守るべき約束
前回の物語:全てを賭しても
数週間前のこと、チャンドラ・ナラーはゼンディカーの災難には関わらないことを決意した。彼女はレガーサ次元に残り、紅蓮術師の僧たちが集う寺院にて修道士長の地位を受け入れた。彼女の思考はしばしば、今も荒れ狂うゼンディカーでの戦いへと、そこで被っているであろう友人たちの苦痛へと――そして自身が提供できるであろう力へと彷徨う。だが彼女はレガーサでの責務を果たすと約束しており、約束は約束だった。
眠くはなかった。どのみち睡眠は選択肢になかった。
羊皮紙が何枚も積み重なってばらばらに、寝室の床に散乱していた。部屋の隅に背中を精一杯押し込んだとしても、チャンドラは最初の頁に書いた文章を判読できた。
鼓舞の演説
ナラー修道士長
それが全てだった。
羽ペンは彼女が置き去りにした場所にそのまま残っていた――その先端を石材に突き刺して。チャンドラは自身の脳が頭蓋骨からのたうち出ようとするのを感じた。
明日は伝統であるケラル山の挨拶を行うことになっていた。明日はルチ修道院長と生徒全員を感動させる予定だった。よく練られた得意の紅蓮術を連続で実演したり、彼らが敬愛するヤヤを想起させるかもしれない、鼓舞するような言葉で。そしてもしかしたら幾つかの炎を基にした隠喩を。自分はケラル砦の修道士長としての価値を証明することになっていた。修道士長が皆、時の始まりからそうしてきたように。たぶん。
彼女は修道士長の外套をまとったまま寝台に飛び込み、寝室の天井をじっと見上げた。
自分でこの人生を選んだんでしょ。彼女は自身に念を押した。
彼女は約束をしていた。ゼンディカーで何が起ころうとも、彼らがどれほど彼女を必要としていようとも、その戦いに加わることがどれだけ……解放的であろうとも。これは今の、自分の役割だった。
《山》 アート:Sam Burley
彼女は壁に刺さったままの羽ペンを認め、そしてゆっくりと視線を扉へと移した。彼女は立ち上がり、入口へと向かうと身体をのり出し、砦の廊下を前後にちらりと確認した。ゆらめく火鉢から影が踊った。夜の明かり。砦はここ数時間、静かなままだった。
約束を守るってこういうこと、彼女は自身に言い聞かせた。もう子供じゃない、あんたには――彼女は扉の枠に片手をつけて身体の安定を保ち、次の言葉を絞り出した――責任があるんだから。
チャンドラは唇を噛み、入口に立ったまま、廊下を今一度前後に確認した。そして部屋の扉を固く閉ざした。
彼女は白紙の演説を、そしてほとんど減っていないインクの瓶を見下ろした。
そして両足をしっかりと踏みしめ、腰に修道士長の外套を巻きつけ、反対側の壁をまっすぐに睨み付けた。
ほんのちょっと、見るだけ。
彼女は自身の意思で周囲の世界を押しのけ、それを変えさせた。ゼンディカーへと。
寝室が溶けるように消えた。壁は湿った夜の大気と化した。石材の床は石だらけの坂道となった。天井は浮遊する大地の塊と傾いた菱型の岩が散らばる暗い空となった。
チャンドラは本能的に屈みこんだ。自分の顔がゼンディカーの土で汚れたのはもう何百日、もしかしたら何千日も前かもしれない。今も豊かな土の匂いを感じられた、この場所にある自由な純粋性を、鋭い刃のように大気に漂う戒めを。だがそこには何か新しいものがあった――乾いた塵の匂い。枯れ果てた匂い。
心臓が跳ね、彼女は儀礼の外套で掌をぬぐった。自分は唐突に、ゼンディカーの莫大な危険の中へと準備も装備も無しに放り込まれたのだ。彼女は息をのんだ。
《天空の滝》 アート:Philip Straub
彼女は幹がよじれた木々と尖った岩山に囲まれていた。自分が何処にいるのかを少しでも把握すべく、彼女は高台へと急いだ。大地が目の前に広がり、ゆらめく海へと続いていた。その海の向こうには白い石の塔が並ぶ街がそびえ立っていた――海門! 彼女は目的地のすぐ近くへと渡ってくることに成功していた。ギデオンが、そこで自分を見つけろと言っていた場所へ。白い塔は堅固な防波堤に繋がっており、海の上には面晶体が半円を成して浮かんでいた。それらの魔法文字は夜闇にきらめき、波先に反射していた。
遠くに、チャンドラは奇妙で巨大な影が地平線に伸びているのを見た。だがそれが何なのかを認識はできなかった。それはきっとゼンディカーの重力を無視する山脈か巨大な地塊が、わずかな光によって極悪な姿に歪んだのだろう。
そして彼女の真下に、崖の底に、人々がいた。知った顔もあった。その鎧のように天性の統率力をまとい、ギデオンが指示を叫んでいた。
「気を付けろ、そうだ――いいぞ」 ギデオンが言っていた。「よし、海門組、引け!」
チャンドラはギデオンの視線を追いかけた。海の上に浮かぶ大型の面晶体の一つが、動いていた。事実、幾つもの人影がそれを水面沿いに誘導しているのが見え、太い綱で空中を引きながら同様に魔法で押しやっていた。防波堤沿いに並んだコーの縄使い達が誘導綱を引き、少しずつ面晶体を所定の場所へと誘導していた。
「そうだ――そこで止めろ!」 ギデオンが叫んだ。
二番目の組が逆方向にそれを引いた。動いていた面晶体は速度を緩め、輪の中に位置を見つけて停止した。
「位置はよし」 ギデオンが言った。「高度よし。次の組、綱を用意しろ!」
皆、やってる。彼女は思った。私の友達が皆、やってる。ここに来て、力を貸してる。この世界を救ってる。
チャンドラは知らず知らずのうちに拳を握りしめた――矜持の拳を――そしてそのために彼女は崖の端で眩暈とともによろめいた。彼女は体勢を整えたが、幾らかの小石が背後の小道を落下していった。
「皆! ちょっと!」 頭上から女性の声が聞こえた。
チャンドラは二本の屈曲した木の間に身をかがめ、一本の枝越しにちらりと見上げた。一人の斥候が頭上を飛んでいた。空マンタの幅広い身体が宙を滑空し、その手綱をエルフの女性が握っていた。マンタは鋭く旋回し、斥候はチャンドラが隠れている付近を見下ろしていた。
「あちらの森で動きが!」 そのエルフが下方へと呼びかけた。
下からギデオンの返答が聞こえた。「もう一度見てくれ」 彼は叫んだ。「数と大きさを知りたい」
そのマンタ乗りは大きく曲がってチャンドラの位置を再び確認した。斥候の鋭い目に発見されるのは時間の問題だった。ここにいるべきではなかった。ただ、ほんのちょっと見にきただけなんだから。
チャンドラは登ってきた小道を、半ば坂を滑りながら駆け下りた。彼女は緩い岩の上を滑りだし、そして弧の形を描く岩をかろうじて掴んだ――だがそれはまた別の揉め事へと完全に身を投じることになるだけだった。
どうにか自身を止めた時、目の前に骨の顔があった。筋ばった肉の四肢、骨の頭部を持つ生物が三体。それらが外面と内面にまとう印象は、心をかき乱すようだった。
《目なしの見張り》 アート:Yohann Schepacz
エルドラージ。これはエルドラージ。この世界を困らせる生物。ギデオンとジェイスが自分に戦って欲しいと求めた生物。
いちばん大きなものが活発な、空気が鳴るような囁きを発した。そしてもう二体が同じく応え、チャンドラへと向かってきた。
「や、や、やめなさいよ」 彼女は小声で言うと一瞬だけ上空を確認した。エルフの斥候は彼女の方角へと身体を傾けていたが、旋回を終えてはいなかった。彼女は敵を再び見た。そして同時に一体が彼女の顔面へと、刃のような脚で切りつけてきた。
彼女は避けたが、もう一体のエルドラージが迫ると、彼女の腕を巨石に押さえ付けた。彼女は服を引き裂いて腕を解放したが、三体目が彼女へと飛びかかり、ぬめった鋏で彼女の顎と髪を掴んだ。
「失礼ね!」 彼女はくぐもった声で言うと、胸骨を片手一杯に握りしめてその生物を身体から引き剥がした。
いちばん大きなものが彼女へと倒れこみ、肩にのしかかって外套を強く引いた。彼女はそのエルドラージのぎざぎざの前肢が自分を押さえ込もうとしているのを感じた――もしくは自分を押しつぶしてしまおうとしているのを。
彼女はその重みの下でうめき、足がかりを保とうとした。痛むほど背骨が曲がり、彼女は膝をついた。彼女はその生物の肢を押し上げ、その背骨を手に確保した。それは今も押し付けており、チャンドラは顔をしかめて唸り声を上げた。彼女は全力を出し、足をつけ、押しのけた。
「っっりゃあああ!」
その生物はよろめき離れ、束の間彼女は自由になった。
空マンタが頭上を通過した。あの斥候は自分を見たのだろうか? エルフの斥候は口笛を吹き、飛行生物は再び旋回し、翻るとチャンドラへと向かって降下してきた。
もう時間はなかった。チャンドラはそのエルドラージに視線をやり、皮膚が熱に疼くのを感じた。彼女は自身の身体を押し込んで回転させ、その回転は憤怒と化し、その憤怒は炎と化した。
《炬火の炎》 アート:Steve Argyle
身体から四方八方へ押し出すように、彼女は炎のドームを放った。一瞬、視界の全てが自身の炎の閃光に埋め尽くされ。だが再び周囲の夜が見えた。エルドラージどもは転げていたが、まだ生きていた。それらの焼け焦げた身体と四肢が攻撃を続けようと動いていた。
もう駄目もう駄目もう駄目。
それらは悪戦苦闘して直立し、乾いた音を立てて彼女へ鳴いた。彼女は目の前で腕を交差し、足元の山からマナを立ち上げた――そして両脇へとその腕を振り下ろし、炎の刃を同時に三つ作り出してそれぞれを切り裂いた。
その生物は動きを止め、それぞれ自身の墓穴から煙を漂わせていた。
彼女は勝利に拳を握りしめた。半ば叫びかけ、だが思い直すとともに手で口を急ぎ覆った。彼女は木々の下へ駆け込むと再び上空を見上げた。エルフの斥候が頭上を通り過ぎたが、その目は煙を上げるエルドラージの屍に集中していた。
身体が震えた。恐怖と高揚とが彼女の内で太鼓のように鳴らされて響いていた。彼女は木の幹に寄りかかり、ゴーグルのガラスを外套の裾で覆って反射を隠し、身を潜め続けられることを願った。
これでいいの。このために来たの。みんなが大丈夫だって確かめるために。それがわかればいい――私は必要ないってわかればいい。
彼女はレガーサへと戻るべく次元渡りを開始した。ゼンディカーの風景が周囲で溶け始めた。彼女は自身に今一度、ギデオン達を振り返ることを許した。その時だった。地平線の影を彼女は見た――浮遊する地塊か不揃いな山だと思い、気にしなかったそれを。
夜明けの最初の光線の中、彼女は地平線の巨大な姿が、動いているのを見た。それはゆっくりとその四肢をうねらせていた。そう、それは四肢を持っていた。二つ伸びた顎骨が夜の暗闇に青白く尖っていた。
それは単に聳えているのではなかった。近づいてきていた。海門へ向かっていた。ギデオンや他の者へと、世界にその死の道を切り裂きながら。通り道の生命全てを死の脅威にさらしながら。
先程戦った生物は――あれはこの怪物に比べたら無意味と言ってよかった。あれが――ウラモグが――真に戦うべき存在。あれが……これまで世界になかった死の塵の匂いをもたらしたもの、そして、同胞たちが命を賭して対峙しようとしているもの。
《絶え間ない飢餓、ウラモグ》 アート:Michael Komarck
自分が、解放に加担したもの。
――だがウラモグの姿は、網膜に波打つ影となって消え去った。彼女は既にそこからプレインズウォークしていた。周囲でレガーサが現実となり、面晶体と、友と、エルドラージの巨人へと続く大地の広がりと入れ替わった。彼女の寝室が周囲に明るく現れ、窓からは朝の光が差し込んでいた。
「そんな!」 彼女は大声を上げた。
世界が固まると同時に、性急に扉を叩く音がチャンドラの耳に入った。扉が開け放たれ、ルチ修道院長の苛立った顔が現れた。チャンドラの目に、それはまるで今も残るウラモグの残像の向こうで揺らめいているようだった。
「チャンドラ?」 ルチ修道院長が怒り気味に言った。「準備は良いのですか? 演説ですよ! 詠唱はもう始まっていますよ!」
チャンドラは口をあんぐりと開けた。
「ここでの責任から逃れることはなりませんよ、ナラー修道士長」 ルチ修道院長は言った。「約束を破ってはなりませんよ」 そう言って、ルチは廊下を急ぎ下っていった。
非現実的なもやの中に泳ぎながら、彼女は二歩進み、屈み、羊皮紙の束を取り上げた。自身の演説を。
『鼓舞の挨拶』それが彼女自身の手で書かれた最初の一文だった。『ナラー修道士長』
彼女は扉を見た。それは砦の中へと、彼女の生徒へと、ルチ修道院長へと、レガーサへと続いていた。どうやってそこへ向かって動けばいいか、彼女の両足は定かでなかった。
不意に彼女は頁を手の中で塊になるまで丸めた。その頁は炎と燃え上がり、一瞬にして燃え尽きた。彼女は指の間から灰の破片が落ちるままにした。
約束を守るってのはこういうことなの。
彼女は部屋を出た。その心に今もウラモグの姿を焼き付かせたままで。
修道士長は一つ頷いて生徒たちへと挨拶をした。ケラル砦の大広間にて、とても多くの顔が彼女を見ていた。広間の後方からはルチ修道院長が見つめていた。
「さて、んん、おはようございます」 彼女は言った。彼女は演壇となっている石のオベリスクに寄りかかり、どのように言葉を発するかを思い出そうとした。彼女は外套の袖へと咳こんだ。
彼女は眉をひそめ、修道士長セレノックの言葉を幾つか思い出そうとした。「炎とは象徴です」 彼女は硬く言った。「そう、炎。それは――私達皆の心に」
それはどこか、セレノックが言った時よりも良いもののように響いた。
僧たちは互いに顔を見合わせた。何人かが咳払いをした。
「私達は確かめねばなりません……」 目の前の演壇を見つめながら、彼女の声はかき消えた。「燃やすの!その炎を。そうするのよ、えっと」
彼女はちらりと顔を上げてルチ修道院長の顔を見た。失敗だった。チャンドラは人差し指で額をぬぐった。
そして咳をし、息を吸い込んだ。
「いい?」 彼女は言った。「私は小さい頃にここに来た、混乱したままで。この力で何をするのか、全然わかってなかった」 チャンドラが手を掲げると、そこに炎の花が咲いた。彼女は手を振るって炎を消した。「この場所の皆が――セレノック修道士長が、ルチ修道院長が、あなたたち皆が――私に見せてくれた。私を制御しようとはしなかった。私を変えようとはしなかった。私が私自身であることを、どうやって表現するかを教えてくれた」
彼女は目の前の何十人もの個々の顔を見た。「私がその好意に恩返しできる何かがあるとしたら、それは同じようにあなたたちを励ますこと。あなたたち皆は違う存在、違うあなた。本当は、ケラル砦の炎の僧じゃない。ヤヤの教えの信徒でもない。私や他の修道士長の言葉を聞くためにここにいるんじゃない。皆、何が本当に大切か、それぞれ違う考えを持っている違う個人。あなたたちがここにいるのは、ここが、あなたが何者かを探すことを許されている場所だから」
これは心からの言葉、彼女はそう思った。私は言おうと思ったことを言ってる? チャンドラはルチ修道院長の顔を探したが、群集の中に彼女を見つけることはできなかった。
「失望させてごめんなさい」 チャンドラは続けた。「だけど私が、ケラル山の演説の伝統を称える一番の方法は、このケラル山の演説を聞くのを止めなさいって伝えることなの」
僧たちは再び顔を見合わせた。チャンドラは修道士長の外套からベルトを外し、袖から腕を抜き、それを肩から放った――彼女はその下にいつもの鎧をまとっていた。彼女はその外套を両手に下げた。丁寧に、他の誰かにとっての大切な宝物を持つように。
「あなたたちそれぞれが、世界に捧げられるただ一つの才能を持ってる。他の誰かにできない手助けができる。自分を信じて。あなたの才能を信じて。そうすればあなたのその才能を表現できる。私や他の誰かの言葉に全部の信頼を預けないで」
数人の僧がゆっくりと立ち上がった。頷く頭があった。彼女は数人が笑みを浮かべるのを見た。
「ここの外にあなたを待っている目的がある。伝統や学びよりももっと重要なものが」 彼女は続けた。「今すぐ助けられる危機が、あなたなしには解決できない問題がある。行きなさい。言って、見つけなさい」 彼女は頭を下げ、セレノックの外套を敬礼のように掲げた。「ありがとう」
多くの僧がかぶりを振り、口は失望に歪んでいた。だが他の数人は歓声と拳を上げていた。チャンドラは彼らが生き返るのを感じ、瞳が覚醒するのを見た。何週間もの決まり仕事と暗喩からは見なかったものだった。
《燃え盛る炎、チャンドラ》 アート:Eric Deschamps
「ありがとう」 彼女は言った。涙をこらえ、外套を腕に抱えながら。「ありがとう、私にこんなに良くしてくれて、ありがとう」
チャンドラは微笑み、演壇に背を向けた。彼女はルチ修道院長が待つ壁へと向かった。
チャンドラの笑みは陰った。「ごめんなさい、修道院長。でも私には行くところがあるの」
「それが、あなたが感じたことですか?」 修道院長は無感情に言った。「あなたはそれを求めているのですか?」
「ゼンディカーへ行きます。私はそこで必要とされているんです」
チャンドラはルチの目を見て、出発がもたらす苦しみを即座に知った。自分はこの場所を見捨てるのだ。自分を受け入れてくれた場所を、自分を信じてくれた場所を、自分自身にしてくれた場所を。
ルチ修道院長の表情は読めなかった。「あなたの心は揺れています。その決意は確かですか?」
チャンドラは視界の端にウラモグの幻影がゆらめくのを見た。「はい。そう信じています」
「許可できません」 ルチ修道院長が言い放った。「あなたはここで必要とされています!」
「行かなきゃいけないの」 チャンドラは言った。「聞いて。離れないといけないのは謝ります――修道士長不在にしてしまうのは。でもそれは全部わかってます――」
ルチ修道院長が彼女の言葉に割って入った。「こんな事を言わねばならないのは謝ります。ですが私はあなたの約束を思い出させなければなりません。あなたはこの砦の修道士長として滞在すると」
「何?」
「あなたはこの場所に誓った。あなたは去ることを考えましたが、留まると決めました。生徒たちを連れ戻しなさい。あなたの教えを伝え、紅蓮術を教えるのです」
チャンドラは訝しんだ。「何を言ってるの?」
ルチ修道院長は極めて真剣だった。「去ることは許しません」
チャンドラは拳をきつく握りしめ、だが無理矢理それを再び開いた。彼女はかぶりを振り、含み笑いをした。「ねえ、聞いて、私は――」
「チャンドラ、また言わなければなりませんか? 修道士長であったとしても、私はあなたの長です。言った通りです。ここに留まりなさい」
拳を。「留まりません」
「留まるのです、あなたの意思で」
「やめて」
「あなたには責任があるのですよ!」
「そうよ、私には責任があるの!」 チャンドラは叫んだ。彼女は何処かを指し示すように宙へと指を突き出した。「今も苦しんでる人たちがいて、私は力になれる。できるの。ここに留まって、いつまでも訓練を繰り返すなんてできない。出て行けるのに、悲劇を止めるために皆が私に教えてくれたことを使えるってわかってるのに!」
ルチ修道院長の表情は突然、静かな矜持に輝いた。「では、確かなのですね」 彼女は柔らかな声色で言った。「よくやりました、チャンドラ」
チャンドラは息をのんだ。「え……」
「あなたの心の真実を知ったのですね」
「これを――これを聞かないと駄目だったの?」
「あなたが、それを知らなければなりませんでした」
チャンドラの肩から力が抜けた。彼女は目の端に自然と浮かんだ水滴を拭った。「ありがとう……ございます」
ルチ修道院長は手を伸ばし、修道士長の外套を受け取ろうとした。だがチャンドラは院長を勢いよく抱きしめた。チャンドラはルチが躊躇するのを感じたが、その腕が重ねられた。
「行きなさい、チャンドラ・ナラー」 ルチは彼女の髪へと囁いた。「行って、世界を救いなさい」
「約束します」 チャンドラはかすかな声で言った。
チャンドラは院長を放した。彼女はセレノックの外套を持ち上げ、それを注意深く折り畳んだ。そして再び、今度は違う方法で畳み、そして再び畳み直して自身が三度作り出した皺くちゃの非対称の束を見て眉間に皺を寄せた。彼女はそれをもう一度畳み始めたが、ルチ修道院長にそれを優しく取り上げられると微笑んだ。
「上々です」 ルチは叱るように言った。「上々ですよ」
チャンドラは振り返り、生徒の多くが拍手喝采をした。
「元気でね」 彼女は言った。「元気で。いつの日か、もう一度会えますように」
大気はゼンディカーの塵の匂いがした。だが希望はあった――同時に塩水の匂いもした。つまり遠くはなかった。彼女は海岸沿いの森林地帯のどこかに現れていたが、木々の間から海門の塔を見ることができた。
そしてウラモグも。そいつは既に都市へと達していた。その怪物のような頭は塔よりも高く聳え、骨ばった顎と二又の腕が都市を脅かしていた。手遅れになっていないことを彼女は願った。
海門の防波堤はすぐ近くで、木々に覆われた坂を下ればすぐだった。エルドラージの小規模な群れが彼女の目の前の枝から落ち、音を立てて囁き、棘の四肢を振り回した。だが彼女は身を翻して腕の一閃とともに呪文を放ち、それらは炎の魔術の揺らめきの中に灰と化した。彼女は焦げたそれらの間を肩で押しやるように通った。
海門まで辿り着き、チャンドラは大防波堤の頂上へ、広い白石の道路を駆け上がった。
何百ものゼンディカー人がその防波堤からウラモグを見ていた――
そして喝采を上げていた。
チャンドラはその防波堤の端まで駆け、自分が見ているものを把握しようとした。
ウラモグは囚われていた。
チャンドラは巨人が面晶体の輪の内部で暴れるのを見た。ウラモグはそれを越えて動くことができずにいた。周囲至る所で、エルフもコーもゴブリンも叫び、無能となった巨人を嘲っていた。驚いたことに八本腕の海棲生物が海から出現し、だがその肢を用いて様々なエルドラージの落伍者を叩きつけているのをチャンドラは見た。あれも一緒に戦っているの! 彼女はマーフォークの魔道士が、手にした二叉の槍でその八本腕の怪物を指示している様子をかろうじて確認することができた。
チャンドラの心臓が跳ねた。彼女は防波堤の上を急ぎ引き返し、笑顔と抱擁を交わし合うゼンディカー人達を避け、防波堤越しによく見ようとした。見知った顔を探そうとしたが、ジェイスもギデオンも判別できなかった。
その時、彼女は翼のある影が海の上を走ったのを目視した。時が遅くなったかのようだった。視線を上へ向けると、上機嫌な様子の悪魔を見た。恐怖が激痛となって内臓を突き、身体全体へと流れるように広がった。その悪魔は力強い翼をはためかせて宙でのけぞり、ウラモグの牢獄の上で停止した。そして遥か下方から力を吸い取るかのように、鉤爪の手を降ろした。それは難解な言葉を発し、チャンドラは地面が震えるのを感じた。
周囲で、歓声は心配の囁きへと静まった。
今や、面晶体はその悪魔へと先端を傾けていた。牢獄はその悪魔を頂点とする力の渦に、何か新たな面晶体の装置と化した。暗黒のエネルギーの脈動が面晶体から弾け出て、その悪魔へと収束した。その力を得て悪魔の身体が震え、頭部がのけぞった。ウラモグの頭蓋の頭上に浮かびながら、悪魔は低く深い、満足の笑い声を上げた。
《灯の再覚醒、オブ・ニクシリス》 アート:Chris Rahn
悪魔が笑っている、それが良い知らせのわけがない。
チャンドラは両手へと唾を吐き、それをこすり合わせ、一度に三つの炎呪文を唱えることで何処からともなく途方もない量の炎を作り出した。彼女は身体をよじり、唸り声とともに旋回し、その悪魔をめがけて紅蓮術の弾幕を一気に放った。彼女の呪文はその暗黒の力線へと速度を増して迫ったが、それらは力の線に絡め取られて飲み込まれ、炎は目標に届くことなく散った。
地面が揺れ動き、周囲の呟きは悲鳴に変わった。ウラモグを捕えた面晶体の輪を見下ろすと、それは傾き震えていた。地面が更に激しく震え、防波堤を揺らして巨大な波をはね上げた。恐怖に悲鳴を上げながら、ゼンディカー人達は防波堤沿いに先を争って逃げ出した。
ハリマー側から波がうねって防波堤を叩いた。ひときわ巨大な波が高く聳え、走る避難民数人の上十メートルを超える高さで迫った。それが彼らを打ち砕き防波堤を水浸しにするよりも速く、チャンドラは熱を放射してその波を打ち、蒸気へと変えた。彼女は噴出する海水を紅蓮の大気で打ち返しながら、彼らと共に駆けた。
群集とともに低地へと駆け下り、チャンドラは顔を上げ、そして海門の塔の頂上が前後に揺れ動くのを見た。一本の尖塔にひびが走り、白い塵と瓦礫が彼らの上に降り注いだ。
悪魔が力を得る呪文が終わると、重力が面晶体を海面へと捕え始めた。海門の壁へと繋げられた綱を切断しながら、面晶体は波立つ海へ一つまた一つと落下していった。輪は壊れた。ウラモグの牢獄構造は断ち切られた。
もはや抑えつけられてはおらず、ウラモグは黙示の花のごとくにその身体を広げた。巨人は近くを逃走していた人々を掴み、彼らは直ちに塵と化した。
チャンドラは憤怒の絶叫を上げた。彼女はウラモグへと炎の斉射を放ったが、それらは効いていないようだった。彼女は今も群集の中にギデオンもジェイスも見つけられていなかった。悪魔を止めることも、再び解放された巨人を傷つけることもできずにいた。
これほど最悪な日ってある?
海門の向こう側の岩がちの半島が震え、そしてその大地が音一つとともに砕けた。岩と大地が自壊し、陥没穴と化して自らを飲み込んだ。その穴は不自然な様子で広がり、穴の端は歪み、内側へと縮まり、地形は玉虫色の輝きを放つ奇妙な直角の模様を成した。
何か巨大なものが地下深くで蠢き、地表を目指していた。
やめてよ、なんで、なんで今なの?
巨大な、黒曜石のような物質の尖った破片が揺らめきながら、地面から突き出された。その存在が姿を現す中、チャンドラはその破片が巨大な台のような丸い頭部の上に列を成して浮いているのを見た。そしてそれは鎧のような、分かれた肢の上半身に埋め込まれており、更にそれは地下に隠された触手の森に支えられていた。姿を現しながら、それは外套を脱ぐように大地を零し、大地は転がり落ちて海へと降り注いだ。
それは単にエルドラージがもう一体、戦いに加わったというものではなかった。もう一体の神的存在が到来した。ウラモグのような――久遠の闇の恐怖の神格が。
エルドラージの巨人、その二体目が参戦した。
アート:Lius Lasahido