞いた。その声は風にかき消えていった。

 伏兵達がアレクシオに迫っていた。彼女は剣が打ち鳴らされる音が薄れていくのを聞き、死の冷たい指がかすめるのを感じた。彼女は知った、彼はその洞窟を脱出することはなかったと、その力強い肉体と神々しい翼は死の運命を迎えたのだと。

 彼女はペガサスのたてがみに顔をうずめ、むせび泣いた。自身の心を知った。自分も、彼を殺した一人なのだ。何て愚か者、彼の運命を変えられるかもしれないなどと考えていたとは。ならば神々はどこにいる? 人生で初めて、彼女は愛を知ったのだった。人生で初めて、彼女は十分な、愛さえも望めるほどの自由を経験したのだった。そしてアレクシオはその愛のために死んだ。もし彼女が昔の人生へと戻るのならば、隷従として老いて死ぬのであれば、彼の死は全く無意味なものとなるだろう。

 彼女は乗騎を向けた、ソーリの要塞でもメレティスでもなく、未知なる西方へ。エファラ神の神託者は自由へと向かって、盲目的に雨の中を飛んだ。彼女が常に真にそうであったように、何も見ることなくただ独りで。


(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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