霧に包まれて
銀翼の監視機械が耳の傍で羽音を立て、私はそれを追い払いたい衝動をこらえた。これに魔法をかけたのが誰かは知らないが、雑な仕事だ。恐らくは新米の精神魔道士だろう。この虫は武器の密輸を追跡調査する手伝いの筈が、むしろ私を監視する方に多くの時間を費やしている。この埠頭で仕事を始めて最初の数週間こそ収穫は多くなかったが、今や宝石を散りばめた戦槌、骨細工の鎧、毒入りナイフといったものが詰まった木箱を発見せずに終わる日はない。緊張がラヴニカに満ちている。それは私も強く感じているが、ディミーア家は私に考えることを期待してはいない。彼らが期待するのは、察知されることなくこの秘密の仕事を行うことだ。高く積み上げられ詰め込まれた木箱は細い通路の迷宮と化しており、私の仕事は単純なものだ――素早く、虫一匹が入る程度に細く蓋をこじ開け、そして元通りにしたら次へ……ただこの時は、木箱の中に薄いきらめきが目をひいた。
「南部製板根ウィスキー」、ラベルはそう読めた。次の瞬間、その瓶は私の手の中にあった。高価で魅惑的、そしてセレズニアの森から引き抜かれた千年樹の樽で熟成されたもの。不道徳? かもしれない。儲かるか? それは明白だ。もっと強力な呪文で木箱を封じておくべきものだ。虫は鳴き声を上げて急かすが、遅すぎた。私の心は既に手に入れられるであろうコインの山を想像していた。その長く細い瓶は私のトレンチコートに程よく収まるだろう。誰も気付くことはない。不意に、虫が高い音を立てた。顔を上げると近づく足音が聞こえた。耳を澄ましておくべきだった。メレットよ、不注意すぎだ。霧がうねって私の姿をぼやけさせ、僅かな時間を稼いだ。その隙に瓶を緩衝材の藁の塊へと押し込み、そっと蓋を押して閉じ、何でもないように装った。
「おお、メレットか!」 上役のグリンブリー・ワティスだった。分厚い胸の前で腕を組み、両脇の木箱に角がこすれた。半ば人間、半ば雄牛のこの男は総じて荒々しい奴だった。「丁度いい所にいた」
「どうしました?」 私はそう言って両目をそらし、周囲に溶け込むよう努めた。透明になれたらと思った。
「仕事相手が船着き場を見たがってるんだが、霧が濃すぎる。晴らしてくれ」
「ウォーウィックじゃ駄目なんですか?」 私はそう尋ねた。多少の霧ならば操れるが、一年ほど訓練したにも関わらず、港から霧を晴らすほどの力は私にはない。相手に悪夢を与える、もしくは記憶を消去するだけの強い集中ができないのだ。ディミーア家の秘密工作員として私が提供できるものは多くない。悪意のかなてことして働くくらいだ。
「ウォーウィックは出払ってる。ベンダーもだ。お前だけなんだよ」 そして私を上から下まで見下ろし、鼻息を荒くした。「運の悪いことにな」
「信頼をありがとうございます」
「何が信頼だ……霧を晴らさないなら今日の給金は出ないぞ」
「いま取り掛かっているところです、親方」 私は不満をこぼした。あの忌まわしい瓶を取っておくべきだった。この霧を私が晴らすすべはない。支払期限は過ぎ、妻と子供達は腹をすかせている。給金が減れば借金は増える。私は最も長い桟橋の先端に立ち、周囲の魔力に集中した。それを捉え、ガラスの欠片を吸い込むようにその力を引き寄せ、そして放つと、自らの内から出でた力が雷鳴のように耳の内に轟いた。霧がわずかにうねり、川幅の半ばまで見通しが晴れた。だが螺旋模様の帆を持つ小奇麗なシミックの帆船が一隻、水面を切り裂いて進む姿を見せただけだった。マーフォークが二人、その小舟の脇を進んでいた。先頭の一人が私へ振り返り、顔をしかめ、そして水かきの掌を船体に押し付けた。数秒のうちに、その帆船は揺らめく青緑色の波の中へ消え、一見して途切れ途切れの川の水へと紛れてしまった。
グリンブリー・ワティスは蹄の足を踏み鳴らし、深く轟く笑い声が霧笛ほどもある音を立てた。「ご覧になられましたか?」 そしてそう言って投資者へと振り返り、悪意のある笑みを広げた。「このあたりを進むような船にとって、この濃い霧は実にありがたいものでしてね。ご覧になられればわかるかと思いますが、実に有益ですよ。明日は船着き場をお見せしましょう。今夜は新たな友好の始まりに乾杯を!」 そしてその巨大で毛深い手で投資者の背中を叩き、共に歩き去ったが、魂を砕くような視線で私を睨み付けることも忘れなかった。
私は集合住宅の建物へと続く階段に柔らかく足をかけて進み、その隅に乱雑に積み重なった落ち葉の塊を避けた。借家の建物は雑然と固まり、尖塔屋根は開いた口に並ぶ穴だらけの牙のように突き出ていた。ここに太陽の光は当たらない。決して。鍵穴地区は落ちぶれた果てに辿り着く場所として最悪の住処というわけではないが、時々その陰気さは私を苛立たせる。
九階まで昇り、開いた窓を覗き見た。我が家の小さな台所はまるで猛烈な呪文が炸裂でもしたかのように、ひっくり返った椀や計量匙が台の上に散らばっていた。ターシは腰で赤ん坊を支えながら、矢根粉と猪香を混ぜていた。それは市場で売るための安価な治癒軟膏になるのだ。作業をするための蝋燭の明かりは細く、それは緩んだ上着の生地から危なっかしい程近くに浮かんでいた――黄金色の葉の模様が縁にある緑色の上着。昔は、とても似合っていたような気がする。
取手を回して私は中に入った。我が家の床に散らばる罠についてディミーア家は何も知らない。木のブロックは座して待ち、その鋭い先端で裸足を貫こうとしている。肋骨でできた車輪付きの木琴は素早く首を折る。私は半ば第二の天性のようにそれらを避け、妻へとその知らせを打ち明けるべく向かった。
「メレット! 遅いじゃないの」 憤激してターシは言い、私の腕に赤ん坊を押し付けた。この子は一歳になろうとしているが、未だ新生児のようにやかましく泣いてはぼんやりとしていた。重さは感じないほどに軽く、ひっきりなしに鼻水が滴っていた。二秒抱きかかえただけで、コートの襟のそこかしこが汚れた。
「お父さん!」 長女のソシェが駆けてきて、私の腹部へと頭からぶつかった。笑みを作りながら、私は苦痛を噛み殺した。
「ソシェ、まだ寝ていなかったのか?」
「お父さんを待ってたの」
「今日はいい子にしてたか?」
「とんでもない」 妻は苛立った声で言った。「マティの精油の瓶を割ったのよ。全部駄目になって! 代わりになるお金はあるの? ガス灯のお金がないなら、一日中蝋燭の上にうずくまっていないといけない。この子に食べさせる分は?」
「昨日、あんなに林檎を持ち帰っただろう」 次の質問を先延ばしにできると願って、私は念を押した。今日の支払いは? 埠頭での仕事内容は秘密でも、金は本物だった。それだけが私達を生かし続けていた。
「メレット、あれは腐りかけてた市場の売れ残りでしょう。この子は食べても食べても大きくならない。本物の食べ物が要るのよ。きちんとした店から手に入れる食べ物を。この子のお腹を満たすものを!」
「私だってお腹すいた!」 ソシェが叫び、腹を叩いた。「お母さんも!」
「もう寝なさい!」 妻がソシェを叱りつけると、小さな足音が石の床に響いた。ソシェは暗い暖炉の隣に設えた寝床に潜り込み、すり切れた毛布で身を包むと、使い古した暖気呪文が毛の房のように漂った。
「私は……」 そう口を開きかけ、だがそこで初めて気づいた。妻の顔がこんなにも痩せこけてしまっているとは。喉が詰まり、言おうと思った言葉は出てこなかった。「済まない――」
「メレット、食べ物を。方法は聞かないわ」 妻は私の腕から赤ん坊を抱き上げると、再び薬草の混ぜ物に魔法をかけ始めた。
私は少しの間そこに立ち、自分の人生がいかにしてこうなってしまったのかを把握しようとした。扉の下の隙間から霧が忍び込み、私を包むようにうねった。まるで街路の寂しさが我が家の内に、私の内にその居場所を主張するかのように。
食料品店から盗むのは鍵穴下層地区の市場から盗むより簡単などでは全くなかった。おや、ここの奴等もなかなかやるらしい。尾行されているようだった。五歩背後に、その顔に大きな笑みを浮かべながら。私はそいつを撒こうと、湯気を立てる鹿挽肉のパイや無傷の果物の山を、そしてヴィーアシーノ向けに十二種類もの生きた蛆の瓶を売るような店が並ぶ小路を昇っては下った。だが私が何をしようとも、その店員はずっとそこにいた。同じような強面の顔が、鍵穴下層地区では商人に邪険な態度を取っていた。だがこの上品ぶった界隈でそいつは「泥棒がいるぞ!」と叫んでいる。
私は手ぶらで離れ、だが実に幸運なことに、何度も私を縮み上がらせたあの轟く笑い声を耳にした。顔を上げると、グリンブリー・ワティスと投資者が四階上の集合住宅から出てきた所だった。その建物は巨大で頭でっかち、浄化の魔法に浸されているため落書きすらなかった。このあたりに住んでいるとは知っていたが、ここまで良い所だとは思わなかった。巨大なガス灯が幾つも暗闇を切り裂き、光沢のある赤い建材から突き出た銀色の印をきらめかせていた。
通行人らが市場から市場へと続く通路を急ぎ、私はその様子を観察した。巨体の踏み吠えインドリクが街路を歩いていた。その轡の魔法はあまりに強く、私の場所からもその熱を感じた。インドリクの背中に渡した網状の装具に労働者の群れが掴まり、様々な遠方の家に帰ろうとしていた。典型的な夕時の混雑。鎖帷子と陽光の兜を身にまとう百人隊長もまたそこに駐屯し、夜間の交通が滞りなく進むよう監視していた。私は影の中へと進み、上役が気付くことなく酒場に向かったことを確認すると、その家へ忍び込むべく向かった。扉の鍵の魔法は堅固だった。私にとっては難しすぎるが、脳まで筋肉のミノタウルスは自分達が標的になるなどと考えたこともない。私は建物の裏に回り、素早くバルコニーを跳び越え、思った通りに鍵のかかっていない窓を発見した。
薄い霧のように中へ滑り込むと、高価な陶器の床材へと足がかすかに触れた。疑念が私に噛みついた。確かに、私は時折市場から物を盗んできた。すりも行ってきた。だがこのようなことをするのは初めてだった。師の失望した表情を思い出し、私は引き返しかけた。あれは六か月もの熱心な指導を受けたにもかかわらず、私が記憶の一本すら引き出せなかった時のことだった。「君はディミーア家に向いていないのかもしれないな」 師はそう言っていた。いや、言ってはいない。その思考を私の心に差し込んだ、息をするように容易く。そして今もその言葉は目の前に居座っている。私はそれを振り払った。父はスパイだった。叔母と叔父と合わせて三人。私には隠密の血が流れている。私にはできる。
狭い廊下を少し進むと、台所に出た。最下部のガス灯が一つだけ点いており、戸棚へと温かな黄金色の光をわずかに放っていた。台の上にはパン籠があった。一塊を掴むと、煉瓦一つほどのそれは栄養たっぷりのものと感じた。完璧だった。だがその籠の隣、針金の棚に下げられた何か別のものが気にかかった。霊薬、それも十本ほども。私は長く角ばった、そして分厚く精巧なガラスでできた一本の瓶を手にとった。「集中の霊薬」、金属のラベルはそう読めた。その内には粘りのある青い液体が、最高に純粋な月光を浴びているかのように光っていた。そのパンは良いものだ。今夜の家族の腹を満たすことができる。だがこれは……この霊薬はほんの数滴だけで私達の人生を変えられるだろう。魔法の力を増強して、埠頭の仕事ができる。ギルドでの地位を取り戻せる。ほんの数滴だけで。上役に気付かれることはない。
栓を抜くと、鼻にその香りが漂った……柔らかく、綿のような香り。洗いたての毛布のような。私は口を開き、瓶を傾けた。
一滴。
二滴。
念の為、もうほんの一滴。だが最後のそれが舌に落ちるよりも早く、全ての明かりが点った。私は驚きに目を見開き、そして霊薬は一気に零れて顎を流れ、トレンチコートに染みを作った。呆然として彫像のように動けず立っていた所で、一人のミノタウルスが台所に入ってきた。目は半開きで髪を巻き、長いローブは蹄近くまで引きずっていた。ラヴニカ中を探しても、グリンブリー・ワティスと毎日寝食を共にする相手がいるとは夢にも思わなかった。本物のスパイならばそういった物事を調べる手間をとるべきだった。現実を甘く見ていたということだ。私は全くもってスパイなどではない。ただの泥棒だ。
その女ミノタウルスは欠伸をし、粘つく口内に歯の一本一本までが見えた。威嚇する様子はなく、だがもしその気になれば私など即座に真二つにできてしまうことは心の底からわかっていた。私は立ったまま、全くの無防備に、霧を身にまとおうとすらしなかった。その女性は寝ぼけているようで、だがここに長くはいないだろうと私は確かに思えた。その女性は私の向かいの台へと歩き、大きな金属の椀を取り出し、草と麦をその縁まで満たした。そして両手でその椀を持ち上げると私へ向かってきた。
だがあの霊薬、私は今それを感じていた。散り散りの思考が一つに集中し、筋肉が収縮を始めるのがわかった。このようなことは初めてだった。指先が輝き、忘れかけていた呪文が不意に唇から発せられた。魔力を掴むと、女ミノタウルスの思考が地図のように私へと広げられた。引き、押し、すると突如私の姿は不可視となった。女ミノタウルスは私に触れる寸前まで来ると、一口、二口、三口……口は開かれ、目は空ろなままだった。
罪悪感が私を圧倒した。霊薬をこんなにも無駄にしてしまった。それは詫びるべきだろう。払い戻しを申し出るべきだろう。だがそのような債務を背負う余裕はない、特にこの女性の夫から受けている扱いを考えれば。それをさし置いても、これほどスパイ活動が下手だとディミーア家に知られたなら、私は永久に消されてしまうだろう。やるべきは、黙っているということ。ここに夜じゅう立っていることになっても。私は息を吸い、パンの塊を頼みの綱のように胸に抱えこむと自分を安心させた。すぐに子供に食わせてやれるだろう。
激しい魔力が指先から弾け、目の前から霧が晴れた。埠頭で働きだして以来初めて、川を見渡すことができた。あまり良い光景ではなかった――濁った水、ごみと繁茂する水草の塊。グリンブリー・ワティスと出資者にとっては、こうしてありのままの様子を見せるよりも隠しておく方が良かったのではないか、そう訝しまずにはいられなかった。港は大したものではなかったが、私にとってはどうでもいいことだった。
私は次第に苛立ち、指先に全魔力を込め、他の労働者にこの力を少々見せつけてやりたくなった。起重機を操作するのはヴィーアシーノのヤンティスで、その粘つく指はレバーを引き歯車を調整する作業にとても適している。だがその二又の舌はこれまで少なからぬ爬虫類的罵倒を私に向けており、少々の仕返しをする時に思えた。私は教わった悪夢呪文を詳細に思い出した。以前は只のもや以上に現れることはなかったが、今やヤンティスの脳には蒸気を立てる紐が巻き付いており、私に引かれる時を待っていた。とても急激に、強く、力が私の内に湧き出した。そのため調整ができなかった。ヤンティスは悲鳴を上げ、存在しない目の前の恐怖全てと戦った。轟く音と共に起重機が左へ回転し、木箱が緩んでふらつき、埠頭の隅に立つグリンブリー・ワティスと出資者へ向かって落下した。外れた木箱を、のたうつヤンティスを、そして私の指先から悪夢呪文の最後の数片が流れるのを上役は見た。そして私を睨みつけ、すんでのところで出資者を川へと突き落とした。ワティス自身も飛び込んだ瞬間、二人が寸前まで立っていた場所へと木箱が墜落した。
ガラスが割れ、上質なウィスキーの鋭い香りが大気に満ちた。監視機械がまたも私の耳に音を響かせた。小さな翼が羽ばたき、両目はまっすぐに私を見据えていた。まずった。千ジノに値する荷を駄目にし、それを見られた。私はひるんだ。仕事を失うのはどうにかできる。だがディミーア家が扉を叩いたなら、私の存在などなかったようなことになる。まずい。奴等が扉を叩いてくる。
全速力で私は家へと逃げ帰った。できる限り荷物をまとめて鍵穴地区を離れて、旧幽霊街へ向かって隠れるか、マホヴァナの廃墟へ避難して梢を新たな家とするか。入口の扉の取手をひねったが、力を入れすぎて鍵が壊れた。弱々しい魔法の名残が塵のように大気に流れていった。赤ん坊を抱きかかえたターシがそこに立っており、顔には大きく確かな笑みが広がっていた。
「メレット! メレット、この子を見て!」 妻は赤ん坊を抱き上げた。成長していた。頬はふっくらとし、歯のない笑みをきらめかせ、両目には明らかな輝きがあった。「こんなに丈夫になったのよ。この筋肉はわかる? すぐにでも歩きだしそう」 そして妻は私を抱き寄せて頬に口付けをし、いかに私を愛しているかを伝えた。自分達の生活が変わろうとしている、それも良くない方向にとはとても言い出せなかった。「何もかも良くなるわ」 妻はそう言ったが、私は、赤ん坊が齧っていたパンの塊についた青い霊薬の染みをただ見つめていた。そのごく僅かな、月光のような揺らめきを。
そして赤ん坊がくしゃみをした。すると我が家の蝋燭が全て、一本残らず燃え上がった。
何かが起こっていた。良いことか悪いことか、それはわからなかった。扉を叩く音が聞こえ、考える余裕はなかった。私は自分の体重をかけて抵抗した。その向こうでグリンブリー・ワティスが怒鳴り散らしていた。あの事故を起こしたのが私だと知っていると、そして荷を駄目にしただけでなく投資者を危険にさらしたと。そいつは私が聞いたこともないマーフォーク流の罵倒を口にしていたらしいが、埠頭のお偉方は蹄を打ち鳴らして怒り狂っていた。壊れた鍵では、扉は長くはもたなかった。私は家族へ囁いた。ターシは赤ん坊を連れて戸棚に、ソシェは寝床の毛布の中に隠れるようにと。私は……この小さな家に身を隠す場所は残っていなかった。どのみちそれは問題でなかった。太い蹄が薄っぺらな扉を叩き割り、破片が飛び散り、私もまた飛ばされて顎をしたたかに打ちつけたのだから。
脳内の霧を晴らすまでに一瞬を要した。だがすぐに目の前の魔力の糸を掴み、自分を相手の視界から遮ろうとしたが無駄だった。今や、グリンブリー・ワティスは私を威圧するように立ち、顔をしかめ、角の先端のように鋭い凝視を向けていた。その身体には川に浮くごみの破片が貼りついたままで、汚れた水と湿った川の悪臭が混じっていた。
「貸しができたな、メレット」 そいつは我が家を見渡して轟く笑い声を上げた。ここに価値のあるものは何もない、それを把握したかのように。「お前の給金から差し引くことになるが、あのウィスキーを弁償するには人生三度分は必要だ。だからお前の財産から頂いてやろうかと思ったが、どうやら相当高値がつきそうなものがあるようだな」
心臓が胸の内で締め付けられ、止まったように感じた。そいつの両目が台所へ向かうのがわかった。
「何でもする」 私はそう言って、戸棚を遮るように走った。「毎日、港の霧を晴らす。もっと長い時間働く。妻もだ! 妻も働く。何としても支払う、約束する」
「窓から見たぞ、お前のガキがやった事を。蝋燭の芸当をな」 蹄でむこうずねを蹴られ、私は痛みを堪えた。だが次の一蹴りが肋骨に直撃し、私は身体を丸めて倒れこんだ。
そしてワティスは私を通り過ぎ、戸棚の扉を開け放った。ターシは中ですすり泣き、赤ん坊はその胸で眠っていた。妻が怯え、子供が危険にさらされる様子は私の怒りに火をつけた。私は再び立ち上がると、魔法を描き出した……今まで、それは辛い作業だった。まるでひび割れたストローから強く吸い込むような。だが今、それは川のように奔放に私へと流れ込んできた。
「こういうガキは何かの役に立つ」 グリンブリー・ワティスはそう言って、妻の腕から赤ん坊をもぎ取ろうとした。妻は抵抗し、噛みつき、悲鳴を上げ、そして今や赤ん坊は目を覚まして泣き叫んでいた。
私の指先に光が踊り、そしてワティスの心の繰り糸が私へと広げられた。引き寄せ、掴み、最奥の恐怖から構築した特別製の悪夢を織り上げた。今やグリンブリー・ワティスもまた叫んでいた。甲高く突き刺すような悲鳴に我が家のガス灯のガラスが鳴った。そいつは目の前の見えざる敵と戦い、ポットや鍋を投げつけ、椅子につまずいた。そこかしこで足を踏み鳴らし、やみくもに歩き回った。だがソシェが隠れている毛布の山近くを踏み鳴らした時、私の神経が張りつめた。あの蹄が……ほんの一瞬だけ集中が弱まり、だがグリンブリー・ワティスにとっては悪夢を振り払うには十分だった。そして私の息子へと駆けた。
そのまま、赤ん坊はグリンブリー・ワティスの腕の中に収まった。その子は背を曲げて、心をねじるような悲鳴を上げた。私の内に涙がこみ上げた。
「メレット、お前はいつもそうだ、集中ができない」 グリンブリー・ワティスは私をそう罵った。「これでチャラだ」
「その子を返せ――」
グリンブリー・ワティスはその脚を高く上げ、一瞬、私はその圧倒的な筋肉と力に目眩を感じた。蹄が顔面を直撃し、私の世界が苦痛に弾けた。血が両手に零れ、滴った。一瞬の自失から我に返ると、ワティスは玄関口にいて壊れた扉から角を通そうとしていた。赤ん坊はもがき、妻は腿の毛を掴んでいた。そいつは乱暴に妻を振り払った。彼女は飛ばされて戸棚の脇に叩きつけられ、何かが砕ける音がした。古びた木の戸棚ではない何かが。
赤ん坊の悲鳴と妻の悲痛な泣き声を無視し、私は全力で集中した。魔力を掴み、ワティスの分厚い首周りに緩い首絞め紐をかけようとした。だが魔力の流れは僅かな滴へと戻っていた。相手が感じるのは、喉を引っかく程度の何かだった。そいつは一度だけ咳をすると私へと振り返り、笑った。
「明日埠頭で待ってるからな、明るく――」 両目が見開かれ、ワティスは息を詰まらせた。私は自分の指を見下ろしたが、泥のように暗かった。ごく僅かな魔力すら私は起こしていないというのに、グリンブリー・ワティスは心を掌握されていた。それは確実に言えた。私は赤ん坊の両目に熱を垣間見た。その子は再び背を弓なりに曲げ、腕を振り上げ、そして不意に、いなくなった。消えた。その場から。
「何をしたの!」 折れた肋骨を押さえながら、妻が悲鳴を上げた。
勇敢なソシェは隠れ場所から這い出ると、ワティスへと木のブロックを投げた。一つが額に命中した。
「やめなさい! 赤ちゃんに当たるだろう!」 私は慌ててそう言い、赤ん坊の服の中を見ようとした。ワティスの腕の中にいることを願ったが、そこには何もなかった。私は狼狽に襲われた。落としたのか?
グリンブリー・ワティスは咳をし、大きく息を吸うと落ち着きを取り戻した。血走った目が私を見下ろし、言った。「ガキはどこだ?」 まるで赤ん坊の消失が私のせいだというように。
私は怒り狂っていた。筋道立って考えることができず、ワティスの顎をまっすぐに殴りつけた。そいつは大きな鼻息を鳴らし、そして眼光が和らいだ。まるで喧嘩に合意できたとでもいうように。私は両拳を上げ、取っ組み合った。私は相手を扉から押し出そうとし、ワティスは居座ろうとした。だがそこでターシが赤ん坊の名前を叫んだ。誰もが動きを止めて見つめた。
赤ん坊はそこに、床に座っていた。腕に引っかき傷があり、星のような形の妙な果実を握りしめていた。見たことのないものだった。赤ん坊はそれを口に入れ、皮の苦さに唇を歪めた。それを吐き出すと両手足に力を込め、這い進もうとした。グリンブリー・ワティスは私を押しのけて近づこうとしたが、私は全力で阻止した。「お母さんの所へ行け」 私はそう言い聞かせた。「お母さんの所へ!」
だが赤ん坊は聞いていなかった。その両目は部屋の向こう側を見据えていた。そして私は見た。影のようなものが暖炉の隣、肘かけ椅子に座っていた。全員がそれを見た。その人物を見た。そして私は脳の奥深くのどこかで実感した、その人はずっと、長いことそこに座っていたのだと。身を包むのは滑らかな外套、その生地は遠い昔に絶滅した何かの獣の革で……堂々としていた、我が家のぐらつく肘かけ椅子ですら玉座だった。この部屋の、この区画の、あるいはこの地区全体の魔力がその人物へと流れていた。まるで何でもない湖の真中に、不意に陥没孔が開いたかのように。私はかぶりを振り、ありそうもない思考を振り払おうとした。ラザーヴなのだろうか? ディミーア家の長、黒幕のラザーヴ? 身体のあらゆる骨が、痛みながらもその存在に屈したがっていた。とはいえそのような行動は私でも最悪の無分別に思えた。
赤ん坊は再び身体に力を込め、そして不意に立ち上がった……前後にぐらつき、ふらつき、やがて最初の臆病な一歩を踏み出した。自らを誇るように、赤ん坊はしばし笑みを浮かべた。そして次の一歩、また一歩と進み、やがて重力に負け、ラザーヴの両腕へとまっすぐに倒れ込んだ。ラザーヴは赤ん坊を膝の上に抱え上げた。
「メレットの負債は全額、明日の締めとともに支払われるだろう」 ラザーヴはワティスへと言った。「引き換えに、今後一切この一家との接触を断ってもらおう。良いかね、ワティス殿?」
「何様のつもりだ?」 頭部を傾けて角を向け、全身で威嚇しながらグリンブリー・ワティスは言った。
「何者でもない」 その声はかすかな風音のようでありながら神々しく、だが柔らかさは一切なかった。ラザーヴが片手を振ると、部屋全体が回転を始めた。銀色に輝く呪文が、我が家の縁を取り囲むように燃え上がった。私は床にしがみつき、世界の重さに肺が圧迫されるように思えた。回転は次第に速まり、家具は軋み、壁は震え、窓は歪んでガラスが弾け飛びそうだった。そして甲高い音を立てて全てが急停止した。
しばしの間、絶対的な静寂だけがあった。やがてグリンブリー・ワティスが呟いた。「わかったよ。あんたの言う条件は飲んでやる」 ふらつき、バルコニーから落下しかけながら、我が家から去っていった。
「宜しい」 ラザーヴは言った。今や私へと微笑みかけ、一方で赤ん坊は喜ばしくその指関節を噛んでいた。「お前が失望させてきた分、この赤子には感心させてもらおう」
「息子は渡しません」 尊敬を込めて、だが力強く私は言った。
「お前の息子が欲しいわけではない、少なくともこのようにはな。この家に置いておく。適切に育てよ。だがお前の負債を肩代わりする条件として、この子の学びを監督する家庭教師をつけさせてもらおう。無論、この子とお前達の必要を適切に満たすだけの給費は送ろう」
私は唖然とした。ターシの所へ向かい、そっと抱き寄せた。妻の痛みを幾らかやわらげようとしたが、ただ見つめ合うことしかできなかった。驚きに何も言えず、尋ねるべき言葉が出てこなかった。
「私の弟、特別なの?」 恐怖とともに覗き込みながら、ソシェが口を開いた。
ラザーヴは石が肋骨を引っかくような、かすれた笑い声を上げた。脳内の何かが横向きにねじれ、心に霧がかかり、そして前触れもなく、誰もが笑い合っていた。肘かけ椅子には大叔母が座し、膝の上で赤ん坊をあやしていた。ソシェは木琴を鳴らして遊び、ターシは台所にて、市場で手に入れたのであろう紫色の珍しい果物を切っていた。妻の横へ向かうと彼女は微笑みかけ、甘い果肉を私の舌に置いた。それを噛むと、少し顎が痛んだ、まるで口を殴られた後であるかのように。
「叔母さんがしばらく世話になるけれど、本当にいい?」 妻が尋ねてきた。「脚が直るまでの間だけだから。困ったことにはならないと思うし、作業をしている間に子供を見てもらえるから」
「もちろん大丈夫だ。叔母さんはいい人だし」 私はそう言った。「ちょっと気になることはあるが。年寄りの知恵ってとこか? でも皆にとっていい存在になるだろうさ」
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)