石殺し その2
リアは彼女の頭から袋を引き抜いたその手に噛みついた。何かが吠えたが、リアを叩きはしなかった。代わりにそれは彼女を優しく地面に降ろし、一歩下がった。
「私はナイラ」 それは穏やかに言った。「すまない、こんなふうに会うことになってしまって」
リアは猫のような人物をじっと見つめ、女性だと判断した。もう三人の猫人達が用心深く立っていた、まるで帰らを睨みつける小さな女の子を怖がっているかのように。男性だとリアにはわかった。彼らにはたてがみがあった。
「おうちに帰して!」 リアは叫び、彼ら全員を驚かせた。
「山腹の廃墟を見たことはあるか?」 ナイラは尋ねた。彼女の黄金の毛並みは黒い斑点で飾られていた。青い石の飾りが尖った耳から下げられていた。そして桃色の鼻の周囲に生えているひげは彼女が喋っていない時にも小刻みに震えていた。
「みんな、誰なの?」 リアは問いただし、辺りを見回した。彼らは洞窟の中にいるようだった。松明が壁にかけられ、赤土の地面には布が一面に敷かれていた。
「ナカティルを見たことがないのか?」 ナイラは驚いたようだった。「我々は陽光弾手。偉大な指導者アジャニの忠臣たる群れ。あの方の土地を安全に保つことが我々の誓いだ」
「そんなひとの土地じゃない」 リアはすねたように言った。
「廃墟に棲むデーモンは我々全てにとっての脅威だ。どこが故郷であろうと関係なく」 ナイラは答えた。
「お願い」 リアが言った。「おうちに帰りたい」
陽光弾手は仲間達がどうにかしてくれるのを願ってか、肩越しに振りかえった。だが彼らは何も言わなかった。「そのデーモンは生き物の骨を集めている、儀式のために」
「儀式?」 リアは混乱して尋ねた。
「そいつは数え切れない生き物を殺した、沢山の力を手に入れるためだけに」 ナイラは説明した。「我々はずっとそいつを追いかけてきた。仲間が沢山死んだ、魔術師もほとんどが死んだ。そいつは君の村の人達をさらった。これほど素早いとは私達も思わなかった」
「村の人達をどこに連れていったの?」 そのデーモンは緑の目の少女を連れて行ってくれただろうか、そう考えてしまったことにリアは罪の意識を感じた。
「この山の廃墟へ」 ナイラは彼女に言った。「もし君が私達を助けてくれなければ、みんな死んでしまうだろう。こんなことは聞きたくなかっただろうが、本当のことだ」
リアは父の背の高さを思い出した。父を傷つけることのできる者がいるとは想像できなかった。「お父さんの所に行かなきゃ。それにお母さんは魔術師なの。いつもみんなを助けてくれるの」
陽光弾手は悲しそうに見えた。「君が母君を助けないといけない。君の家族もその廃墟にいる」
リアは膝をかかえ、どうして何も感じないのだろうと思った。今起こっていることはまるで、寝物語の一部のようだった。言葉を話す猫。山に棲むデーモン。そう、ナイラは嘘を言っている。家の皆は安全に、私の帰りを待っている。
「デーモンが儀式を終わらせる前に攻撃しなければいけない」 ナイラは言った。「我々の計画のためには石殺しが必要、だが全員殺されてしまった」
「石殺しって?」 リアは尋ねた。
「君のことだ」 彼女は応えた。「私は川の向こうから君を見ていた。君はいつかとても名高い魔術師になれるだろうな」
「小石を壊すのはそんなに役に立たないでしょ」 リアは疑わしそうに言った。
「君は今日、小石を壊す。明日は壁を壊せるかもしれない。いつの日か、君が通りがかるだけで城が崩れ落ちるかもしれない」 リアはナイラを畏れとともに見た。リアはその白馬で駆け抜け、イーオス城は崩れ落ちた。
ナイラは剣を抜き、その切っ先で慌ただしく赤土に図を描いた。リアはそれを物珍しそうに見守った。
「君のように、ドラゴンにも背骨がある」 ナイラが言った。「だが君とは違って、ドラゴンの中には全ての肋骨に繋がる大きな板を持っているものがいる。我々はそれを要石と呼んでいる」
「要石?」 リアは尋ねた。
「要石は大切な何かを意味する」 ナイラが言った。「もしその板を壊せば、骸骨は崩れて落ちる。そして儀式は完成できなくなる」
「私にドラゴンを殺してほしいの?」 リアは小声で言った。自分が弱いと思われたくはなかったが、同時にナイラを失望させたくもなかった。
答える代わりに、ナイラは剣を鞘に納めてリアの小さな手をとった。「よじ上ることはできるか?」 リアの巻いた指を調べて彼女は優しく尋ねた。
「他の子よりずっと上手にできるわ」 彼女は保証した。
「君の名前は?」 ナイラが尋ねた。
「リア」 彼女は言った。
「我々の間では、戦士は最初の戦いに赴く前に新たな名前を授かる」 ナイラは言った。「君にも新しい名前を授けてもいいか?」 リアは頷いたが、自身が聞いている言葉を信じられなかった。戦士、私が?
「カー、それは我々の言葉で『力』を意味する」 ナイラは言った。「カーリア、今や君は戦士となった。要石を壊し、君が家族を故郷へと連れて帰るんだ」
日没の直前、カーリアは闘技場を見下ろす尾根の倒木の下に伏せていた。毛むくじゃらの陽光弾手達の一団はナイラを除いて既に木々の間に姿を消していた。彼らは円を描いて異なる方向から攻撃を仕掛けるつもりだった。カーリアは谷の熱狂した光景を見下ろしていた。彼女はナイラの教えを心の中で復唱しようとしたが、その思考はあまりに速く行き来するように感じた。
無辜の者達を無意味に虐殺することは止めねばならない。
そのヘルカイトの骸骨はまるで恐ろしい家のようだった。
要石を壊し、骸骨を破壊する。
ぶら下がる骨が微風に揺れ、ガラガラと虚ろな音楽を奏でた。
骸骨を破壊し、デーモンを止める。
カーリアは囁いたが、ナイラは動かなかった。彼女は眼下の様子を真剣に観察していた。
デーモンを止め、君の家族を連れ帰る。
暗い山頂の向こうに太陽が沈むと、列をなした黒ずくめの人々がすり足で闘技場へと入ってきた。黒い布の帯が彼らの喉周りに交差していた。カーリアは家族も、村の者の姿も見つけられなかった。
「あいつの召使達だ」 ナイラが囁いた。
「望んでここに来たの?」 カーリアは恐ろしかった。遺跡から漂ってくるひどい悪臭を感じることができた。こんなところに来たいと思う人がいるの?
「操られているのかもしれない」ナイラは言った。谷の向こう側の尾根で赤い光がまたたいた。
「合図だ」 ナイラが囁いた。彼女はカーリアの手を握ると、二人は草木の茂る坂を早足で下り、崩れ落ちた壁の隙間を抜け、どっしりとした一本の肋骨の影にうずくまった。二人は儀式の場からわずか数フィートしか離れておらず、カーリアは自身の歯が恐怖にカチカチと鳴るのを感じた。吊り下げられた骨の周囲に召使達が円をなし、彼女は歯をくいしばった。彼らはひざまずき、その掌を夜空に向けて広げた。ぼろぼろの毛皮を着てやせ衰えた禿頭の男が北端の段上へと歩みを進めた。彼はにやにやと笑っていたが、歯はなかった。その悪意のある笑みを見てカーリアは戦慄した。
先だっての偵察任務の間、ナイラは肋骨外側の屈曲部に、地面からの目にさらされることなくよじ上ることのできる凹凸を発見していた。だがカーリアが最初のくぼみに足をかけたちょうどその時、地面が激しく跳ねた。召使達は歓喜に叫び、その笑い声にカーリアは恐怖のあまり気分が悪くなった。
「行こう」 ナイラが駆りたてた。「急がなければ」
カーリアが上って行くと、骨の粗い表面が彼女の手をひっかいた。召使達の詠唱はより大きく、より過酷になっていった。とどろく爆発音が大地を揺らし、召使達は苦痛の叫びを上げた。彼らの掌は同時に裂けた。血の滴が空へと向かって流れだした。カーリアは恐怖にナイラを見下ろした。皮膚が自分から裂けるなんて。血が空に向かって落ちるなんて。.
「要石を壊せば、骨は崩れるはず」 ナイラは彼女を勇気づけた。「この狂気は全て終わる」
肋骨の頂上で、ナイラは先に背骨へと飛び上がりカーリアが上るのを助けた。強風があらゆる方向から吹きつけているようで、骨は二人の足元で不安定に揺れた。ナイラの指示で、彼女らは眼下から吐き気のするような毒気が立ち上ってくる中、通路をうつぶせになって進んだ。
カーリアが要石へと向かって這い進むたび、鋭い骨が彼女の腹部に引っかかった。彼女は他の陽光弾手達が武装した群衆の中、段上の禿頭の男へと攻撃すべく戦っているのを視界の隅に見た。禿頭の男は陽光弾手達から急いで逃れようと、通路へと続く梯子を慌てて上り始めた。その頂上で、彼は二人を見つけて怒りに吠えた。ナイラはすっと立ち上がった。
ナイラは剣を抜いた。「今だ!」 彼女はカーリアへと命令した。
カーリアは要石の前にうずくまった。彼女の足は背骨の隙間へと滑り続けていた。落ちる。彼女の僅か数インチ下で、吊り下げられた骨が彼女の理解できない魔法に振動し、共鳴するとばらばらに壊れた。それは魅惑的だった。カーリアは目を離したくなかった。目を離したら、落ちる。
「カーリア!」 ナイラは叫んだ。彼女は禿頭の男へと飛びかかったが、男はナイラの攻撃をさっと避けて反撃した。ナイラは剣でそれを防いだが、彼の一撃の重さに通路から飛び出しかけた。ぼろぼろの革屑のようだというのに、男は不自然に強かった。
カーリアは眼下の骨の群れから目をそらした。だが彼女は怯え、恐れていた。どうすれば小石を壊す時のように心を鎮めることができるだろう?
「世界を締め出せ!」 ナイラが絶叫した。「自分ではない誰かだと思え!」
カーリアは滑らかな要石に掌を当て、目を閉じ、自分は再び川のそばにいるのだと念じた。バントは広大な地域だった。空に浮かぶ城、瑞々しい草原、そして想像しうる最も青い空からなる美しい世界。彼女の指の下で、要石が熱を帯び始めた。イーオス城が、想像だにできぬほど恐ろしいものたちに包囲されたのは、清々しい秋の日のことだった。カーリアはきらめく川の水が裸足の爪先に触れるのを思い浮かべた。やつらは城壁を破壊した!波の音がして、そして彼女の指は虚空だけを感じた。リアはその白馬で駆け抜け、イーオス城は崩れ落ちた。カーリアが目を開けると要石は消え去っており、大きな穴が背骨を二つに割ろうとしていた。
意気揚々と彼女はナイラを呼んだが、粗暴な手が彼女を通路へと引っ張った。禿頭の男は彼女を揺さぶり、彼女を見据えて絶叫した。男の背後でナイラは立ち上がろうともがいていた。陽光弾手の頭部には血がもつれていた。
「このちびが!」 その男は絶叫した。「お前で最後だ! お前の血で火を点せ!」
そして彼はカーリアを通路から放り投げた。
猫の優雅さで、ナイラはカーリアを追って跳んだ。彼女は空中でカーリアをその腕に抱きしめ、二人は一緒に落ちた。着陸する直前、ナイラは身体をひねりカーリアの落下の衝撃を和らげた。頭上では背骨が大きな破裂音を立てていた。禿頭の男は少しの間ぶら下がっていたが、ヘルカイトの胸郭が真二つに裂けて墜落した。彼の身体は気分の悪くなるような衝撃音とともに地面に叩きつけられた。骨は音を立てて地面に落ち、絶望的にナイラを手当てしようとするカーリアへと降り注いだ。カーリアの視界が危険なほどに回転した。
「ナイラ!」 カーリアは泣いていた。「私達、止めたよ! 骨はばらばらになった!」
「よくやった、小さな戦士」 ナイラは囁いた。「ここから逃げるんだ。他の者は皆死んでしまった」
地面からエネルギーの爆風が放たれ、ぎざぎざの傷跡を残して闘技場が二つに裂けた。骨と死体は風に舞う羽根のように飛ばされた。カーリアは闘技場の壁に叩きつけられ、彼女の周囲を飛び交う瓦礫から半狂乱になって顔をかばった。彼が裂け目から現れ、今や向こうからやって来ようとしていた。翼が音をたてて広げられ、彼はゆっくりと夜空に舞いあがった。
それはまるで世界全てが、彼という一点へと狭められたようだった。彼が空中へとその剣を振り上げると、死者の叫びが谷にこだました。意識を保とうと奮闘しながら、カーリアは陽光弾手の顔が頭上の煙の中にふらふらと渦巻く様子を垣間見て、そして世界が暗転した。
カーリアが目覚めると、弱々しい太陽は東の空から昇り、彼女の周囲の惨状へと白い覆いを投げかけていた。瓦礫の中、動くものはなかった。聞こえるのは遠く、昆虫達の鳴き声だけだった。瓦礫の間に散らばる死体は焼け焦げて誰のものかすらもわからなかった。谷の向こう側では、尾根の半分が消失し、そこにはただくすぶる噴火口があった。デーモンは姿を消していた。
彼女はナイラが最後に横たわっていた場所にひざまずいた。カーリアは空っぽだと感じた。まるで自分の内部がはぎ取られてしまったかのように。そしてそこにはただ影だけが代わりにあった。私はデーモンを殺す。どうすればいいのかはまだわからない、だけど私はその方法を見つけてみせる、あいつを罰する方法を。広大な荒野へと踏み出し、そこで彼女は復讐の機会を見つけ出すだろう。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)