リリアナの憤り
前回の物語:古今の約束
前回見かけた時、リリアナ・ヴェスは招かざる客人にしてプレインズウォーカー仲間、ジェイス・ベレレンを迎え入れていた。ジェイスはソリン・マルコフを探しており、マルコフ家の荘園へ一緒に来てくれるよう彼女を説得しようとした。リリアナは拒み、ジェイスは単身出発した。その地での発見はやがて彼をネファリアの沿岸へと導いた。
一方でリリアナは、リリアナ自身の問題を抱えていた……
雨が窓を叩いていた。稲妻の閃きがむき出しの石壁と数体のよろめく屍を照らし出した。一息つくよりも先に、雷鳴の轟音が続いた。
近づいてきているということね。いいじゃないの。彼女は稲妻を必要とし、そして嵐は彼女の気分に合っていた。リリアナは高い背もたれの石造りの椅子に座し、物思いにふけっていた。
何がどうして、こんな事になったのだろう?
自由を求めるあらゆる道は、更に閉じられた扉へと、逃げられない更なる行き止まりへと続いているだけのように思えた。彼女は不老不死のために悪魔と契約を交わした。何にせよほとんど使うことのない無価値な魂を捧げて。
これほどの寒い夜でも、彼女の吐息はもはや白くはならなかった。
だが悪魔は過酷な主であり、すぐに彼女は自身の契約を覆すべく動くこととなった。その悪魔を殺すために――不死と自由の両方を得るために。そして……鎖のヴェール。
それは囁きかけていた。今ですらも、それを持つ隠しポケットの中から。ヴェールの力を使用し、彼女は二体の悪魔を殺害した。その類でも王ともいえるほどの存在を。ヴェールの力を使用し、彼女は夢見たことすらない不死者の軍勢を指揮し、イニストラード最大の都市スレイベンすらも包囲した。そういった悪魔の一体を手にかけるために。
だが、そのヴェールは……
彼女はそれを持ち歩いてはいたが、もはや顔にまとうことはなかった。絹のように滑らかな輪を肌に感じることはなかった。触れることすら嫌だった。だが捨てようとするなら、その苦痛は耐えがたいものとなった。
そしてそれを使用するのは更に酷いことだった。
「リリアナ」 声が聞こえた。よく知った声のような気がした。
彼女は立ち上がった。
「私は忙しいの」 彼女は言った、大声ではっきりと。「もしまた私を悩ませに来たのなら、さっさと行って頂戴」
何かがこめかみを刺した。扉を詮索する指のような感触が。
「悩ませに?」 声が言った。「そんな悪いことだとは思ってなかったけど」
稲妻がひらめき、窓台にとまった大きな黒い鳥を照らし出した。耳にこだまする雷鳴が止むと、続けて声があった。まるで耳のすぐ傍から聞こえてくるように。
「私は何も言っていないがね」 鴉の男だった。
彼女は振り返った。そこに、すぐ傍に彼はいた。白い髪、黄金の瞳。とても時代錯誤で場違いな、優雅な黒と金のローブ。彼は……そう、この男が真に何者なのかは定かではない。知るよしもないために彼女はその無知をこらえていた。まだ若かった頃にこの男は自分の前に現れ、嘲り、教授した。この男は自分を、今自分をここに連れてきた道に向かわせた。そして昔も今も、その道から外れさせないように姿を現している。
自分に関する限り、この男は最寄の地獄に落ちることだろう。
「言葉遊びをする気分じゃないの」
「そう」 最初の声が言った。明らかに違う声であり、鋭い疑念で満ちていた。「じゃあ、本題に入ろう」
鴉の男の薄い色の唇は動いていなかった。そして常にそうしていたように、顔を歪めて面白がるようなそぶりではなかった……心配しているように見えた。
ああ、なんてこと。
リリアナは鴉の男から顔をそむけた。彼女は拳を握りしめ、それを死の魔術で満たし、すぐさま放てるように構えた。
「やってごらんなさい。あなたは何者で、私の家で何をしているの。まずはそこからよ」
再び稲妻がひらめき、この時はフードの外套をまとった一つの人影を照らし出した。リリアナの頭皮がうずいた。
「俺が誰かは知ってるだろ」 声が言った――その人影が立っている場所からではなかった。「君が知らないのは、俺が何を知っているか、だ」
刺すような感触が再び。これはまるで……
「君は上手くやってきたようだが」 鴉の男が言った。「私も君の頭を守り続けることはできないよ」
瞬時に、恐怖は憤怒へと変わった。
「ジェイス? あなた正気なの? 殺されたかったの!」
「そうしようとしたよな」 声が言った。
ジェイス。彼女は偽りの好意で彼の友となり、感情を弄び、多元宇宙間犯罪組織に加わるよう操作し、そしてそれを転覆させた。それが何もかも誤った方向に進むようになった頃には、リリアナは心からジェイスを好いてしまっており、彼を裏切ることは彼女のすりきれた人間性を一本ならず引き裂いた。彼女はそれで止まることはなかったが、そうしていなかったら自分達はどのみち英雄的に、無益に死んでしまっていた。彼が遺恨を抱く理由はわかっていた。
だが壊れた互いの関係の中、ジェイスが自分を脅かしたことは一度もなかった。
ジェイスは今や、リリアナのすぐ目の前にいた。彼女はゾンビの下僕へと攻撃するよう命令したが、それらは光の縄に四肢を拘束されており、床に倒れていた。彼女は更なるゾンビへと手伝うよう、彼を圧倒するよう心の中で呼びかけた。だが返答は感じなかった。
「来ないよ。全部縛ってあるから」 ジェイスが言った。
リリアナは実際、ジェイスが事前準備をした戦いに敗北するのを見たことはなかった。
「出て行って」
「どうしてだ? 俺のことが怖いのか?」
フードの下でその両目がきらめいた。
「この脅しは怖いだろう?」 鴉の男が言った。「彼らしくないものだ」
「そうね」 リリアナは言った、ジェイスへと。「あなたらしくない。これはあなただとは思えない」
額の感触は叩きつけるようで、その背後には囁き声があった。彼女はその声に耳を傾けたいという衝動に逆らった。それは彼に隙を与えるだけだろう。そしてこれは本当に攻撃なのだから。
「止めなさいよ!」 彼女はジェイスへと死魔術の鞭を放った――苦悶を与えるに過ぎないだけの。
紫色の光がまっすぐに走り、ジェイスの映像は石鹸の泡のように弾けた。
「まず、君はあれを俺に隠そうとした」 彼は言った、この時は部屋の隅から。「今、君は俺を黙らそうとしている。でもあんな大がかりなことをいつまでも隠せはしない」
「何を言っているのか知らないし、あなたが何が起きていると思っているのかもわからない。でも、あなたは勘違いしている」
彼女はジェイスへと振り返ったが、彼はリリアナの背後で口を開いた。彼女は彼がその幻影と精神魔法を操り、影へと溶けては幻影として現れ、敵を攪乱し続ける様を見てきた。それをリリアナに対して使ったことは一度もなかったが、彼女は気にしなかった。
「溺墓だ。天使だ! 俺はそいつらがそこで築いているものを見てきた。そして君がその手助けを。認めろよ!」
額への圧迫感は割れるような痛みになった。
「リリアナ。君にはずいぶんと目をかけてきた――」 鴉の男が言った。
「黙りなさい!」 リリアナが叫んだ。「イニストラードには溺墓が沢山あるわ。私は天使について警告した。あなたもよく知ってるでしょう、オルゾヴァの黄金全部を賭けたって私が天使に力を貸すことなんてない!」
「金のためじゃないだろ」 ジェイスは言った。「鎖のヴェールのために。俺が謎解きに力を貸せない問題のために。君はマルコフ荘園で起こったことを俺に見せたくなかった。ソリンを見つけさせたくなかった。何でだ? 君の企みをそいつに明かされるのが怖いのか?」
「あなたが殺されたくなかったからよ。それに私はマルコフ荘園については、この前言ったことの他は何も知らない」
「俺に嘘はつけない」 ジェイスはそう言ったが、思考の流れを見失っているように思えた。「君はよく知っているよな。君は……君は世界全体のマナを誘導して、あの……月みたいなものに、ただ……鎖のヴェールから逃れるため? そうなのか?」
今やその声は四方八方から聞こえてきており、フードの姿は彼女が瞬きをするごとに動いた。二体のジェイス、そして三体。この粗末な見世物は、自分が行ってきたことを考えたとしても十分に迷惑だった。濡れ衣を告発される、それは率直に言って許し難かった。
「ねえジェイス、何日か前に私の所に来て手伝って欲しいって言ったわね。それが今度は非難するってわけ?」
「俺に秘密は隠せない」 彼の声には脅しの刃が潜んでいた。「俺に要るのは時間だけだ」
「君が彼に何を見たのかは知らないが」 鴉の男が言った。その顔は彼女のすぐ傍にあった。「君は彼にとって、解かれるべき謎でしかない。そして彼が何であろうと、君にとっては何の意味もないものだ。それとも私は君を誤解していたかな?」
「私の何を責めているのだとしても、明るい所に出てきて直接言いなさい。あなたが考えているようなことじゃない」
「俺の考えがわかるって?」 ジェイスが言い返した。「それに、どうして俺が君の言葉を信じられるって思うんだよ? 君は俺に嘘をついてきただけだ。俺を苦しめただけだ」
彼女の頭はずきずき痛んだ。
「彼は君の防御を破るぞ」 鴉の男が囁いた。「何とかしろ!」
ジェイスの映像の一つが目を見開いて、顔を鴉の男へと向けた。
「誰――」
「あれが本物だ!」
その啓示を確かめる余裕はなく、更にもう一つが素早く現れた。リリアナは笑みを浮かべた。
私にもわかる。
彼女は魔法の稲妻をジェイスへと放った、本物のジェイスへと。彼の姿が苦痛にぶれた。もう二体のジェイスが消えた。
「さあ、それじゃあ――」 彼女はそう切り出し、だが額の圧迫感を再び感じた。この馬鹿は。
彼女は屍術のエネルギーをもう一発放った。ジェイスは悲鳴を上げ、床に崩れた――そして顔を上げ、目を光らせ、顔を歪めた。
「俺が知らなきゃいけないことを教えろよ」 彼は立ち上がり、言った。「溺墓のことを」
「誘導尋問だ。君の心の前面に特定の思考を持って来ようとしている」 鴉の男が言い、笑った。「テレパスの基本的な策略だ」
この気取ったろくでなしの言葉は正しかった。ジェイスが思考に入り込もうとし、リリアナの視界が揺らいだ。
「お止めなさい。私が溺墓の何か知っていたとしても、あなたの芸当は通用しないわよ」
彼女は更に苦痛の稲妻を放ち、続けざまにもう一発を、だがジェイスも攻撃を続けた。彼は倒れ、立ち上がり、また倒れた――そしてこの時は彼女の攻撃をまたも受ける前に、膝で立ち上がるだけに留まった。
「教えろよ」 彼はうなり声で言った。
リリアナの皮膚が焼け付き、紫色の炎が悪魔の傷跡を描いた。そしてヴェール……ああ、ヴェールが力を貸したがっていた。それは屍術のエネルギーのはぐれた流れを数本吸い上げて、五倍もの強さで本流へと返した。彼女はそれを押し留めようと、即座に彼を殺してしまわぬようもがいた。
「これを止めなさい! 私は制御できない――」
今やジェイスは悲鳴を上げ、両目は輝いたまま、彼女への精神攻撃はその苦痛とともに強烈になっていた。
「白状……すれば……いいんだ!」
反動が始まった。鎖のヴェールが死の鐘を鳴らし、苦悶がリリアナを満たした。血が傷跡から流れだした。彼女は歯を食いしばった。だがもっと悪いことになる――例えば、この傷跡は瞬時に治るだろう。自分は生き延びるだろう。けれどジェイスは。
「突破されるぞ」 鴉の男が言った。「殺せ」
「私に指図しないで!」 彼女は叫んだ――鴉の男とジェイスの両方に、鎖のヴェールに、月に、世界に、死そのものに。「止めなさい!」
「君は俺を殺さないといけなくなる」 ジェイスは息を切らした。人間離れしてぎらつく両目から、涙が流れていた。リリアナの視界がかすれはじめた。
「やれ」 鴉の男の言葉。
「ジェイス、もうあなたを傷つけたくはないの!」
その言葉は石にこだまして、額の痛みは止まり、一瞬、部屋に響くのは轟く雷鳴と打ちつける雨音だけだった。鴉の男は嫌気の溜息をつき、羽根の音とともに姿を消した。
ジェイスの両目の輝きが消え、彼はまっすぐに彼女を見上げた。青ざめて汗ばんで、不意にとても隙だらけで幼く見えた。
「もう傷つけたくない?」 ジェイスが言った。彼の声はかすれていた。「つまり、これ以上?それとも君が既に――」
「あなたに答えることはないし、あなたは私に答える事がすごく沢山あるでしょ」
その様子は少なくとも、本物のジェイスと話をしていると彼女に告げていた。現実の状況を見るのではなく彼女の言葉を吟味するような者は他にいない。
「俺に何をしたんだ?」 彼は尋ねた、その息遣いは今も重かった。「死んだみたいだった」
「ずいぶんな言いようね」
彼は微笑みかけ、そして大きく目を見開き、立ち上がろうとよろめいた。
「血が出てるじゃないか!」
「ええ」
正真正銘の心配。一瞬前にはジャムの瓶のように彼女の心をこじ開けようとしていたのに。
「俺達は――」
「駄目。何がどうなっているのか説明しなさい」
ようやく、鈍い足音とともに数体のゾンビが部屋に入ってきた。新しく作られたものではなかった。彼女が見張りとして使用している崩れかけのもの――きっと一掃する中で見逃したのだろう。彼女は自身とジェイスとの間にそれらを置き、だが攻撃はさせなかった。今はまだ。
「本当に知らないのか?」
ゾンビが彼の四肢を掴んだ。ジェイスは抵抗しなかった。
「ジェイス」 彼女は歯を食いしばって言った。「説明なさい。今すぐに」
「俺はマルコフ荘園へ行った。そこは……とっ散らかっていて、岩がそこらじゅうに浮いていて、吸血鬼が壁に埋まっていた。全部が全部。わかるか? 俺は本を見つけた。凄い本だ、彼女が研究していたのは――」
「誰?」
稲妻がひらめき、リリアナは彼のベルトにその書物を見た。大型で、見慣れない製本の華麗な本だった。それを自身で読みたいとは思わなかった――ジェイスがこれほどまでに普段と異なる理由がそれでない限りは。
「空民だよ! 彼女は――ああ、空民は知ってる? これは凄い本だ。彼女は月を研究していた。月とそれが起こすものを。潮流、狼男、天使。全部繋がっているんだ! あちこちのあの変な石――君は触ったことはないか? 触らない方がいい、あれは……やめた方がいい。あれは全部同じ方角を向いていて、そこには、あ、えっと……あれは同じ方へ向いていて、俺はそれを言ってるんだ。方角じゃなくて、一つの場所」
「何処を?」
雷鳴。
「『ずれ』を!」 ジェイスは言って、窓を見た。まるで嵐が彼に答えたかのように。「そう、そういうことだよ。ありがとう」
「何処の場所かを聞いているだけど」
「ネフィリ……ネフィ……ネファリア」 彼はどもって言った。「海岸に、溺墓があった。ああ、もちろん溺墓は全部海岸にあるんだけど。水びたしの。引きつける。俺は引き寄せられた、特にその一つに。そこで見た」
「何を見たの?」
「月だよ!」
彼女は窓を一瞥して片眉を上げた。月は雨雲に隠されていたが、彼女の言いたいことは明らかだった。
「その月じゃない。別の月。目に見えない……でも俺が見たのは……それは問題じゃない。その周りを天使が飛んでいた。ゾンビもいた。つまり、天使が飛んでた。彼女たちは――ああ、ゾンビが何か巨大な石の構造物を作っていて、天使が空を飛んでいた。そして俺は考えた――考えた――君は俺がマルコフ荘園に行くのを止めたがってた……それに俺は知ってる、君がどれほどそのヴェールのことで悩んでいるか。何かすごく……狂ったことをするには十分なくらいに」
突然、何かを悟ったかのような目でジェイスは彼女を見つめた。
「その中は幽霊だらけだ。魂だらけだ。そして君はその幽霊から逃れたくて、でも力は自分のものにしたがってる。そしてその幽霊がこの地について何か知っているとしたら、それは――」
彼女は喉を強張らせた。一瞬、彼は本当に心を読んだのかと考えた。そして彼は素早く横を向いたが、そこにはジェイスを拘束するゾンビが無言でいるだけだった。
「黙れ!」 彼は叱るように言った。「幽霊、そうだ! それが何だ?」
「何って――」
「何でもない! あの石みたいなものは全部ここのマナを誘導していて、それは全部この溺墓の環状列石に向かっていて、ゾンビがそれを作って、天使が狂って、君は天使が嫌いで、君はきっと……きっと沢山のマナが欲しいだろうって。鎖のヴェールから逃れるために、それとも何とかして作り変えるために。辻褄が合う、そう思わないか?」
「合わないわ。全然意味がわからないし、あなたの行動らしくないし」
それがジェイスらしくないというわけではなかった、本当のところは――特に心をそそる謎に入れ込みすぎるというのは。だがどれほど深く関わったとしても、彼は自身とその力について常に幾らかの自制を保っていた――あまりに切羽詰まった状況でなければ。そしてある時一度、彼女はジェイスが自制を失うのを見たことがあった。彼は半年の間精神的に閉じこもり、友人と断絶し、そしてその友人を殺す結果となった。
ジェイスはとても強力なテレパス。もし彼が狂ってしまったなら私を道連れにするだろう。他の大勢と一緒に。
「そのヴェールを試すな。やるんじゃない。声だらけだ。魂だらけだ。何を解き放ってしまうのか、君は知らない」
「私は――」
「言ってくれ、そのヴェールを試しはしないって」
リリアナは彼の隣に膝をつき、注意を引き続けようとした。彼に触れようとは思わなかった。彼女は、事実、彼を怖れていた。それでも、彼女はジェイスの頬を掌で包み、自分へ顔を向けさせた。彼はまばたきをし、ひるんだ。
「ジェイス」 落ち着いて彼女は言った。「そこであなたに何があったの?」
「何も。全部だ。何も『起こっては』いない。何もかもがもう、こんなふうだった」
ジェイスは顔をそむけようとしたが、リリアナは彼を押さえた。ジェイスは彼女を見つめるよう強いられた。彼女はその両目を見つめた、彼女が知っている瞳ではないそれを。
「本当に、君がやったんじゃないのか?」
「本当にやってないわよ」
「そう、か、じゃあ何よりだ」
ジェイスは前のめりに倒れ、ゾンビは彼を放した。リリアナは彼の頭を優しく膝に乗せ、指で彼の髪を梳きながら、素早く考えた。
彼をここに引き留めねばならなかった。治療師に見せて、もしくは霊魔道士に――誰かに、ともかく誰かに、彼の心に何が起こったのかを解きほどける者に。それができるまで彼は安全ではないだろう、そして自分も。
「休息が要るわ」 彼女は言った。「考える時間も。それと言わせてもらえばお風呂もね」
ジェイスは彼女の手を頭から押しやり、身体を起こした。リリアナは自身の手を彼のそれに重ねて石の床に押し付け、引き留めようとした。ここに引き留めようとした。
「時間はないんだ。あれが君でないなら――」
「虫の知らせで飛び込んでいくなんて、あなたらしくない」
集中させないと。ここに引き留めないと。
「私はここに知り合いがいる。あなたにない資産がある。あなたが見た溺墓と天使の動きが関係しているなら、私達はそれを解き明かせる」
「『羊飼いが 群れを 見守る』」 ジェイスが言った。
彼はアヴァシンの事を言っているのだ。アヴァシンが庇護者へと牙をむき、リリアナ以外の誰もが驚くほどの暴力と残虐を放っている。
「それはあなたの本に?」
ジェイスは彼女を見た、両目が突如再び集中した。彼は手を引っ込め、ベルトの本を掴んだ。
「君は読むなよ」
「読みたいなんて――」 リリアナは言って、そして正直に決心した。「読まないわよ」
「スレイベンへ行かないと」
「何ですって?」
「スレイベンだ。大聖堂があるんだろ? そこでアヴァシンに会えるかるかもしれない」
「アヴァシンの目の前まで歩いて行って答えを要求するのは無理よ。特に今は。殺されるでしょうね」
それに今の時点で、アヴァシンがおかしいのかは私も定かじゃない。その険しい予測は今も悩みの種で、リリアナはそこに幾らかの慰めを得た。
「スレイベンだ」 彼は断固として言った。「行ったことはあるのか?」
「ええ」
そこへ行き、見て、ゾンビの軍で占領した。戻りたいと熱心には思わなかった。
「君も――」
「嫌よ。あなたと行くつもりはないわ。ジェイス、よく考えて。ここにいなさい。調べることはできる。何が本当に起こっているのか、私達は見つけられる」
「私達、かよ」 ジェイスは繰り返した。
彼はよろめき、稲妻がひらめいて雷鳴が轟く中、のしかかるように立ち上がった。リリアナは止めなかった。
「その『私達』は君と俺の事じゃないだろ。君は俺をここに閉じ込めようとしてる」
リリアナは滑らかに立ち上がり、彼と目を合わせた。
「これは本心よ。あなたにここに留まって欲しい。あなたは助けを必要としていて、私はあなたの助けになりたい」
「俺を助けたい、でもそれは俺が君と一緒にいるなら。それが使いやすいならってだけだ、つまりは。違うか?」
それは彼女が許容できる度を過ぎていた。トゲのような白っぽい紫色をした屍術のエネルギーが彼女の右手に燃え上がった。
「お言葉ね。あなたを殺してしまえば、狂気の大天使を糾弾してどんな酷いことに巻き込まれるか、そう心配しなくても良くなるのかしら」
ジェイスは近寄り、彼女の手首を掴んだ――このように掴むのは初めてだっただろうか?――そしてその輝く掌を自分の胸に向けた。
「やれよ」 その声はかすれて荒々しかった。
これは今までの行為でも最悪のものになるかもしれなかった。脅威を断ち切る。懸念を断ち切る。もし互いの状況が逆だったなら、ジェイスは少なくともこれを考慮するだろうと彼女はわかっていた。
「子供の頃、ペットを飼ったことはある?」 代わりに、彼女は尋ねた。「鼠とか、そんな」
リリアナの手は今も注意深く抑えた屍術の音を立てていた。
「俺は……俺は子供の頃を覚えてない。ほとんど」 まるで子供のように戸惑い、ジェイスは彼女の手を見下ろした。「な、なんで?」
「答えて欲しいの。どこかで動物の世話をしたことがあるでしょう」
「犬が……いた。オーヴィツィアで。食べ物の切れ端をあげて、通りがかった時には頭を撫でてやった」
「その犬はどうしたの?」
「ある日行くと、そいつは――」 彼は言葉を切り、飲みこみ、瞬きをした。「何でそんな事を聞くんだよ」
「それを、どんなふうに感じた?」
「悲しかった。すごく途方に暮れた、実際。しばらくの間。でも俺は――乗り越えたよ、確実に」
「どうして?」
「それは……それは、ずっと知ってたから、そんなふうに終わるってことを。考えたことはなかったけど、でも知ってた。俺は……リリー、何で?」
「あなたが死んでしまったなら私はどう感じるか、ってことよ、この馬鹿! 悲しいわよ、しばらくの間は。そしてそれを乗り越える。そんなふうに終わるって知っているから。だから、私からの好意にもたれかかりすぎないで。いつか、それがもうあなたの重さを支えていないことに気付くでしょうから」
彼はリリアナの手首を放し、引き下がった。
「俺はもしかしたらスレイベンで死ぬかもしれない。それはあらかじめ謝っておくよ。でも、何が起こっているかを誰かに知らせたかったんだ」
ジェイスは背を向け、歩き去った。
リリアナは彼が退出するのを見つめた。そして雨に濡れた窓の向こう、彼のフードが邸宅の外の影へと消え去るのを眺めていた。
「お館さま」 吹き抜けからかすれた声がした。ガレド、それが彼の名だった。曲がった背中とちぐはぐな大きさの両目、ホムンクルスらしい姿をしていた。
彼女は振り返り、驚いたそぶりを見せぬよう努めた。
「いつから見ていたの?」
「ああ、少し」 ずんぐりとした姿がしわがれ声で返答した。彼は一本の指で巨大な右の眼球を叩いた。「私、ここにいるのです、だいたい」
「なら彼はお前の心を読んだの?」
「まさかです、お館さま。ないです。ご主人、どのみち、そう仰ります」
彼は空ろに笑った。
「良いわ。もう時間?」
「ご主人、塔へお呼びです」 頭部を上下させてガレドが言った。「嵐、すごいです。あのお方、あの『かたまり』ご所望です」
彼女は鼻を鳴らした。ガレドは背を向け、階段へとゆっくり向かった。
「あれをちゃんとした名で呼んでほしいものね」
「ディールク様、かしこいお方です。離れていたいそうです、えと、お二人の、詩的な話から。ふむ、鎖は何を結びますか? ヴェールは何を隠しますか? お館さまですか? あの方々ですか?」
「お黙り」 リリアナはそう言ったが、ガレドを追いかけた。
「はい、お館さま」 ガレドの返答に、言葉以上の敬意はなかった。「そのために私、ここにいるのです、だいたい」
リリアナは傾いだ姿に続いて高い塔の階段へと向かった。彼女はポケットから鎖のヴェールを引き出し、窓の外を一瞥し、ジェイスを思った。彼を心配しているのか、怖れているのかも不確かに。
枝の上に影を成して、一羽の鴉が非難の声を上げた。稲妻が閃き、雷鳴が轟き、そして鴉は去った。リリアナは暗闇を目指し、階段を上った。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)