マローの(少しは)秘密のオリジン・ストーリー
マジック・オリジン・ストーリー特集へようこそ。今週はこの公式サイト全体で、我々のマジックに関するオリジン・ストーリーを諸君に紹介していくことになる。しかし私に関してはちょっとした問題があって、私のマジックに関するオリジン・ストーリーは前回のオリジン・ストーリー特集のときに書いてしまっているのだ。その時のオリジンというのはマジックそのもののオリジンだったが、特別寄稿としてマジックのオリジンに関する記事を書いていたので、私の記事では「Once Upon a Time(リンク先は英語)」として私自身のマジックに関するオリジン・ストーリーを語っていたのだ。そこで、今回もう一度私自身のマジックに関するオリジン・ストーリーを語るにあたって、前回とは異なる方法を取ることにした。「Once Upon a Time」と重なる部分もあるが、それとは違うようにしていこうと思う。そうすることで、より全体像が見えることだろう。
《開闢の巻物》 アート:Dany Orizio
はじめに
私は1967年5月25日、ミシシッピ州のビロクシーで生まれた。私の父のジーン/Geneは当時空軍に所属しており、キースラー空軍基地に駐留していた。ベトナム戦争が起こり、父は徴兵されるよりはとアメリカ国内に駐留できる志願兵となったのだ。父は歯科医だったので、基地で重用されるような技術を身につけていた。2年間空軍に在籍している間に、私と、私のただ1人の妹アリス/Alysseが生まれた。父の除隊後、私の両親は故郷のオハイオ州クレーブランドに戻った。そして父は歯科医として働き、母のリンネ/Lynneは若者を専門にする精神科医になった。そしてペッパー・パイク/Pepper Pikeという郊外に家を建て、私は大学に進むまでそこで暮らした。
私の両親はどちらも私に多大な影響を与えている。母はとても創造的な人で、執筆が好きだ。私は、文を書けるようになったらすぐに物語を書き始めた。4歳頃のことだ。あらゆる種類の物語を書いたが、一番好きだったのは脚本を書くことだった。会話を書くのが好きだった。演劇やディレクションにのめり込み、そして脚本に活かせるあらゆることをやった。街の子供たちの脚本コンテストでは私は3年連続優勝し、その脚本はすべて上演されたのだ。
私がゲームを好きになったことは父からの影響だ。父は長年にわたるゲーマーで、あらゆる素敵なゲームを教えてくれた。家にはゲームがいっぱいに詰まった巨大な戸棚があり、成長するにつれ私はそのすべての遊び方を学んでいった。また、他に父に教えられたものにはパズルがある。私の13歳の儀式に(知らない諸君のために自己紹介しておくと、私はユダヤ教徒だ)、私たちは私の小学校1年の時の先生を招待した。彼女は後に近所に住むことになるのだが、彼女が私にプレゼントしてくれたのが「ダンジョンズ&ドラゴンズ」だった。自分で作れるゲームに、私は魅了されたのだ。
私は知能だけは2歳ほど進んでいたが、肉体的、精神的には2歳ほど遅れていた。クラスでも一番小さかった私は、いじめのいい的になっていた。小学校、中学校の間は大変だったが、とても協力的な家族の支えもあったし、私の興味は自分の情熱を注いでいるものにだけ向けられていたのだ。そう、執筆とゲームである。高校に入ると、私は自分が何者であるかをよく理解するようになり、幼稚な懸念の多くを避けることを覚えた。放課後の時間のほとんどを、舞台と学校新聞作りに費やしていた。同時に、私はどんどんポップカルチャーにのめり込んでいった(高校時代、またそれ以降の女性遍歴については、「Topical Blend #1: To Err Is Human(「トピカル・ジュース#1:失敗するのが人間だ」。リンク先は英語)で触れている)。
《俗世の教示者》 アート:David O'Connor
大学受験のように
大学時代に、今の私ができあがったのだと思う。まず、私はボストン大学にコミュニケーション学という学部を見つけ、ポップカルチャーと執筆の好きな私にはぴったりだと理解した。放送・映画を専攻し、脚本を副専攻にした。つまり、大量の授業で、そして授業と授業の間にも、無数のテレビ番組や映画を見ていたのだ。当時の経験が、今の様々なメディアで物語を語る基礎になっている。
次に、ボストン大学の劇場組織、ステージ・トループ/Stage Troupeに出会い、かなりの想像力を注ぎ込んだ。大学時代に、私は「野放しの本質/Uncontrolled Substance」と名付けた即興コメディを始めた。「筆者の作業場/Writer's Workshop」という短編コメディも始めた。そして「自分を解き放て/Leggo My Ego」「最終印象/Last Impressions」という劇を書き、プロデュースした。前者はある人物の脳内で、人生の岐路に当たって感情同士が争うというものだ(これはテレビで「Herman's Head」をやる前のことで、もちろん最近のピクサーの映画「Inside Out」よりも前の話だ)。後者は過去を振り返る恋愛コメディだ(ああ、その点ではハロルド・ピンター/Harold Pinterに負けてるが、彼のはドラマだからね)。
3つめに、ゲーム・プレイヤーの友人ができた。週に1度集まってゲームをしていた。持っているゲームに飽きると、我々は近所のゲーム店に行き、そして新しいゲームを買ったのだ。このグループの中で、私は既存のゲームを調整することを覚えた。最初は説明書通りにやるのだが、そのうちにゲームを把握すると、自分たちの好みに合わせて調整していくのだ。良いゲーム・デザイナーであるには、他のゲームを無数にプレイする必要がある。そして、この大学でのゲーム・グループはまさにそれにぴったりだったのだ。
私は大学でいくつかのことを学んだ。学校から、コミュニケーション学の学士号をもらい(本当だってば)、コミュニケーションの作り方、使い方について多くの技術を学んだ。この記事で書いてきたことの多くは、大学時代に学んだことから取っている。ステージ・トループから、多くの実戦経験と執筆の自信を身につけた。ゲーム・グループから、ゲームをゲームたらしめるものが何なのかということを理解した。実際にゲームをプレイする前に、失敗を見つけることがとても上手になったのだ。
大学で得たことをもう1つ挙げるなら、それは私の人生の生き方だ。私はずっとテレビの大ファンだった。長期間にわたる物語をいくつも語ることのできるメディアで、脚本家として惹かれていた。テレビ・ショーを作りたいと思って、私はロサンゼルスに引っ越した(大学時代に学んだ人生の教訓について知りたい諸君は、その1(リンク先は英語)とその2(リンク先は英語)を読んでみてくれたまえ)。
天使の街
こうして人生の目標を決めた私は、それを実現させるために動き始めた。私は、大学3年の夏にインターンシップに参加した。夏中ずっと脚本家たちがストライキをしていてハリウッド全体が麻痺していたので、すぐにも職を得られそうだった。私はロサンゼルスで夏の間ずっと調査を続けたので、この街に多少なじんできていた。卒業後、私はそこに引っ越した。
最初は一番下から入って、それからキャリアを上げていくのが肝要だということはわかっていた。制作助手(あるいは「ランナー」)と呼ばれる、ハリウッドの仕事の中で文句なしに一番下の仕事に就こうと考えた。しかし、その仕事に就く方法すら私は知らなかったのだ。ある日、雇われるためにはもっと馴染みにならなければならない、とひっそりと考えていたところ、たまたまインタビュアーが来なかったので私に回ってきたインタビューの仕事に行き当たり、私はインタビューをこなした。そして「It's Garry Shandling's Show!」というテレビ番組で数週間働く機会を手に入れたのだ。
その仕事から次はテレビの総集編特番、次はHBO社のスタンダップ・コメディ・ショー、次はエミー賞の仕事、隠し撮りのテストの仕事、ジェミー・リー・カーティスと/Jamie Lee Curtisとリチャード・ルイス/Richard Lewisの「Anything but Love」というテレビ番組の仕事、それから長期の、リチャード・マリガン/Richard Mulliganの「Empty Nest」というテレビ番組でウィット/トーマス・プロダクション/Witt/Thomas Productionでの制作助手の仕事につくことになった。この番組は同社の作った「The Golden Girls」という番組のスピンオフだった(私のランナー時代のことについて詳しく知りたい諸君は、「Tales of a Runner(リンク先は英語)」と「名声」を読んでくれたまえ)。
制作助手というのは感謝されない仕事である。給料も安く、仕事はきつく、皆には雑に扱われる。しかしそれでもドアの中に足を踏み入れたのは間違いなく、将来の助けになるようなつながりを作り始めることができるのだ。ウィット/トーマス・プロダクションは、私が初めての突破口を得た場所である。この会社の上層部の1人の奥さんが、代理人になろうと考えているタリア/Taliaという女性だった。彼女は若く新しい才能を探していて、一方の私は、私が脚本家になりたいと思っているということが知れ渡るほどによく働いていた。そうして、私は彼女に自作の企画脚本(つまり自分の余暇を使って自分で書いた脚本のこと。テレビでは、番組の脚本が書けると示すため、人気のある番組用の脚本を書くものなのだ)。タリアは私の脚本を気に入り、そして彼女の最初のクライアントとして契約してくれたのだった。
いくつものインタビューや面談をした。また、無数のピッチ、つまり番組のネタ出しをした。出したネタの1つが「Rosanne」という番組用のものだ。10個の番組にネタを出し、それがどれもうまくいったので、単に話を買うだけでなくスタッフとして雇われることになった。「コールド・ピッチ」と喚ばれる立場でスタッフとしてのオファーを受けることは珍しいことなので、私はとても興奮したものだ。「Roseanne」は当時最高の視聴率を記録した番組で、私がとても尊敬していた番組だったので、それ以上の入り口となる仕事は考えられなかった。
この仕事が終わったのは、私が望んでいたほど綺麗な形ではなかった。私には選択肢はなかった(首になったわけだ)。タリアは代理人になりたいと思わなくなっていたので、私の代理人はマーシー/Marcieという女性に引き継がれた(興味深いことに、何年も後の話になるが、この女性は着服で収監されることになる)。そしてさらにダグ/Dougという男性に。彼が首になると、名前すら覚えていない女性に引き継がれることになった。その女性について覚えているのは、彼女は私に関わりたくなくて、私が電話をかけても折り返しもしなかったということだけである。このキャリアの下降から、まったく違うキャリアへと導かれるのだから面白いものだ(「Roseanne」のころの話を詳しく知りたい諸君は、私の三部作の記事(リンク先は英語)を読んでくれたまえ)。
《不退転の大天使》 アート:Allen Williams
扉が閉じたとき
私は執筆への情熱をキャリアとしていて、ゲームへの情熱は趣味にしていた。ボストンでいたようなゲーム仲間は、ロサンゼルスでは見つけることができていなかった。私は友人と集まってロールプレイング・ゲーム(私がプレイヤー参加していたダンジョンズ&ドラゴンズのキャンペーンと、マスターを務めていたガンマ・ワールドのキャンペーンを交互にしていた)をしていたが、熱烈なゲーマーというわけではなかった。
執筆業に飛び込んでいく一方で、それだけだと気が狂いそうなのでゲーム店でのアルバイトもしていた。そのゲーム店で、私はマジックというものについて初めて耳にしたのだ。お客が来て、マジックはありますか、と尋ねてくる。そのたびに私はそれについて聞き返した。それまで見たことも聞いたこともないゲームだったが、その噂は私の好奇心をどんどんかき立てていった。
閑話。マジックの初期のころ、マジックの商品は西海岸からゆっくりと広がっていっていた。これは、ウィザーズの創立者にして最初の社長であるピーター・アドキッソン/Peter Adkisonが西海岸を異動してマジックをデモしていったからである。私はたまたま、いい時期にいい場所にいて、マジックが世に出たすぐにその噂を耳にすることができたのだ。
私はすぐにこのゲームを手に入れ、そしてすぐにハマった。このゲームを通して、私は私自身と同じようなゲーマーと出会いはじめた。そしてすぐに、完全に新しい仲間たちを手に入れることになった。私は彼らのことを「マジック仲間」なんて呼んでいた。彼らと私の他の友人との間に何の接点もなかったからである。毎週土曜になると、我々は南カリフォルニアのマジックのメッカになっていたコスタ・メサ・ウィメンズ・センター/the Costa Mesa Women's Centerに集まった。そしてそこで私は多くの南カリフォルニアのマジック・プレイヤーたちと出会ったのだ。
マジックに加えて、私はゲーム・デザインを手がけ始めた。私はゲームが大好きで、ロールプレイング・ゲームでは自分のシナリオを作ることも楽しんでいたので、自分でゲームを作ってみようと思ったのだ。いくつものゲームを作ってみた。マジックに触発されて、様々な要素(部品がそれぞれカードになっている)を組み合わせてロボットを作り、戦わせる「Robobattle」というトレーディング・カードゲームを作った。時間旅行を使って2人で対戦するカードゲーム「Time Duel」(反パラドックス・ルールを備えていた)も作った。私のお気に入りは、「マークのダイス小ゲーム」と名付けた、ダイスを使ったちょっとしたゲームだった(後に「Polyhedra」と改名する)。私はゲーム・デザインで、ラスベガスのGAMAカンファレンスに参加した。
マジックに関する最初の大きな転機は、初めてデュエリスト誌(ウィザーズが発行していた、マジックの専門誌)を買ったときに訪れた。上級者向けの記事が足りないと気付いたのだ。それを解決するため、詰め将棋のようにゲーム中の局面を見せて問題を解決させるというパズル記事を考えた。私は地元のゲーム大会でウィザーズの社員のスティーブ・ビショップ/Steve Bishopに会い、パズル記事のサンプルを添えた手紙をデュエリスト誌の編集長のキャサリン・ヘインズ/Kathryn Hainesに届けてもらえることになった。キャサリンはそのパズル記事を気に入り、私の知らないところで「マジック:ザ・パズリング」はデュエリスト誌の一番人気の記事になったのだった。
《瞑想パズル》 アート:Mark Winters
ある日、私の型破りな性質が仕事に不都合をもたらすことになった。この会社には、テニスシューズで働いてはならないという規則があったが、8時間以上の立ち仕事だった。他の靴も試してみたが、どれも足が痛くてたまらなかったのだ。私は店長に話し、テニスシューズで働く許可を得た。(常時カウンターの裏にいて、お客からは靴なんて見えはしないのだ)。店長が6人替わって、規則違反だと指摘された。私は痛みをこらえて働きたくはないので、靴を替えろと言うなら辞めます、と言った。アルバイトとして、私は店一番の販売者だったので、テニスシューズの着用が認められた。その次の店長に代わったその日に、私は理由も告げられずに首になった。おそらくは、靴の件で一緒に働くのは難しいという評判が立っていたのだろう。
この仕事を失ったことで、私はマジックにもっと深く関わっていこうと考え、キャサリンに直接会ってさらに多くの記事を書かせてもらおうと、ミルウォーキーで開催されていたジェンコンに向かった。そのときのやりとりはこんな感じだったはずだ。
私: キャサリン、お会いできて嬉しいです。
キャサリン: マーク。ようやく会えましたね。
私: デュエリスト誌にもっと記事を書きたいんです。
キャサリン: あなたはマジックに詳しいし、筆力もあるし、締め切りも守るから、もっと書いて欲しいわね。どんな記事を書きたいか考えてちょうだい。その内容が気に入れば、書いてもらうから。
すぐに、私は2本の記事を提案した。マジック・プレイヤーの視点で見たジェンコンに関する記事と、その年のジェンコンでおこなわれた、第1回世界選手権決勝戦の観戦記事だった。彼女は両方にゴーサインを出し、私はそのイベントの残りの期間その作業に没頭した。これらの記事を書いたことから次の記事を書くことになり、私は毎月複数の記事を書くようになった。この仕事から、ウィザーズ・オブ・ザ・コーストの7つの部門でフリーで働くということになった。当然、ゲームをよく知り、筆が立ち、締め切りを守るということはウィザーズの誰もに感銘を与えることだった。
フリーランサーとしてさまざまなところに旅した。1995年のアメリカ選手権のためにフィラデルフィアへ行き、同年の世界選手権のためにシアトルに行き、第1回プレリリース(『アイスエイジ』だ)のためにトロントに向かった。そして、レントンのウィザーズ本社に行ったのも何度もある。そこで、マジック開発部の人たちや、さらに多くのウィザーズ社員と知り合いになったのだ。
そうしてレントンに旅している間に、私はあることに気がついた。執筆を仕事にすることにしていたが、ゲームを仕事にするとしたらどうだろう? 私のハリウッドでのキャリアは、あの業界が移り気だということを教えてくれた。私はマジックの仕事を本当に楽しんでいる。これを趣味ではなく仕事にしたらどうだろうか? その日、当時の開発担当副社長のマイク・デイビス/Mike Davisに会ったとき、私は自分の運命を決める言葉を発した。「シアトルに引っ越そうかと思っているんです」。マイクの返事は、「いつから働けるんだ?」というものだった(ウィザーズへの就職に関する話は、「夢の仕事を掴むため」に詳しく書かれている)。
《天使の運命》 アート:Jana Schirmer & Johannes Voss
デザインへの道
私はデザイナーとしてではなく、デベロッパーとして雇われることになった。マイク・デイビスと歩いていて、私は自分でデザイナー向きだと思うと主張したときに、マイクがデザイナーは必要ない、と言ったのを覚えている。リチャード・ガーフィールド/Richard Garfieldがいて、必要なのはデベロッパーなのだと。ドアに足を踏み入れることの重要性はわかっていたので、私はデベロッパーとして集中することにした。
しかし、デベロッパーもデザインすることはある。デベロップ中に穴ができたら、その代わりのものをデザインすることになり、場合によっては手元の大量のデザイン・ファイルからカードを選ぶことになる。『ミラージュ』で緑のレアに穴が? この自信作のクールなクリーチャーはどうだ、パワーとタフネスが手札にあるカードの枚数に等しいっていうんだけど?
デベロッパーとして過ごす間に、私は開発部の上層部の信頼を得た。私が常に穴埋めを続け、私のデザインが上質だということに気付いてくれたのだ。そして、リチャード・ガーフィールドが他のデザイン・チームに入りたいと教えてくれたので、私はリチャードをチームに迎えて『テンペスト』のリード・デザイナーにしてもらうように上層部を動かしたのだ。
『テンペスト』の成功で、私はデベロッパーからデザイナーに転身することができた。私はできる限り、他のゲームのデザインも含むあらゆるデザインの仕事をした。リード・デザイナーになる機会があれば、ベストを尽くした。そしてついに2003年12月、当時のボスであったランディ・ビューラー/Randy Buehlerに主席デザイナーになる気はあるかと尋ねられた。私は、ある、と答えたのだ。
これが、ミシシッピーの空軍基地から今日に到るまでの長くて奇妙な旅路である(その道中で、私は妻と出会い(その1、その2)、結婚し(その1(リンク先は英語)、その2(リンク先は英語))、子供もできた(その1、その2)。
オリジン・マジック
私と、私がマジックの主席デザイナーになるまでの歩んできた道について多少なりとも知ってもらい、楽しんでもらえたなら幸いである。今日の記事には大量のリンクが含まれているが、もし私の語ってきた内容に興味があれば、そのリンクをたどって私の過去の記事を読んでもらいたい。これは個人的な話になるので、諸君からの反応をいつもよりも楽しみにしている。メール、各ソーシャルメディア(Twitter、Tumblr、Google+、Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。
それではまた次回、すべてがめでたしめでたしで終わる日に……つまり、幸せな常磐木の日にお会いしよう。
その日まで、あなたのオリジン・ストーリーがクールなものでありますように。