前回の物語:銀の月の下で

 イニストラードは繁栄と平和の新時代に突入していた。アヴァシン、あらゆる地の人類の希望と庇護の体現者である強大な天使がその虜囚から解放され、人類がイニストラードの内に潜む邪悪な恐怖を押し返すための力となった。吸血鬼は隠遁し、狼男の呪いは緩まった。「呪い黙らせ」と呼ばれるアヴァシンからの魔法的な布告は苦しむ獣人達へと選択肢を与えた。狼の従者ウルフィーとなってアヴァシンに仕えるか、もしくは、とても稀にだが、完全に癒えるか。

 アヴァシンの優しく慈悲深い視線の下、イニストラードの人々は繁栄し、成功し、人類の新たな揺るがぬ夜明けを築こうとしていた……


 万の魂の祈りが、希望と恐怖を嘆願する囁きが、霧雨のようにアヴァシンに降り注いだ。アヴァシンよ、我が子を見守り下さい。アヴァシンよ、作物がどうか力強く育ちますように。アヴァシンよ、この痛みを止めたまえ。アヴァシンよ、彼に清き永眠を。アヴァシンよ……

 彼女は薄く冷たい大気の中を浮上した。大気はあまりに薄く、翼が身体を宙に留めておくためには魔力の助けを必要とした。そこは彼女にとってお気に入りの隠れ場所の一つだった。ステンシア南部の最高峰を過ぎた先、知る者もいない谷。この高所の寒さは際立っていた。厚い霜があらゆるものの表面を覆い、耐えられる生命など存在しなかった。アヴァシンは寒さを感じなかった。彼女はこの広大な場所の素晴らしさを認めていた。音を立てる氷以外には何もない、風鳴りと祈りの囁きだけの侘しく、純粋な場所。

 祈りは常にあった。彼女の心の背景に絶え間なく声を上げていた。覚醒してすぐに、祈りはそこにあった。当初それは僅かだった。小さく、ためらいがちで、探し求めるようだった。だが時とともに祈りの数は増し、そしてそれらはもっと直接的に、懇願するようになった。我らを守りたまえ、救いたまえ、助けたまえ。

『お助け下さい!』 狂乱の祈りが平均的な呟きを破って届いた。女性の声、苦しむ女性の声だった。『アヴァシンよ! 子供が! 私の子供が! アヴァシンよ、お聞き届け下さい!』 アヴァシンはその祈りへと、それを自身へ送った女性へと集中した。その女性が広い牧草地の中を駆け、すすり泣いている様子が見えた。アヴァシンは山頂の上まで舞い上がり、南のガヴォニーへと向かって急降下した。彼女には世界中から何千もの祈りが届くが、その個々を聞き取ることは滅多にしなかった。

 守れ。アヴァシンの存在が始まったときから、その言葉があった。存在の最初の瞬間、同時にその言葉がとても多くの映像の奔流を起こしたことを今でも思い出す。凋落と血に浸された世界のひらめき。それを蹂躙しようとする幾多もの捕食者。吸血鬼に狼男。悪魔に不死者。幽霊に小悪魔。それぞれがアヴァシンの心に焼き付き、戦い、滅ぼすべき脅威として彼女の存在意義へと入り込んだ。そしてあらゆる姿と背格好の定命の映像を。人類とはその脆さと信仰によって定義される。守れ。そして時を経てアヴァシンはその言葉への理解を深め、その言葉の意味合いは様々に拡大した。彼らを守れ。この概念こそがアヴァシンの真髄だった。

 年月を経るとともに、その透明な美をまとう彼女の存在理由が明らかになった。彼女はあらゆる怪物と戦うためではなく、あらゆる邪悪を止めるための存在だった。そのような行いは不可能に思われた。代わりに彼女は導き、鼓舞し、無数の人間の信念を支え、一方でその信念は邪悪な存在の捕食から身を守るための護符や魔除けに力を与えた。何らかの手に負えない、もしくは強大な邪悪がアヴァシン個人の注意を引きつけた時には、彼女自ら戦う時もあった。だが常に戦いと祈りはあまりに多く、その全てに応じることはできずにいた。

 とはいえ時折、ある祈りがアヴァシンを動かすこともあった。並外れて熱心な信仰や絶望が吹き込まれた祈りにアヴァシンは引き寄せられるのを感じた。存在して間もない頃には、この引き寄せを意識することは稀だった。彼女はただ、特定の出来事へと個人的に介入しなければならないと知っていた。だが数世紀が過ぎ、彼女はいつ、何処で自身が干渉するかを管理できるようになった。この母の祈りの力、高まる動揺と狂乱がアヴァシンへと届いた。子供を思う母の怖れは純粋かつ真のもので、そのような清純はアヴァシンに直接の行動を強いた。

 アヴァシンは速度を上げてステンシアの低い山峡を抜け、請願者へと向かう的確な道を辿った。アヴァシンの心の中、その女性の祈りの力は鮮やかな標となっていた。山を覆うものは雪から森へと、圧倒的で終わりのない白色から緑と茶と橙が入り混じった、収穫月の訪れを告げる色合いへと変化した。アヴァシンは思索にふける方ではないが、獄庫から解放されて以降の働きには満足を感じずにはいられなかった。狼男はいなくなった。ある者は癒え、ある者はウルフィーへと変身してアヴァシンと天使達の頼もしい仲間となった。小悪魔や悪魔は散り散りになり、鳴りを潜めた。吸血鬼は隠遁した、これはアヴァシンが覚醒して以来数える程しか達成していないことだった。人類はその長い暗黒の包囲から解放され、文明は栄えていた。

 それは人類にとっての新たな時代、世界にとっての新たな時代だった。そしてアヴァシンはそこにいて、人類と世界を守り続ける、常にそうしてきたように。アヴァシンは微笑むことを好まなかった――その必要性を理解したことはなかった――だが今これこそ、人類が微笑む時に感じているものなのだろうと推測した。深く、長く続く満足。それは……正しく思えた。

アート:Andreas Rocha

 太陽の光は弱々しく、まもなく森に覆われた地平線の下へと沈むことにアヴァシンは気付いた。すぐに夜がやって来る。ある暗い森の外、まばらな草地の上にやって来ると、最初の樹冠へと続く草の坂でうずくまる女性の姿が見えた。彼女はすすり泣きながら名前を叫んでいた。「メイリ! メイリ!」 その女性が立ち上がって森へと歩き出そうとした時、アヴァシンは着地した。

「請願者よ、私を呼びましたね」 アヴァシンの口調は穏やかで安心を与えるようで、だがその女性は突然の恐怖に振り返り、そして自身が目にしている存在を認識した。

「アヴァシン様! 来て下さった! 来て下さったのですね! 私の子が! お願いです!」 その女性は狂乱しており、彼女を宥めて何が起こったのかを聞き出すにはしばしの時を要した。彼女の子供が家から飛び出し、森へ入っていったのだと。アヴァシンが帰還して以来世界はずっと安全になったとはいえ、世界は今もまだ安全ではない、特に子供達にとっては。この母親は自身で子供を探しに森へ入ろうとするも、共に死んでしまうことを怖れていた。自分が子供を見つけよう、アヴァシンはそう母親を安心させた。

 その子供がアヴァシンへと祈っているなら、問題は些細なものだった。だが脳内に今も囁く何百もの囁きに集中すると、森で迷った子供のものはなかった。それでも、子供を探す方法は他にもあった。

アート:Andreas Rocha

 アヴァシンは暗い森の上を飛び、その中心へとやって来た。彼女がその力を自身の槍に込めると、金属の刃が明るく輝いた。明るく、さらに明るく、その光は沈みつつある太陽を遮るほどに。そしてアヴァシンは更なる力を込め、森の上空を完全に照らし出した。アヴァシンは鳥が鳴き、動物が逃げる音を聞いた。更に大きなものですら梢の下で足を踏み鳴らし、その眩しい光から全てが逃れようとした。アヴァシンは力を声へと投影した。

「メイリよ! アヴァシンの名を呼ぶのです!」 その声は森じゅうの木々に轟き、響き渡った。そしてアヴァシンは黙った。彼女は子供の泣き声に耳を澄まし、沈黙以外を願った。だが沈黙だけがあった。そして沈黙とは伝令だった。

 森の梢から声は届かず、だが一つの祈りが届いた。『助けて、アヴァシン様。迷ったの、ごめんなさい、お漏らしをして、でも聞こえて……』 アヴァシンは心の中でその子供の位置を把握し、数分後には森のその場所へと降下した。小さな子供が、男の子が、曲がった木の下にうずくまっていた。

 その男の子は彼女と、その輝く槍を見上げた。「アヴァシン様?」

「子供よ、私と来るのです。もう大丈夫です。家へ帰りましょう」 アヴァシンの声は一層柔らかくなり、出せる限りの柔らかな声だった。子供といる時、アヴァシンは常に何よりも心地良さを感じていた。その純粋さ、熱心さから彼らを容易に理解することができた。男の子は彼女に近づき、そしてアヴァシンが槍を脇に除け、片腕で歓迎を示すと彼は躊躇を克服した。彼は天使へと駆け寄り、彼女は少年を抱きしめて森の外へと飛び立った。

 森の外れに母親を発見し、子供を渡すまでは一瞬だった。母も子も抱き合ってむせび泣いていた。アヴァシンが毎日、耐えず望んでいたのはこれだった。家族が再会する。恐怖が消え去る。幸せが生まれる。このために彼女は存在するのだった。務めが終わったことに満足し、彼女は山中の隠れ処へと上昇を始め――そして暴力的な揺らぎが彼女の身体を叩き、視界を震わせた。

 目の前の全てがぼやけて重なった。森、母と子、草の葉片。重なり、ぶれ、そしてまた。ひどい頭痛が走って彼女は地面に落下し、苦痛にうずくまった。両目に一面の白色がひらめき、続いて見えたのは、空に浮遊する幾つもの尖った石、その側面には難解な文様が刻まれ、互いに協調して動く……そして目の前に元の光景が戻った。攻撃の源を探ろうと、アヴァシンは視線を激しく動かした。これほどの攻撃を仕掛けるような吸血鬼は僅か、もしかしたら悪魔の王か……

 柔らかな雑音が耳の中にあった。絶え間ない低い響きが、一定の音のままで。それはただ……そこにあって、脳内に囁く祈りの背後に音を抑えて鳴っていた。アヴァシンの首後ろが引きつり、そして時折無意識の震えが首筋から頭部へと上がった、まるで攻撃の警告のように。だが攻撃はなかった。彼女はかぶりを振ってその雑音を払おうとしたが、それは彼女の思考の背後に居残っていた。

 人間二人は今も彼女の前で縮こまるように抱き合い、見たところアヴァシンを打った何かとは無縁のようだった。アヴァシンが見守る中、母の涙は消え、その柔らかな表情は怒りに厳しくなった。「何であんなふうに走って行ったの? 何を考えてるの、馬鹿な子!」 彼女は乱暴に子供を押しやった。男の子は恐怖に顔を歪め、そしてわめくように泣き始めた。

『人の種は腐っている』 アヴァシンはその思考が何処から来たのかはわからなかった。それは祈りのようで、彼女の脳内へと意図して送られたようで、だがそれを伝えた定命はいなかった。『人の種は腐っている』 アヴァシンはその子供を注意深く見つめ、当初は無辜だと思ったそこに今や違う詳細を目にした。疱瘡の皮膚、鼻水を垂らし、かさぶたと腐敗した固い皮。過ちを認め、哀れに安心を求めてめそめそと泣く顔。

 次に彼女は母親を見ると、その怒りの顔は既に和らいでおり、むせび泣く子供をなだめていた。定命というものは怒りから自責へと心変わりし、それを繰り返し、果たして終わるのだろうか? 子供を見ると、そのむせび泣きは収まっていなかった。この定命の人生とは何と短いのだろう。今日はこの小さな子供の姿。明日には大人となり、汚らしく、無骨に、怒りと残酷さを振りかざすのだろう。その後肉体は身をよじる虫に、虫は塵の中にのたうち……

アート:Steven Belledin

 アヴァシンはぎこちなく離れ、よろめきながら、心はぼやけていた。二人の人間を残して彼女は舞い上がり、珍しく不恰好に空を上下しながら進んだ。彼女は祈りを聞こうとしたが、あらゆる言葉をその雑音が覆っていた。その絶えない雑音に祈りは聞き取れなかった。代わりに彼女は同じ言葉を何度も何度も繰り返し、槍のように脳へと突き刺した。

『人の種は腐っている』

 自身の心からの逃げ場を求め、アヴァシンは飛び去った。それは何処にも見つからなかった。


 メイチャーは教会の聖所、その静かな中庭を進んでいた。辛辣な不安が彼の胃袋を痛めていた。普段であれば、彼にとってその中庭は静かで快適な場所だった。瑞々しく美しい庭、世界の恐怖と苦痛からの避難所。涼しく暗い夜、他の僧が誰もその小道を歩いていない時は特に。

 だが苦痛が魂の内にある時は、どのような場所も救いにはならない。

 メイチャーは庭の中心、長い鉄柱の頂上に座すアヴァシンの銀の紋章の前で歩みを止めた。遅い収穫月、その深い橙色の光の下でアヴァシンの銀の紋章の先端は傾き、その下の苔むした地面に落ちそうに見えた。月光が見せる巧みな幻覚。メイチャーの心はしばしば幻覚の元へと戻った。アヴァシンは本物なのだろうか?

 無論、メイチャーはアヴァシンの存在を疑ってはいなかった。彼女を、彼女が統べる天使をこの目で見た。アヴァシンの存在が真であることに疑いの余地はなかった。だが彼女は崇拝に値するのだろうか? 彼女は我々の神なのだろうか?

 その思考から彼は逃れられなかった。

アート:Christine Choi

 彼は人生のほとんどを真の信者として過ごしてきた。まだ歩き始めの子供だった頃、家族は地元の教区の扉の前に彼を捨てた。このガヴォニーの片隅では多くの幼子が同じ運命を被る。彼は教会に食べ物と衣服を与えられ、教会に守られてきた。文字を読むよりも先にアヴァシンの教義を聞かされた。

 その疑いが始まったのは昨年、アヴァシンが不可解に姿を消した時だった。忌まわしい時期だった。世界のあらゆる恐怖がガヴォニーまでも押し寄せ、街は蹂躙されかけた。メイチャーは前月皇ミケウスを知っており、そして不死者としてのミケウスを見たあの時は人生でも最悪の夜だった。だがアヴァシンが帰還し、ガヴォニーは今やかつてのように安全な場所となった。かつてよりも安全になった。何故、勝利の後にこのような疑いが持ち上がるのだろう?

 ある噂が聖職者達の間に盛んに走った。アヴァシンはまさにその獄庫に囚われ幽閉されていたのだと、あまりに多くの闇の生物が封じられていたその中に。僧侶達は牢獄を破り、新たな光の時代を世界にもたらしたアヴァシンの力を奇跡と呼んだ。

 だがそもそも、神が幽閉されるなどありうるのだろうか?

 彼の内にとある祈りが自然と浮かび、彼は悔悟の笑みを浮かべた。アヴァシンよ、存在したまえ、真であってくれたまえ。橙の満月が夜の乾いた空気に輝いた。アヴァシンの紋章は月にすっかり縁どられ、そして橙色の光の下でゆらめき歪んだ。それを見てメイチャーはその場に釘づけになり、柔らかな月光の中に呆然とした。

 背後で、翼のはためきがあった。

 メイチャーは急ぎ振り返り、口を唖然とあけて、そして一体の天使が降りてくるのを見た。印象的な白い瞳は黒に縁どられ、滑らかに輝く大きな翼、銀白の髪には月光の橙と赤の色合いが染みていた。その手は長い月銀の槍が握られ、先端は赤い火花を散らしながら深い白色に輝いていた。アヴァシン。アヴァシンその人が、中庭へと降りてきた。

 彼女は着地し、背中に翼を畳み、メイチャーをじっと見つめた。彼は以前一度も彼女の瞳を見つめたことはなかった。象牙色の光彩、だがその光彩を囲む黒い縁は彼の注意を引き、離さなかった。その黒は深くなり、広がり、墨色の池が踊り、混沌が増し……

「蜂の音が聞こえますか? あの者らの悲鳴が聞こえますか?」 アヴァシンの言葉は震えながら早口で発せられ、両眼の呪文を破った。彼女の視線は半狂乱に庭を行き来した。

 メイチャーは彼女が何を言っているのかも、何故彼女が不安そうに見えるのかもわからなかった。「アヴァシン様! ここに来て下さったのですね!」 彼は衝動的に言い、安堵に圧倒された。自分はアヴァシンへと祈り、今彼女は目の前にいる。彼は自身の神を疑ったことを恥じた。彼女はここに現れた、私を光へと、真実へと引き戻して下さるために。

 アヴァシンの表情が変化した。彼女は辺りを見るのを止め、メイチャーに集中した。「そなたの祈りが私を招きました」 冷たく乾いたその声に、彼ははっとした。「そなたは私へと祈りました。何故なら、私を疑ったために」 今や彼女の声には軋むような音があり、そしてまるで何かを聞いているかのように、もしくは聞かせているかのようにその言葉は途切れ途切れになった。彼女は槍を掲げた。「そなたの疑いを終わらせる方法が、他にも存在します」 彼女の唇は震えて上を向き、微笑みのぎこちない偽物を作り上げた。

 メイチャーは闇の中に震え、アヴァシンの向こうの月とその鮮やかな橙色の光を見て、ここにいなければ良かったと願った。

「そなたは純粋ですか?」 彼女の言葉は蜂蜜のように流れた。

「私は……え?」 メイチャーは理解できなかった。彼は何度もアヴァシンとの対面を心に描いていた。だがこのようなやり取りを予想したことはなかった。

「そなたは、純粋ですか?」 今度は、一語一語が水晶のように透き通って鋭かった。

「はい! 私は純粋です!」 メイチャーは安堵した。彼の神は怒っていた。そうに違いなかった。自分は疑い、だが今やその疑いは消え失せた。「純粋です、まさに……」

 だがアヴァシンの言葉が彼を抑えつけ、続ける余地を与えなかった。「無論、そなたは純粋ではありません。純粋な筈があるでしょうか? そなたは、生を受けた存在なのですから」 言い終えたその声には紛れもない軽蔑があった。彼女はメイチャーの両目を見つめ、そして彼は今一度墨色の暗黒が湧き上がる様を見た。終わりのない黒が自分を飲み込もうとして……彼は眩暈を感じ、そして地面に倒れそうになって彼女の視線を離れ、すると眩暈は消えた。直接彼女を見つめないように気を付けながら、彼は背筋を伸ばした。神を直接見つめるなどとは。

「定命よ、そなたは私への信仰をそんなにも容易に失うのですか?」 アヴァシンの唇は歪んでいた、人間の嘲りのように。

 メイチャーは唾を飛ばした。返答しようとしたが筋の通った言葉が出てこなかった。

 それを無視し、彼女は続けた。「より面白い質問をしましょうか……」 そして言葉を切り、ほの暗い夜空を見上げた、まるで月が彼女へと語りかけているかのように。「……私はそなたへの信仰を失ったのでしょうか?」 彼女はメイチャーを直接みて「そなた」の一語を投げかけた。彼は悲鳴を上げようとしたが、言葉は何も出てこなかった。湿った流れが脚を流れ下り、足元に水たまりを作った。恐怖に圧倒され、彼は苔むした地面に崩れ、身を丸くして目を固く閉じた。

 その恐怖と閉じられた目を通しても、彼は冷たい光が近づいてくるのを感じた。震えが背骨に走り、彼は悲鳴を上げた。悲鳴が収ると彼は囁き声を聞いた。「まもなく」 軽い、羽根らしきものが顔をかすめた。翼のはためき、そして光は消えた。彼が目を開いたのは長い時間が経ってからだった。彼はその夜ずっとその場所にうずくまって動かなかった。自身の神の本性について、ぞっとするような確信を身にまとって。

アート:Vincent Proce

 リオントは冬の美しい陽に目覚めた。そのかすかな光が彼の顔を洗い、目覚めるように急かした。普段であればこれほど早朝に目覚めることはないよう鎧戸は閉じてあるのだが、彼は昨夜それを忘れていた。木製のその一つが斜めに傾げていた。後で直さないといけないようだな。

 昨日はよく眠れたかと妻に尋ねたが、彼女は返答しなかった。遅くまで起きていたのだった。先に自分が起きるというのは珍しく、ヒルデが彼を起こす、もしくは子供達の喧嘩の声が彼に朝を告げる方がずっと普通だった。彼は立ち上がり、ぼろぼろに引き裂かれた寝台のシーツを見て肩をすくめた。今日やるべき事は山のようにあり、すぐに始めようと彼は思った。

 仕事は急増していた――彼の鍛冶仕事はかつてない程に忙しかった。彼は日中のほとんどを鋳造所か金床で過ごしており、二人目の弟子を雇おうと考えていた。昨年にアヴァシンが帰還して以来、新たな道具や鍬の需要は増していた。そして「呪い黙らせ」を受け、リオントはその要求を満たしていた。

 呪い黙らせ。アヴァシンの魔術によってもたらされた祝福、それとともに何もかもが変わった。幾らかの狼男はウルフィー、アヴァシンの狼の従者へと変身した。だがリオントは完全に癒され、毎日アヴァシンへの祈りを捧げていた。彼は家族のもとへ、故郷へと戻った。街を旅し、人々の目を見つめ、そこに恐怖はないと知った。恐怖が無いというのは素晴らしかった。戦慄も不安も重圧もなく、もはや常に唸り声を上げて彼の内を掴むものはなかった。もはや月を見上げることはなく、夜が闇を、真の闇をもたらすのかと思うこともなかった。全てはアヴァシンの情け深い力によって光へと霧散した。彼は再び人生を持てたのだ。家族と共にある人生を。

アート:Howard Lyon

 彼は床に散乱した衣服を拾い上げて身に着けた。いくつかは直さないとな、今夜ヒルデに渡そう。彼は妻を起こそうと向き直った。彼女は眠そうに少しだけ身動きをし、そして眠気にかすれてか細い声を出した。

「おはよう、あなた」 ヒルデの口は動かず小さかった。リオントは彼女に冗談を言ってその美しい笑みを見たかったが、今朝の彼女は冗談をわかってくれないようだった。

「俺は外へ鍛冶に行く。ニッカー家のために鍬を作り始めないといけない。子供達はまだ寝ているのか」 ヒルデは答えなかった。「なあ、大丈夫か?」 彼は近寄って見た。

 ヒルデの声は今も柔らかく、小さかった。「疱瘡が広がってるの」

 リオントは彼女が目覚めていることを喜んだ。「大丈夫だ、お前。大丈夫だ。昼食を食べに正午には戻るよ」

 彼女の声は先程より大きく、冷たくなった。「リオント。扉が叩かれても、開けないで」

 震えが一つリオントの背骨に走った。『扉が叩かれても……』 だが彼はその考えを振り払った。ヒルデは再び眠り、裂かれた寝台に動かず横たわっていた。とても遅くまで起きていたに違いない。

 彼は木片と草をまたぎ、それらが足の下で砕ける音を聞きながら子供達の寝台へと向かった。この散らかりようは、ヒルデが起きたら気分を悪くするな。後で掃除をしておこう。

 彼はまずうつぶせに寝るタリアの所で足を止めた。彼女は身動きせず、彼を見て喜ぶいつもの鮮やかな瞳は眠りに閉じられていた。彼が優しく揺すると娘は目を開いた。

「おはよう、お父さん」 彼女の声は物憂げで鈍かった。とても疲れているようだ。休ませた方がいいな。

「また寝るといい」 彼は屈むと娘に口づけをした。温かな唇が冷たい額に触れた。

「お父さん。扉が叩かれても、開けないで」 彼女の声に力はなかった。怯えているようだった。額から唇を離すと、彼女は既に再び眠りについていた。

 自分も怯えていることにリオントは気付き、だがそれを押しやった。この輝かしい冬の朝に恐怖を感じるというのは奇妙だった。壊れた窓と壁の大きな裂け目から陽光が注がれているのに。ここは寒いな。後であの穴を塞がなければ。

 彼は息子に声をかけるべく、寝台の横にもう少し居残った。ケンはタリアより幾つか年下、姉ができることは自分も全部できると思う年頃で、だがその様子は姉を怒らせるのだった。このごろはほぼ毎日、彼はこの時間には既に家中を駆け回り、壁にぶつかっては外で遊ぶよう母親に促され、家と鍛冶場の間の柵に囲まれた庭へと向かうのだった。だが今朝、彼は静かに動かず横たわっていた。

 リオントがそこに立ったまま、眠り続ける息子を見つめていると、その子の目が見開かれた。

「おはよう、お父さん」 その声はとても小さく、リオントはかろうじて聞き取れるほどだった。この子は具合が悪いのかと心配になった。もし治療師が要るようならば……

「お父さん、扉を叩く音がしても、開けないで」 少年の両目が再び閉じられ、リオントはその部屋のあまりの静寂に気が付いた。ただ一人が重い息をつく音だけがあった。壁に開いた裂け目から差し込む陽光と冷たい風鳴りにもかかわらず、リオントは息が詰まるような圧迫感が脳内から離れないのを感じた。

 リオントは痛むほどの圧迫感にうつむいた。その部屋は銅のような、苦い匂いで満たされていた。家から出なければならないようだ。三つの声が傾げた頭の中で叫んでいた。「扉が叩かれても、開けないで!」

 扉を叩く音がした。

 リオントは顔を上げた。彼は扉を見た。扉はなかった。いつもならば扉がある所には、ただ陽光に照らされた空間があるだけだった。扉が叩かれても、開けたら駄目。扉がなくなっただけでなく、蝶番も歪んで曲がっていた。新しい蝶番を作らないとな。だがまずはニッカーの鍬を作り始めて、それから……

 またも扉を叩く音が。重く叩きつける音が部屋中に響いた。

『扉が叩かれても……』 リオントはかつて扉があった、何もない場所を再び見た。何かがおかしかった。何故自分の家はこんなに散らかっているのだろう? 今これを掃除する時間はない。鍛冶場に行かなければ。また叩く音。ドン。ドン。ドン。何故叩いている? 扉は無いのに。苦痛が脳内に広がり、それはあまりに鮮やかで生々しく、彼はその力に膝をついた。目を固く閉じると彼は心の中に眩しい扉を見た、赤い色に脈動する眩しい扉を。彼は更なる叩く音を聞いた、更に重く叩きつける音を、心の中の、その赤い扉の向こうから。ただそれを開き、叩くのを止めさせたかった。その音が止めば何もかも問題はなくなる。彼は心の中で手を伸ばし……『開けないで』

 リオントは脳内の扉の取手を握りしめた。それ金属製でひんやりとしていた。彼は力を込め、だがそれは回らなかった。彼は押し、冷たさに手が痛んだが再び押した。うなりを上げ、取手が回った。

 扉を開けると、抑圧されていた現実が視界へと弾けるように入ってきた。彼は扉の向こうにあったものを見た。

 そんな、そんな、そんな、そんな、そんな、そんなはずが……。膝をついたまま、彼は半狂乱の絶望と憤怒に頭を抱えた。辺り一面が血まみれだった。壁に、寝台に、床に。彼の両手も身体もそれに覆われていた、ほんの先程引き裂いた衣服から染み出した血で。彼はヒルデの死体を見た。彼女の顔は恐怖に凍り付き、動かず寝台に横たわっていた。

 誰がこれを? わかっていた。熱病のような映像が脳内に浮かび上がった。唸り声、悲鳴、月光に高く掲げられた鉤爪……彼は顔を上げ、その苦悶を咆哮した。冷たい冬の太陽へと、太陽から狩人月へと。

アート:Daarken

 呪い黙らせ。呪い黙らせに何が? 自分がこんな事をするなどありえなかった。呪いからは解放されたのに。自由になったのに! 彼は宙へと祈りを唸った。アヴァシン! 何故私を見捨てたのですか! アヴァシン!

 彼はそこに膝をついたまま、長いことむせび泣いていた。死にたかった。家族を取り戻したかった。タリアとケンの笑い声を聞きたかった。二人の喧嘩を聞きたかった。昨日に戻りたかった。お願いだ、昨日に戻ってくれ。俺を眠らせて、昨日に目覚めさせてくれ。俺は目覚めて、ここを離れる。離れて、二度と帰ってこない。ただ昨日に戻してくれ、ただ……。頭上で、彼の家の屋根が弾けた。

 リオントは顔を上げ、頭上に浮かぶ影を見つめた、翼、銀の髪、大きな輝く槍。そんな、まさか……? あのお方がここに……?

 彼の声は苦痛にかすれ、言葉はかろうじて形を成した。「お願いです……お願いです」 その天使、おそらくアヴァシンその人は答えず、彼の言葉を聞いているようにすら見えなかった。彼女は槍を彼へと向け、その先端が次第に輝きを増し、そして頭上の太陽よりも眩しく閃いた。そして突き刺すエネルギーが彼の胸を打ち、衣服と皮膚を燃やした。

アート:Greg Staples

 彼は苦悶の悲鳴を上げ、だがその苦痛を歓迎した。俺はこうなって当然だ。だがそれでも、その天使はもしかしたら家族を守ってくれたのかもしれない。視界が暗くなった。俺が言うべきは……

「慈悲を、どうか、慈悲を、俺の……」 彼の口は動きを止め、唇は動きを止め、その嘆願は心の中に増す暗闇の中で続いた。俺の家族に。美しい家族に。お願いです、あいつらは……

 その天使は槍を再び彼に突きつけた。彼女の唇が動き、リオントが最期に聞いた言葉となった。

「正義を! 慈悲などない」 槍が閃いた。

 慈悲を。彼は願い、そして死んだ。


 嵐が来る、シガルダは思った。稲妻が暗藍色の空にひらめき、だが雷鳴はなかった。この凍える冬の最中、狩人月が支配する季節に嵐を見るというのは珍しかった。大気は何日にも渡って重く垂れこみ、灰色の雲は動かず、そして雷鳴のない稲妻、雨のない嵐。シガルダは大きく刈り込まれた森を眺め、不安を感じた。

アート:Chris Rahn

 彼女は私室の中で浮かび上がった。むき出しの石壁と四つの分厚い支えが、白い雪の斑が散らされた暗緑色の広い展望と鋭い対称を成していた。ここからはあらゆる方角を何マイルも望むことができ、シガルダは静かな熟考を必要とした時にはしばしばここで長い時間を過ごしていた。その部屋はケッシグの森、遺棄されて久しい塔の頂上にある日光浴室で、人類が今よりも野心的だった数世紀前に建造されたものだった。

 彼らは再び野心的になりつつあった。昨年アヴァシンが帰還し、平和と安定の新時代をもたらした。人類は再び大地に広がり、新たな家と農場と街を造り上げている。だがこの数週間、不幸な報告が世界中から上がっていた。暴動、失踪、殺戮。影が世界を覆い始め、シガルダはそれが何かを知りたいと願った。

 稲妻が一つ暗い空にひらめき、そしてもう一つ。その狭間にシガルダは姉妹の接近を感じ、程なくしてその二人が彼女の聖域に着地した。

 青と白の軽装鎧に身を包み、赤いレースに縁どられた流れるような絹の外套をなびかせた華奢なブルーナ。彼女の持つ杖の先端は常に力を輝かせていた、まるで一体の敵を打ち倒そうとするかのように。黄金夜飛行隊の赤と白を身にまとうのは長身のギセラ、その二本の剣は常に鞘から抜かれていた。二人は戦いに備えている、シガルダは思った。そして千年前に死んだもう一人の姉妹を思い、震えた。

「こんにちは、姉さん」 ブルーナが言った。その声に奇妙な陽気さがあった。

「私達の召喚に応えなかったでしょう」 ギセラが言った。

 シガルダはそれを召喚とみなしていなかった。一週間前、ある黄金夜の天使がギセラを訪ねるよう告げてきた。だがシガルダは内部ケッシグの共同体の再建を手助けすることで手一杯だった。

「別の仕事に忙しかったの。急ぎの用事だとは思っていなくて。どうすればいい?」 天使達が攻撃されたのかもしれないとシガルダは訝しんだ。だとしたらブルーナとギセラの苛立ちにも納得がいく。

「それはもう大丈夫、今はね」 ギセラが言った。

「私達が来たのは」 ブルーナが続けた。

 シガルダの私室へと着地する際、二人は肩が触れるほど寄り添っていた。だが今は部屋の中で距離をあけ、彼女を挟むように動いていた。そしてブルーナが杖を、ギセラが二本の剣を持つ様子に、シガルダは自身の鎌を持っていないことを強く意識した。階下の部屋に置いてきていた。ここで何が起こっているの?

「私達はただ……」 ブルーナが切り出した。

「話をしたくて。シガルダ、長いこと会っていなかったから」 ギセラが言い終えた。

 天使二人はシガルダの両脇へと歩き続け、それぞれが彼女の視界の端に向かった。姉妹が自分へ攻撃してくるとは信じられなかったが、攻撃しようとしていると考えればこの駆け引きは道理にかなっていた。シガルダは姉妹のどちらとも戦ったことはなく、だが鎌を持っていればブルーナは対処できるとは確信していた。ブルーナは直接戦闘に特別熟達してはいない。彼女の強さは別の方面に向けられている。一方でギセラは……ギセラは難しい相手になるだろう。

 更なる稲妻が外でひらめき、そして大音響の雷鳴があった。その雷鳴が止むと、アヴァシンが部屋へと舞い降りた。

 シガルダはアヴァシンを感知しなかった、姉妹の接近と同じようには。アヴァシンを感知できたことは一度もなかった。アヴァシンは自分達を導くが、自分達の一員ではなかった、彼女が遠い昔に示したように。シガルダはアヴァシンの力を否定はできなかった。イニストラードと恐怖と戦う力、そして人類に戦いを続けさせる力を。だがそれでも、彼女は姉を忘れられなかった。

 今やブルーナとギセラは二人とも背後におり、そして彼女の目の前にアヴァシンが浮かんでいた。ギセラよりも更に背は高く、完璧な雪花石膏の肌に印象的な白銀の髪。その月銀の槍は輝いており、とはいえアヴァシンは戦いにおいて有用な武器を必要としてはいなかった。もし戦いとなれば、ブルーナとギセラ両方を相手にしたとしてもシガルダは容易く打ち負かされはしないだろう。だがアヴァシンが戦いに来るのであれば……

 アヴァシンが戦いに来るのであれば、シガルダは死ぬ。

「シガルダ、偉大なる行いがまもなく行われようとしています」 アヴァシンの声は奇妙に早口だった。その喋りはわずかな息の音か、雑音と言ってもよかった。当初、アヴァシンの姿は普段通りだと思ったが、シガルダは奇妙なことに気が付いた。アヴァシンの槍の先端の金属が歪んでいた。シガルダが観察する中、今やその金属は流れているように見えた。アヴァシンのいかなる力が槍を流れているのだろうと彼女は疑問に思った。更に不安になるのはアヴァシンの瞳だった。通常ならば純白、だが今はその光彩に奇妙な黒のひらめきがあり、束の間不透明に光を飲み込んだ。

 三人の天使はアヴァシンと長く、複雑な関係を築いてきた。ギセラ、ブルーナ、シガルダは人間が言うところの真の姉妹ではない。だが彼女らは同じ夜明けの時、同一の要素から出でて、とても長きに渡って世界の恐怖へと共に戦ってきた。千年前、アヴァシンが初めて出現する前、四人目の姉妹がいた。最年長の、そして最も強大な天使が。ブルーナ、ギセラ、シガルダ、そしてもはや名のない天使。

 当初アヴァシンをどうみなすか、彼女らは定かでなかった。アヴァシンは一人の天使であり、天使の一人であり、それでいて違った。彼女らは他の天使を感じ取るようにはアヴァシンを感知できなかった。アヴァシンは冷たく、不透明で、打ち解けなかった。シガルダは知っていた、多くの人間が同じように自分や自分達を感じていると――とても多くの理由から、天使にとって定命と近しい関係を持つことは難しい。だが互いの間には通常、目的を共有する喜びがあった。仲間と共にあることだけが作り出す繋がりがあった。

 アヴァシンは他の天使と何の繋がりも持っていなかった。

 だが彼女の力は疑いなかった。事実、止めることもできなかった。姉妹はアヴァシンほどの力と確固たる自信を持つ天使を見たことはなかった。関係を築いてゆく中、アヴァシンの確かな存在は揺るがない、目を離せないものとなっていった。アヴァシンは自身と行動と作戦の全てに、常に確信を持っているように思えた。

 信じる神を必要とするのは、人類だけではなかった。

 そしてアヴァシンは彼女らの姉へと対峙した。気ままな姉が型破りな行動をとり、悪い友を作っていたのは事実だった。時折彼女は吸血鬼や魔女を仲間にした、悪魔や小悪魔さえも。『敵を倒したくば、敵を知らねばなりません』彼女はそう言っていた。彼女はしばしば他の天使達から、時には妹三人からも疑われ、嫌われた。だが彼女ら四人には深い繋がりがあり、全く違う道を行っていたとしても、それでも彼女は姉だった。

 だがそれも、姉が一体の悪魔王と同盟を結ぶまでのことだった。その行動は天使全員に糾弾された。アヴァシンは彼女を異端と宣言した。あらゆる天使全員が倒すことを誓った他ならぬ怪物、その共犯者であると。姉妹三人はアヴァシンに同意したが、闇の姉との聖戦には加わらなかった。アヴァシンは彼女らの助力を必要としなかった。千年前、アヴァシンは独力で彼女らの姉とその小さな飛行隊の全員を倒し、そしてその名を口にすることさえも禁じた。

 そして今、アヴァシンは自分を終わらせるためにここにいるのだろうか。

「偉大なる行いとは? 不案内で申し訳ございません、教えて頂けますか」 シガルダは口調と呼吸を整え、落ち着くよう精一杯努めた。ギセラとブルーナの姿は全く見えず、だが背後に二人の存在を感じた。大気は新鮮味を失い重苦しく、何処かから腐敗した匂いが発せられ、近づく嵐の鋭く強い匂いでも覆い隠せなかった。

「シガルダ。とても長い間、真実は私達の目の前にありながらも見えていませんでした」 アヴァシンは言った。彼女の言葉は奇妙な早口で、ほとんど滑るようだった。「私達は怪物と戦ってきました。吸血鬼、狼男、歩く死体、魔女や屍術師や小悪魔と。何故でしょうか? それらは破壊をもたらします。略奪し、貪ります。混沌を振りまくというただ一つの意図をもって大地を蹂躙します」 彼女は言葉を切り、シガルダを凝視した。アヴァシンの両眼はまたも黒にひらめいた。シガルダは部屋が縮み、自分に迫ってくるように感じた。

「あれらの罪により、私達は罰し、殺してきました。ですが今や人類の罪は、それと同じです」 そしてアヴァシンは微笑んだ。シガルダはアヴァシンを知って千年が経つが、彼女が笑みを見せたことはなかったと気付いた。それは愛らしい笑みではなかった。顔の他の場所と、両目とは完全に切り離されていた。それはまるで、幸福や喜びを感じることなく何らかの無意識な反応が彼女の唇の端を歪めさせたようだった。

 アヴァシンの声は次第に大きさを増し、言葉は更にはっきりとして、不明瞭さは消えていった。「あれらは不浄の中に増え、新たな下僕を作り出しては森を破壊し、水を汚し、あれら同士で嘘を吐き、騙し、殺し合っています。果たして我々が守るに値するのでしょうか? それは偉大なのでしょうか? 私達はこの世界の『怪物』となるものを最後の一匹まで殺すでしょう、あらゆる吸血鬼と狼男と、その後には何が起こるのでしょう? 平和はあるのでしょうか? 永遠の光があるのでしょうか?」

 アヴァシンはシガルダの表情に混乱と、嫌気を見た。彼女は笑った、耳障りな高笑いのような声だった。「シガルダ、あなたは答えをわかっていますね。真実をわかっていますね」

 シガルダは真実を知っていた。人類は酷い行動に走りやすい。邪悪を目論み無意識に怠る、そして両方とも痛烈なものだった。彼らは嘘を吐き、騙し、殺す、だが彼らはまた素晴らしい人々でもあった。愛し、作り上げる。犠牲にし、支える。善きも悪きも、秩序を築くも混乱を振りまくも彼らは自由。そしてその自由こそがあらゆる善き行いを貴重なものに、暗い夜に鮮やかに輝く金剛石にしているのだと。

 加えて、アヴァシンの言葉は全て無意味だった。その主張に説得力があり興味深いものだとしても、人類を裏切るというのは天使の行いではなかった。それはまるでアヴァシンがこれより太陽は西から昇ると、潮流がもはや満ち引きをしないと主張するに等しかった。

 シガルダは返答しなかった。彼女は反応する意味を見いだせなかった。アヴァシンはこの会話を続けようという気はなかった。沈黙の中、アヴァシンは続けた。「わかっています、シガルダ。これは厳しく困難な真実です。ブルーナとギセラも同じように理解するには時間を要しました。ですが彼女らもついには光を見たのです」

 名前を言及され、姉妹が口を開いた。

「今となっては、私達は信じているの……」

「姉さん。偉大なる行いはされるべきなのよ」 もう一人が言った。二人の顔は見えず、シガルダは気付いた。自分はもはやどちらの声がどちらのものか、わからないと。

「私達は戻るでしょう、まもなく」 アヴァシンは言った。「あなたの力が必要になるでしょう。不純なるものは清めねばなりません。罰せねばなりません。私達は真の光をもたらすのです。私達と、私達のようなもののために、平和を創造し維持する者のために。想像するのです、シガルダ。もはや暴力も、争いも、闇もない世界を」

「永遠の光を」 背後で声がした。だが彼女はどちらの天使が言ったのかわからなかった。それとも二人が同時に言ったのかもしれない。

アート:Zezhou Chen

 アヴァシンは槍を石造りの天井へと掲げた。力のうねりが槍から放たれ、そして天井は……消えた。アヴァシンの力に消え去った。細かい塵だけが下の床に落ち、天使達を煤のような灰で覆った。

「まもなく」 アヴァシンはその言葉とともに暗灰色の空へと飛び立った。「まもなく」 ギセラとブルーナも背後で言うと、同じように去った。

 シガルダは崩れた私室に立ち、灰色の空に稲妻が踊る様を見つめていた。雨はなかった。両目から涙が零れ、塵に覆われた石の床に跳ねた。彼女は千年前に死んだ闇の姉を思い、そして悔やんだ。何故姉のために戦わなかったのだろうと、何故戦おうとすらしなかったのだろうと。

 嵐が来る。シガルダは自分の飛行隊の天使達を思った、既に幾人かはアヴァシンの元へ行ったのだろうかと。人類はアヴァシンに対抗して戦うだろうかと考えた。僅かだろう、ごく僅か。だがそれは問題ないとわかっていた、自身の目的に誰も賛同しなくとも。嵐が来た。今回は、私は戦う。


「メイリ! メイリ!」 夕闇が増す中にケルセの声が響いた。あの子は何処へ? ケルセは玄関の下を見て藪の向こうを覗いた。他の村人のほとんどは彼女を無視していた。あの子がまた出ていくはずがない、それが真実だと確信されるように彼女は自身に言い聞かせた。ケルセは数か月前の出来事を考えないように努めた、息子が遊びに出ていった時のことを。アヴァシンが現れて息子を救ってくれた時のことを。

 村人のほとんどは彼女を信用しなかった。彼女とメイリは村にたやすく受け入れられたことはなかった、ハンスが死んでからは特に。彼が死んだ後、ケルセはただ騒がしい子供一人を連れてケッシグから来たよそ者だった。そしてあの夜村へと戻り、アヴァシンが現れたと子供を抱きかかえながらわめく……そう、自身でもそれを信じられなかった。

 だがアヴァシンは現れ、子供を救ってくれたのだ。ただ一人の子供を。メイリは新月の下に生まれ、常に特別で、活発で自由奔放な子供だった。メイリは母親似だという村人は正しかった。彼は父親と同じように、ケルセに多くの喜びと多くの痛みをもたらしていた。だがその魂は母のように休みなく、探究を熱望していた。

 あの夜の出来事について村人に明かしていないことがあった。メイリに対して怒り狂ったことを。確かに彼女は息子を心配し、半狂乱になっていた。息子を見失った狼狽がアヴァシンへの祈りを焚き付け、その強すぎる祈りにアヴァシンは応えたのだ。アヴァシンが息子を彼女の腕へと連れ戻した時、ケルセが感じたのは安堵だけだった。圧倒的な喜びに幸せの涙が溢れた。

 あの変化が来るまでは。

 彼女はそれを表現することも、説明することもできなかった。あの瞬間、愛情と心配は全て消え去り、闇が増す中に消えた。そして憤怒が彼女を満たし、稲妻となって心臓を打った。そしてただ怒りだけでなく、逆巻く憤りと軽蔑が。メイリに対して決して感じたことなどなかった感情だった。更に悪いことに、自分はその感情をアヴァシンの前で見せたのだ。アヴァシン、メイリと自分を救ってくれたお方の前で。

 だがアヴァシンが暗い草地から去ると、怒りもまた去り、戻ってくることはなかった。そして最終的にケルセの心を占めたのは息子が戻ってきたこと、その素晴らしい喜びだけだった。またあの子を見つけないと。

アート:Cliff Childs

 村外れの竿の上で、冷たい冬の風に松明の炎がちらつき散っていた。夕闇が深まるごとにその影は長くなっていった。彼女は唇を噛み、次にどこを探そうかと考え、そして背後に大きな叫び声を聞いた。彼女は恐怖に振り向き、だがそこにはメイリだけがいた。息子は顔に大きな笑みを浮かべ、嬉しそうに叫びながら駆け寄ってきた。「お母さん、お母さん!」

 彼は母の腕へと飛び込み、全力でしがみついた。彼女も同じ程にきつく抱きしめた。私が世界に必要なのはあなただけ。村の人は嘲っていればいい、信じなくたっていい。気にしない。あなたがいる。

「どこへ行っていたの?」 彼女は苛立ちを見せないようにした。息子は探検が好きで、彼女も探検をさせたがっていた。息子にはいつも……

 不意に松明からの光が全て消えた。炎が消えていた。風ではなかった。冷たい大気は完全に静止していた。メイリはケルセにじっとしがみつき、彼女は息子を抱き寄せた。村の中から悲鳴が上がり、そして上空の光のひらめきがケルセの目にとまり、彼女は空を見上げた。

 二人の上を天使達が飛んでいた。

アート:Tyler Jacobson

 夕闇の橙と紫の空に映えて、翼の天使達が村の上空高くに浮いていた。全員が武器を帯び、剣と槍と杖を、そしてその多くが黄金や銀色の光に輝いていた。星が天から降りてきた、ケルセは思った。彼女がメイリを見ると、少年は驚きに口を開けて空を見上げていた。

 そして天使の一人がその輝く槍を村へと向けた。光の柱が槍から一軒の家へと落ちた。少しの間その家は眩しい光に包まれたかと思うと、藁ぶきの屋根が炎に燃え上がった。その天使は槍を別の家へと定め、そしてもう一度光がひらめき、爆発が上がった。他の天使達は低く降下して炎の剣を振るい、悲鳴と絶叫が夜に響き渡った。メイリの疑問は恐怖へと変わり、母の腕の中で悲鳴を上げた。

 ケルセは動けなかった。筋肉が凍り付き、両足から地面に根が生えたようだった。当初、天使達は吸血鬼か狼男か何らかの邪悪を退治するためにここにいるのだと彼女は考えた。だが村の外れからは村人が死ぬ様子が見えた。剣で切り捨てられ、もしくは黄金の光と炎に包まれて。天使が私達を殺している。メイリが再び悲鳴を上げ、ケルセははっと動いた。

「メイリ、私の可愛い子、聞きなさい。走りなさい、遠くまで速く走って、森の中へ入って、戻ってきてはいけません。何があっても後ろを見ては駄目、戻ってきては駄目」 ケルセは自身の言葉を、まるで他の誰かが自分達に語りかけているように聞いた、そしてその響きの穏やかさに驚いた。更なる爆発と悲鳴が村から上がった。

 メイリはすすり泣いた。「お母さん! 僕、できない……」

「メイリ!」 ケルセの声は鋭く轟いた。「聞きなさい! 走って! 今すぐ走って、今までよりもずっと速く! 森へ!」 彼女は抱擁を解き、息子を押しやった。少年は目に涙を溜めながら少しだけ母親を見て、そして背を向けて駆け出すと村の端を縁どる茨と垣を越えていった。ケルセは心臓に鋭い痛みを感じた。走りなさい、私の子!

 ケルセは見上げ、その破壊を始めた天使が空から自身を見下ろしているのに気づいた。彼女と彼女の向こうを、森を。駄目、あの子を捕まえさせはしない! 彼女はその天使へと叫び、その天使が浮かぶ場所の下へとまっすぐに駆けた。

 アヴァシン。ケルセは思った。もしかしたら天使達は邪悪な霊に取り憑かれたのか、それとも何か悪意ある力が天使達に扮しているのか。だが何が起ころうとも、アヴァシンが自分達を守ってくれるはずだった。その天使の真下に立ち、ケルセは頭を下げた。アヴァシンよ、私の祈りをお聞き下さい。私を、私達をお助け下さい。お願いです、アヴァシン様、今一度私の息子を、彼をもう一度救って下さい。私達皆を。

「その嘘を祈る必要はない、生き物よ。私はここに、お前の目の前にいる」 ケルセは頭上から声を聞いた。顔を上げると、黒をまとった天使がそこにいた。その翼は血の赤に染まり、両目は黒く無慈悲に、ほんの数か月前に見たばかりの慈愛の瞳とは似ても似つかなかった。その声は覚えがあると同時に奇妙で、彼女の言葉を損なう何かの語調があった。

 アヴァシンだった。アヴァシンがここにいて、村を破壊していた。

 何もかもありえない。ケルセは一瞬、これは夢なのではと思った。彼女はアヴァシンの槍に気が付いた。その曲がって長い刃は鮮やかに美しく輝くアヴァシンの紋章から伸びていたが、その紋章が何もかもおかしかった。歪みよじれていた。まるでその金属がどういうわけか、腐ったかのように。ありえない。金属はあんなふうには歪まない。これは何もかも悪い夢。

 だが彼女はこれが現実だとわかっていた。天使達が自分達へと敵対した。天使達が自分達を殺していた。

「どうして私達を見捨てたのですか?」 ケルセは叫んだ。彼女はアヴァシンに言っているのか、無慈悲な夜空に言っているのか定かでなかったが、どちらからも反応はなかった。

 天使が剣と炎で攻撃を続け、村の至る所で悲鳴が上がっては唐突に消えた。ケルセの背後で炎が高く上がり、彼女の村を貪り、彼女の人生を飾ってきた全てを貪った。アヴァシンは緩やかに降下し、その赤く染まった翼は動かず、その黒瞳を伏せた。「大いなる行いが始まります! そなたにその栄光を目撃させてあげましょう」 アヴァシンは静止し、ケルセの先を見た。「あの小さきものは何処へ? ここにいましたね」

「もういない、お前の手の届かない所だ、汚れた者よ」 ケルセはむせび泣き、煙と悲嘆の中で息をしようともがいた。逃げて、メイリ、逃げて。きっと安全な所がどこかにある。可愛い子、そこを見つけなさい!

「私の手の届かぬ所へ?」 アヴァシンはケルセの目の前に着地した。ケルセは何処かから煩い雑音を聞き、苦痛に耳を塞いだ。アヴァシンは手を伸ばし、ケルセの頬に触れ、その震える皮膚を撫でた。「全てが私の手の届く所に。私の領域に限界はありません。そして私の領域は腐り果てました。腐ってしまった。全てを清めねばなりません。全てが純粋でなくてはなりません」

 アヴァシンは言葉を切り、手を引っ込めた。「構いません。いずれあの小さきものも見つけ出しましょう。あなた達全てを、やがては」 彼女は一歩下がると槍をケルセへと向けた。「全てが燃える。全てが血を流す」 槍の先端が赤と黄金の光を散らした。

 ケルセは目を閉じた。私の可愛い子。光は眩しく、とても眩しく……可愛い、可愛い子……


 アヴァシンはその定命の残骸が吹き飛ばされるのを見ていた。灰はしばし散り、渦巻いて飛び、そして地面に落ちた。混沌は秩序へ。腐敗は清純へ。平和が広がってゆく。

 空が彼女へと囁いていた。川、森、草、月。全てが輝かしい真実を囁いていた。

『こんなにも長い間、私は嘘つきどもの囁きに耳を澄まし、世界は苦しんでいた』 今、彼女は真実を耳にしていた。何百年にも渡って聞いてきた、混沌とした矛盾する祈りとは異なり、すべての囁きがまったく同じ言葉を繰り返しているがゆえに、それが真実だとわかった。『定命というものは矛盾した存在だと、なにゆえ私はわかっていなかったのだろう? あれらの言葉は常に変化する。いや、今は問題ではない』 今や彼女は理解していた。

 彼女は月を見上げ、そして月はその美しい言葉を囁いていた。全ては燃える。全ては血を流す。アヴァシンは自身にその言葉を繰り返した。それは彼女を喜びで満たす和らぎの歌だった。全ては燃える。全ては血を流す。天使達が村を燃やす偉大なる行いの中、彼女は声を立てて笑った。

アート:Johannes Voss

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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次元概略:イニストラード