寄稿:アリ・レヴィッチ、ダグ・ベイアー、ケリー・ディグス、キンバリー・J・クライネス

前回の物語:背水のゼンディカー

 エルドラージの巨人は倒された。ゼンディカー世界は救われた。そして今、その役割を果たしたプレインズウォーカー四人は、次にどうするかを決断せねばならない。


 唾を呑み込むと、枯れた喉へと突き刺さるように痛んだ。いびきをかいていたに違いない。快適な寝具の上、雄牛皮の毛布の温かさに包まれながら、ギデオンは瞼をわずかに開かせた。天幕の中はまだ暗く、だが毛布を脇に除けると、大気は静かながらも天幕の外の世界の乾きを予期させるように彼の皮膚へと噛みついた。夜明け前の暗がりの中、ギデオンは肌着を見つけてそれを身につける前に鳥肌が立っていた。入口脇の椅子の上に置かれた木の椀から顔に水を叩きつけ、そして衣服を身に着け終えた。天幕の梁からぶら下がる水袋を手にとり、肩にかけるとギデオンは入口の重い帆布を押し上げた。

 入口をまたぐと、天幕の中に何かが光ってギデオンの注意を引いた。首を傾けると、胸当ての輪郭が寝台の向こうに見えた。すね当て、肩鎧、盾、そしてスーラも。彼はあえてそこに置いたままでいた――ひとまずは。今は必要ではなく、そして不意に首周りと肩の軽さを彼は感じた。気持ちの良いものだった。

 冷気もまた感じた。鋭い風が東からそれをもたらし、毛布の下に抱いていた暖気の名残を奪い去っていった。その風の上に、滝の音が聞こえた。それは宿営地の向こう側に浮かぶ地塊から零れ続けていた。地平線は紫色へと変化し始め、そしてギデオンはごく僅かに竈の火の匂いが加わった朝の空気を深く吸い込んだ。

 そして彼は駆け出した。水袋が肩甲骨の上で物憂げに跳ねた。

 これは彼の儀式だった、始めて僅か三日目のそれをそう呼んでいいのであれば――日の出前に起き出し、武器や鎧を帯びず、軍をやり繰りする重荷もなく、ただ走る。彼は自身の呼吸に集中した。ただ次に続く一歩だけを考えれば良かった。

 ギデオンはゼンディカー人の大宿営地であったものを周る道をとった。この場所は傾げて遺棄された巨大な面晶体を取り囲む浮島の集まりで、全てが綱と橋で繋げられていた。

》 アート:Adam Paquette

 ここは空岩、エルドラージが約束した破壊に対抗すべく共に立ち上がったゼンディカーの人々が、かつてない規模で集った場所。海門へと進軍する前、この重力を無視した大地の一部が全員を収容できなくなる程に軍勢は膨れ上がり、第二の宿営地が空岩の影に立てられた。だがその数は次第に減っていった。多くが海門において自らの終わりから逃れることはかなわなかった。だが巨人達が倒された今、ゼンディカー人は毎日次々と出立していった。

 頭上では雲が曙光の橙色を帯び、暗い空に伸びていた。ギデオンは目でそれらを地平線へと追い、そこでは太陽が海面に顔を出そうとしていた。自身と地平線との間に、ギデオンの視線は海門の残骸を見た。早朝の弱い光の中でも、かつて眩い白石の防波堤と堅固な灯台だったものが、今や崩れて根元だけが残されている様子が見えた――湾の入り口の、腐った歯のようだった。

海門の残骸》 アート:Zack Stella

 海門。ハリマー盆地。全てがそこで起こった。心の中で、ギデオンはこの風景にエルドラージの破壊で満たされた出来事の連続を並べた。ジェイスはこれをずっと見ていたに違いない――ある程度論理的に進む一連の筋書を予測しながら。ジェイスは自身の価値を示した。他の者達が離れていっても、彼は残っていた。力線の謎にはふさわしい人物だった。そして今、自分達二人は誓いで繋がる兄弟だった。

 ギデオンは心をゲートウォッチへと向けた。未来像を共有した四人のプレインズウォーカー。ジェイスに加えて、ほんの数日前には他人であったニッサも、今や自身の世界だけでなくその先へと力を貸そうとしている。

 そして、チャンドラがいる。ついに、彼女は来てくれた。来てくれると思った通りに。

 ギデオンは二つの平たい巨岩の間にかかる吊り橋に足を乗せた。その木の厚板は彼の体重を受け、一歩ごとに激しく揺れた。渡り切ると彼は立ち止まり、水袋を開いて飲むべく唇へと持ち上げた。

「今朝は遅いですね?」 背後から声が聞こえた。その言葉は木の厚板に響く靴音に途切れ、ギデオンは振り返っておぼろげな人影が近づいてくるのを見た。革袋から水が零れて彼の服を濡らした。

 タズリだった。ギデオンは微笑み、追い越していった彼女の後ろを駆けた。「追いつく余裕をあげたんだよ、司令官」 そう言って、今度は彼が追い抜く番だった。彼は両脚に力を込め、全力疾走した。今や、いつでも彼は肩越しに幾らかの冗談を放つことができた。いつでも。そして彼は全力を出したが、タズリは速度を保った。ギデオンはそれが好きだった。

 兵士二人はしばしの間無言で共に走り、安定した足取りと規則正しい息遣いで宿営地の周囲を巡った。

 まもなく宿営地は活発に動き出した。炎が竈に次々と灯され、やがて軍が動き出す音とともに大気を満たした。「今日は、志願兵たちに演説をするつもりです」 タズリは足を止めずに言った。ギデオンは彼女へと顔を向け、そして彼女の視線の先を追った。次に出発する者達――コーとエルフの混ざった一団が、この次元の何処か遠い端へと向かう旅の準備をしていた。

 ウラモグとコジレックは死んだが、落とし子の報告は入り続けていた。「どれほど多くが残ると思うか?」 ギデオンは尋ねた。

 タズリは嘲りとも含み笑いともつかない声を発した。「ご存じでしょう、私はこの数日ずっとこんなふうに悩んでいるんです。いつかあなたと私だけになって、ずっとここを走り続けるんじゃないかと」

「ならば君は、言葉で働きかけるといいかもしれないな」 ギデオンは笑みを見せようとしたが、彼女は別の方角を向いていた。思えば彼女は司令官の天幕内で、地図を広げて将軍達と議論をしていた。糧食について口論していた。戦場では前線を率いていた。そしてよく通る声を持っていた。指揮という責務。それは今や彼女の――タズリ司令官のものだった。そしてギデオンは彼女よりも良い選択肢は思いつかなかった。

「ギデオン、あなたはどうするのですか? 残ったエルドラージを片付けるためにあなたを数に入れても?」

 あの悪魔の洞窟から脱出し、再会した時、ギデオンはタズリの変化に気が付いた。それが何かは明確に言えるものではなかった、少なくともその時は。だが彼は今それを、涼しい落ち着きだと思っていた。嵐のように荒々しい統率力をまといながら、それに屈することはないだろう。必要であれば、彼女はそれをまとうと決意していた。「仰せの通りに、司令官」 ギデオンは言った。

「ですが、貴方はいずれ……」 タズリの言葉は小さく消えた。

「いずれ」 彼は認めた。ギデオンはゼンディカーの者ではない。エルドラージに対抗すべくここに来た。だが他の世界には他の脅威があるのだろう。そして彼はゲートウォッチとなることを誓った、他の者が行けない場所へ赴き、力になることを。

 沈黙の中、二人はまた走り始めた。

「でしたら、それまでは」 少ししてタズリは口を開いた。「貴方がいて下さることを嬉しく思います」 今度は彼女が笑みを向け、そしてギデオンを追い抜き去っていった。


 二つのざらついた、固い皮の手が伸ばされて鉄に触れた。戦場の乾いた血はその手からほぼ綺麗に拭われていたが、爪の中には赤い線が残っていた。それらが触れる鉄は剣の柄や盾の屈曲した表面ではなく、太く冷たい金属鍋の胴だった。その手は大釜の粗い底面に、次に頑丈な短い脚に触れ、そして重い取手のついた蓋と、脇に下げられた大きすぎる柄杓を滑り、鍋の両脇に落ち着いた。そこで、優しく金属に触れながら、その手は温かさを与えていた。一定の熱が指と掌から黒い鉄へ、そして金属からその中の冷たいスープへと伝わっていった。

 スープはゆっくりと温められ、やがて泡を立て、蓋を揺らして心地良い香りを放った。薬草、滋養のある塊茎、甘く熟した葱――タズリの兵が数人、朝の巡回で集めてきた材料による手頃な調理法だった。調理が行われているのは、巨人達が覚醒して倒れたまさにその場所で――今や、戦場は生活の場となっていた。

 チャンドラは鍋の側面から手を放し、両腕を使って、快適とは言えない急ごしらえの椅子の上で身動きをした。彼女は大きすぎる柄杓を片手で取り、片手で蓋を開けた。鍋の上へとわずかに身体を伸ばすと、ゴーグルが拭うそばから曇った。彼女は手を伸ばして柄杓を豪快に浸し、スープから大きな塊をすくって持ち上げた。

 彼女は自分の席から、列が消えるまで椀に朝食を配り続けた。そしてタズリの斥候達が追加の根と薬草を見つけてきてスープを満たすと、彼女はそれを再び温め、他の者と共に二杯目を、時には三杯目を提供していった。

 チャンドラの筋肉は座り続けて疲労していた。彼女が腰かけることを選んだ物体は最上の家具ではなかったが、事実多くの選択肢はなかった。

 兵士達がチャンドラの前から大釜を持ち上げて去ると、ニッサが腕一杯に毛布を積み上げて現れた。ニッサは粗末だが香りのよい毛織物を幾つも重ね、彼女の膝にどさりと追いた。チャンドラは口の端を歪めて笑みを向けた。ニッサの瞳は静かで考え深く、緑色に浸されていた。チャンドラは彼女の動きの穏やかさと、優しい手が好きだった。

 チャンドラは毛布の山を見た。目を閉じて集中し、そして勢いよく毛布の塊を抱きしめ、顔を毛織の中に押し付けた。身体でそれを包むと、掌(だいたいは血は拭われている)を粗い編み地に押し付け、毛布が温まった。

 地味でちょっとした紅蓮術をこのように使うというのは、奇妙な感じだった。だが良いものだった。喜ばしい、単純な熱の呪文を、ごく普通の量のマナで唱えるというのは――たとえ一瞬だったとしても、人の身で、世界全てのマナの導管と化した後には。あの時は、まるで引き延ばされるように感じた。曲げることのできない、筋肉らしきものが張りつめていた。でもこれは、正反対に……

 ほんのちょっと。出しゃばらないで。丁度良く。少しのマナと素直な熱の呪文に戻って。いつも通りに、大体は。

 毛織物からわずかな蒸気が渦を巻いて上がり、チャンドラは熱を止め、ニッサが再びその腕にそれらを集めた。チャンドラは彼女を見た。自分の新たな――仲間? 同僚? いや、生き残るために助け合った、友と呼ぶべきだった。彼女はニッサが魔法で温められた毛布の山を運びながら、療養の天幕と間に合わせの寝台の中を歩く様子を見ていた。ゼンディカー人の治療師と野戦司祭が巡回する中、ニッサは一人また一人、痛む肩や震える胸の上にそれをかけていった。

 ジェイスは挨拶に来ていなかった。チャンドラは彼がその外套を小奇麗にまとい、巨岩程の面晶体の傍に立っているのを見た。彼はじっと立ち、だが何かを追っているようにも見えた。もしかしたら彼自身の脳内深くで、ここ数日の出来事を追いかけているのかもしれない。

 やがて腰にスーラを仕舞い込んで、ギデオンが近づいてきた。この朝彼がまとう鎧は最小限のものだったが、チャンドラは彼が今も周囲の穴だらけの芝地に目を走らせ、天幕を確認し、空岩の綱を確認するのを見た――戦時でも復興の時でも、この男は常に油断することがない。彼女はそう思った。ギデオンは彼女が座る隣、すぐ傍に立ち止まった。「タズリと掃討をしてきた。外にははぐれたエルドラージがまだいるが、ほとんどは倒した。終わっただろうと思う」

 チャンドラは彼の上腕を小突いた。「お疲れさま、ボス?司令官?騎士様?将軍?」

 彼は親指を胸当ての紐にかけた。「今はただのギデオンに戻ったよ。そっちは快適か?」

 チャンドラは間に合わせの椅子の上、両腕を押して身動きをして、肩をすくめた。「これに座れだなんてさ」

 彼はぼんやりと頷いた。「レガーサには戻るのか?」

「この前言った通りよ。手を上げて、私の決意を何もかも」

「わかっている。でも君は戻ってもいいんだ、もしそこに責任があるのなら」

 チャンドラは含み笑いをもらした。「許可をくれるの?」

「私が言いたいのはつまり、ここでの、今の役割は終わったということだ。君は自分の役割を果たした。私達が再び必要とされたなら、また集まればいい」

 チャンドラは彼の胸を肘で突いた。「ギデオン、私は入ったんだから。私も今やゲートウォッチの一員よ」

 彼はわざとらしく、彼女を見下ろさずに言った。「脚の具合はどうだ?」

「んーっ」 彼女はうなり、思わず両膝へと触れた。両足の感覚は僅かで、まだ完全に自分のものでないように思えた。彼女は足で地面を叩き、それらが動くことを示してみせた。「感覚は戻ってきてる。治療師は何かすごく大きな呪文のせいだって言ってた――身体の機能まで全部使い果たしちゃったらしくて。二、三日すれば回復するだろうって言われたけど、何時間かすれば大丈夫だと思う。踊りたくってしょうがないわ」

 一瞬、ギデオンの眉が歪んだ。その仕草を彼は完全に隠せなかった。この男はまるで肌着のように心配を身にまとっている、その強さと鋼の下に隠して。

「もし君が来てくれなかったら……」 彼はそう言いかけて、かぶりを振った。

「そうね、あんた達が訪ねてこなかったら」 チャンドラはそう言って、彼の腕を拳で叩いた。

 ギデオンはただまっすぐ立ったまま、地平線に見える何かを判別しようとしていた。

「ねえ。私達は皆を助けた。同じことをまたやるだけでしょ」

「しばらくの間は小さな呪文に専念しておく方がいい」 彼はそう言って、チャンドラの肩を抱きしめた。「身体を酷使しない方がいい。私は……」 彼は辺りを見た。「また掃討へ行ってくる」 そして歩き去った。

 チャンドラは両手で腿を持ち上げ、足を組み、「椅子」の背にもたれた。それは炎に焦げた骨のようなものでできていたが、よく見ると、骨という感じもしなかった。彼女は訝しんだ、これはウラモグの頭蓋のどの部分なのだろうかと――もしかしたら背中側かもしれない、巨人の脊柱構造が無の破片へと砕けた場所。そうでなく、顔面のものであることを彼女は願った。炎に貪られながら、自分へと向けられた顔板、その顎のような構造の間。彼女はそれに寄りかかり、ざらざらした、厚い皮の手を頭の後ろに置いた。

 忙しく動き回るゼンディカー人達から離れ、ジェイスは落下した巨大な面晶体の隣に立っていた。見晴らしの良いその場所からは、ニッサの魔法文字が谷の地面に焼き付いて緑色に生き生きと輝く様が見えた。それは時とともに消えるのだろうか、彼は訝しんだ。

 彼はギデオンがチャンドラへと近づくのを見ていた。世界全てのマナを一つの巨大な炎の爆発へと繋げた彼女はまだ歩くことができず、今も戦場製の奇妙な玉座に閉じ込められていた。彼はそれもまた時とともに消えるのだろうかと思い、心配はないだろうと頷いた。

 彼女は背を丸くして真剣に、火を出さない繊細な熱の紅蓮術へと集中していた。そしてギデオンを目にするとにやりと笑い、肩の力を抜き、落ち着かずにいた両手が静まった。会話を終える頃には彼女は少し背筋を伸ばしていた。ジェイスが集めた限りでは、チャンドラに対するギデオンの経歴は彼のそれとほぼ一致していた。自分と同じように、ギデオンは彼女が盗んだ巻物を取り返すべく送り込まれた。今や彼女はギデオンを温かく迎えていたが、ジェイスについては今も疑念を持って見ていた。

 それはもしかしたらギデオンの魔法によるものかもしれない、だがジェイスはそうは思わなかった。彼は戦いの後、かの司令官が軍勢の中を動くのを見ていた――少しの短い言葉、肩に乗せた逞しい手、墓の傍へと静かにひざまずき、死者の記憶に耳をそば立てる。彼が行くところ全てに、安堵と希望が根付いた。それこそが統率力。ジェイスは疑問に思った、それは他の皆に対してのように、自分にも通用するのだろうかと。

 ジェイスはその効果をテレパスで再現できる筈だった。人々の思考へと働きかけて適切な事を言う、もしくは慰めと安楽を与える。人々に自分を信頼させる。だが誰もが知っているように、ギデオンはテレパスではない。ギデオンはただ、何を言うべきかを知っていた。もしかしたら、だからこそ通用するのかもしれない。もしかしたら自分はこのギデオンの、人を惹きつける力をそのままに、最上の情報で武装させることに集中し、誠実で率直な決定をさせるべきなのかもしれない。ジェイスは罪悪感が突き刺さるのを感じた。既に、他の皆も含めた幾らか未来の議論において、ギデオンを勝利させる計画を練っていた。だがそれこそジェイスが常にやってきた事だった。計画を立てる。

 現在の状況において、これこそが彼を悩ませるものだった。何の計画もない。エルドラージの巨人二体は死んだ――真に死んだ、ジェイスの見積もりとニッサの直観と、盆地の至る所に散らばったエルドラージの残骸の凄まじい量からそう思えた。一体の巨人が放たれたまま残っている――もしかしたら今もゼンディカーに潜んでいるのだろうか、だがたぶん違うだろう。ウギンの行方不明の仲間、ソリン・マルコフと石術師ナヒリは未だ姿を現さず、そしてウギン自身も、巨人の死の場面に至っても姿を見せていなかった。

 ジェイスの新たな友人達は喜んでゼンディカー人に手を貸しているようだった。家族と再会し、巨大な死骸を片付け、そして隷属された吸血鬼やエルドラージの信奉者、あの大火災を生き延びた僅かな落とし子を狩る。称賛に値する行為、それは確かだった。だがこの地の者の手に負えない任務がある。ウギンの仲間。三体目の巨人の行方。別の不気味な問題、例えば鎖のヴェールのような……それはプレインズウォーカー達だけが、ゲートウォッチだけが対処できる脅威。重要なのはそこじゃないのか?

 歩哨の叫びが彼の夢想を破った。震える声の様子が空からの敵を告げていた。ジェイスは一瞬、必死に地平線を概観した――そこに、澄んだ青色の空に僅かに目に見えて、透明な翼の影がゆっくりと羽ばたいていた。

 ウギン。

「戦うな!」 ジェイスは叫び、飛び上がった。「味方だ!」

『何にせよ、友好的に来てくれ』 実のところ、ウギンの現在の機嫌を保証するものは何もなかった。だが自分の側を敵対から始めることは絶対に許すわけにはいかなかった。

 他の者達はジェイスの叫びを聞き取った。石弓が下ろされ、発射されかかった火の玉は消え、そしてウギンは谷へと低く降下した……まっすぐに、ジェイスの目の前へ。

 ギデオン、チャンドラ、ニッサは理解していた。ギデオンは全力疾走で現れ、ニッサは下生えから溶け出すように、そしてチャンドラはふらつく足取りで立ち、半ば倒れそうになりながら、長い焦げた骨を杖のように使って歩いてきた。高さ40フィートのウギンの身体がジェイスの目の前、凹凸の地面に叩きつけられる頃には、三人全員が彼とともに立っていた。ウギンの鉤爪が歪んだ石の破片を吹き飛ばした。

「何をしたのだ?」 精霊龍が吼え、熱風がジェイスに吹きつけられた。ウギンの内なる炎は怒りに燃えていた。

 敵対しないようジェイスは言い聞かせたが、ゼンディカー人の兵士達はウギンの周囲に群がった。彼らはウギンの怒りの口調へと苛立ち、長槍と剣を抜いた。ウギンは彼らを気にしたようには見えなかった。恐らくは彼らが自身を害する能力があるかどうかを正確に測ってのことだろう。

「ゼンディカーを救いました」 ニッサが言った。

「だったら、あなたの方は何をしてたの?」 チャンドラが訪ねた。「特に、ここ最近は?」

 ジェイスは前へと進み出た。

「ウギン、作戦を立てたのは俺です。他の皆は俺を信頼しただけに過ぎません。もし、俺達がやった事に異議があるとしても、責めるべきは俺だけです」

「させるものか」 ギデオンが言った。

「私達全員で倒したの。責任は私達全員にあるわ」 ニッサも加わった。

「実際に巨人を殺したのは私だけどね」 チャンドラはいわくありげに言った。「でも皆が助けてくれた」

 ウギンは口を開いた。「ベレレン、説明せよ」

「俺が、自分の持っていた情報で作戦を進めました」 声に震えを出さないように努めながら、彼は言った。ウギンは思慮深く、古く、聡明かもしれない。だがそれでもドラゴンであり、ドラゴンの大きさと気性と、そして歯を持っているのだから。「貴方と俺が同意したように、俺達はウラモグを捕えるべく協力して動きました。ですが古い復讐か何かを求めるはぐれたプレインズウォーカーに邪魔をされました。それは誰にも見越せなかったと思います」

 ニッサの手が杖をきつく握りしめた。オブ・ニクシリスの逃走、それはニッサの懸念になっているとジェイスは知っていた。ならば、自分達の次元を越えた義務の一つに数えよう。

「宜しい。続けよ」

「もう一つ驚きだったのは、コジレックがゼンディカーに残っていた事でした。貴方もご存じではなかったか、備えていなかったか。お言葉ですが、どちらの筋書きでも特に慰めにはなりません」

「面晶体のネットワークが乱れきった状態では、巨人どもを追跡する我が力も限られてしまっていた」 ウギンが答えた。

「では、三体目が今もどこかに?」 ギデオンが尋ねた。

「ギデオン、俺が対応する」

「おぬしらの小さな悪戯はこの次元を鐘のように鳴らした。その……こだまを用いて徹底的な調査が可能だった。エムラクールは去り、しばらくが経つ」

 それは安堵か、恐怖か、ジェイスには定かでなかった。

「それでも、コジレックは俺達の油断につけ込みました。俺達は二体の巨人を対処しなければいけなくなりました。準備の時間もなく、あいつらがどれほど長くゼンディカーに留まるかも定かでなく。あいつらを逃がしてはいけない、それは貴方自身が仰っていた事です」

「あやつらが直ちに逃げると考える理由もなかった筈だ。おぬしは再びあれらを捕えようとすべきであった」

「むしろ逆です。俺がいくら説得しようとも、ゼンディカーの防衛者達は早まって行動し、あいつらを逃がすだろうと信じる理由がありました。現に、俺達の仲間の一人がまさにそうしようとしました。面晶体の新しい罠を築く時間はありませんでした。ですが俺達の中には精霊信者がいて、面晶体を使わずともゼンディカーの力線を直接形成できる、それで――」

「うむ、うむ」 ウギンは頷いた。「そしてこの状況に至ると。おぬしは魔法文字を用いてあやつらを拘束し、だがエネルギーを逃がし力線を定位置に保つ面晶体は無い。おぬしの唯一の選択肢は巨人を逃がすか、あやつらを完全に物理的空間へと引き寄せ、殺す事であった」

 ジェイスは瞬きをした。

「それは不可能だとあなたは」

「おぬしには不可能だと言ったのだ。そしておぬしは我に信じさせた、それを試みることはないと、殊勝なことに誠実ぶってな」

「待って」 ニッサが割って入った。「巨人たちを殺せるって知っていたの? この世界に捕えた時から知っていたの?」

 ウギンは二足で立ち上がり、まるで教師のように彼らの前にそびえ立った。

「おぬしらは幾多の世界よりも古い生物を二体殺したのだ。その目的も、役割も、その生や死が与える衝撃も知ることなく――おぬしらはこの次元と、その殺害による未知の結果の責任を負うのだ。おぬしらにはそれが可能だ」

 続く沈黙の中、チャンドラだけが口を開いた。「わかってるじゃない」

 ウギンは四本の足をついた、まるで溜息のような音とともに。

「プレインズウォーカーよりも危険で、予測不能な力など多元宇宙に存在しないということか」 角の頭でかぶりを振り、ウギンは言った。

「何が起こるんです?」 ジェイスが訪ねた。

「何一つ定かではない。我が知る限り、かつてエルドラージの巨人を殺せた者など存在しない。エルドラージとは何か、うち二体が死んだならば何が起こるか、それについての仮説は持っておる。だがその成り行きも、おぬしら全員が死して遥か未来まで生じないであろう。従っておぬしらは、望むならばこれを勝利と受け取って構わなかろう。我としてはあれらの残骸を研究し、未来に備えるとしよう」

 ジェイスの友人達は不平の声を発した。

「でしたら、俺も一緒にやらせて下さい」 ジェイスは言った。「エルドラージについての仮説を教えて下さい。一緒に――」

 だがウギンは答えた。「ジェイス・ベレレンよ。おぬしは極めて傲慢かつ信頼ならぬ協力者だと示した。それでも我に力を貸したいというのであれば、おぬしの最良の行動は、直ちに去ることだ」

「あなたの古い仲間については?」 疑念とともにジェイスは言った。「ボーラスは?」

「それらの問題をおぬしが追求するのを止める気はない。とはいえ心しておくが良い、ソリン・マルコフとニコル・ボーラスは我よりも遥かに邪魔に対して寛容ではないと」

 ウギンは片手を振った。彼を取り巻くゼンディカー人と、巨人の残骸に満たされた谷を示すように。

「民に告げよ、我が仕事を邪魔するなと。死骸の一片が必要になった際は持って行く。その場所に残しておいたものは、動かしてはならぬと」

 チャンドラはウギンと、自身が椅子として使っているウラモグの頭蓋の破片との間に立った。

「彼らとは仲良くした方が宜しいかと」 ギデオンが言った。

「それはおぬしの本心とは思えぬな」 ウギンはそう言って、焼け付く熱を一吹きした。「さらばだ、巨人殺し達よ。願わくば再会は今回よりも円満な状況であることを――もしくは真逆か。我はどちらでも構わぬ」

 その言葉を残し、巨大なドラゴンは空へと飛び立ち、空になったばかりのハリマー盆地上空を旋回して去った。

「上等じゃない」 チャンドラが口を開いた。

 ジェイスは両手で顔を覆っていた。

 ギデオンが合図をし、そしてチャンドラ、ニッサ、他のゼンディカー人はゆっくりと背を向けてそれぞれの役目へと戻っていった。彼はジェイスが立つ隣の岩に座った。

 ジェイスはギデオンを見下ろし、そして隣に座った。

「私達の厄介事は終わっていないようだな」 ギデオンは切り出した。座った状態では、彼はジェイスよりわずかに長身に過ぎなかった。

「終わってない」 ジェイスは言った。

 エルドラージの解放を仕組んだと思しきドラゴンのプレインズウォーカー、ニコル・ボーラスについて、ジェイスはギデオンへと手短に説明していた。遠い昔にエルドラージを捕える手助けをしたソリン・マルコフと石術師ナヒリについて、両者ともどこかで生きているとウギンは考えているらしいことも。

「ここでやる事は終わってない、それはわかってる。だけど――」

「私達の誓いは、全員が同じものではないよ。私達は皆同じではないのだから」

 その事実をジェイスは忘れていなかった。誓いは、全く違う四人を繋ぎとめる一つの手段に過ぎない――「正義と平和のため」と「多元宇宙の繁栄のため」は同列ではない。だがいざという時には、自分達は共にやり合えるのだと。

「私は、ここの人々がもう安全だとわかるまで留まらねばならない」 ギデオンは続けた。「ニッサは生命が絶えることはないと確かめられるまでここにいるだろう。チャンドラは……ああ、言うまでもないだろうな」 彼はくすくす笑った。

「だが究極的には、私達は次の脅威について知っておかねばならない」 彼は更に続けた。「最後の一つを片付けるだけでは終わらない」

「そうだよ! 君は、知恵を集めることの価値を理解している」

「全くだ。私達の最優先事項は何だろうか。どう思う?」

「ボーラスは恐ろしい」 ジェイスはそう言って、かぶりを振った。「何が進んでいるのかをもっとよく知るまで、あいつと顔を合わせたくはない。そして俺達は三体目の巨人を追跡する方法も、何処へ行くかを推測する方法もない。でも、ウギンの仲間は残っている。ソリンとナヒリ。俺はイニストラードへ行って、ソリンを見つけるつもりだ。そいつがウギンよりも助けになってくれるかはわからないが、ウギン以下ってことはないだろう」

 ギデオンはゆっくりと頷いた。

「君の決定を信じる。いつ出発できる?」 ジェイスの目を見て彼は尋ねた。

「今日だ。物資を集めてソリンについての知識を得て、そうしたら出発する」

「わかった。私達はここで待とう」

 彼は立ち上がり、通常、誰かに命令を与えた後のように肩を叩くことはせず、歩き去った。

 誰かに命令する……ジェイスは命令された気はしなかった。ただ単に――

 ちくしょう。ジェイスは思った、俺にも通用するじゃないか。


ニッサの誓い》 アート:Wesley Burt

 その暗闇の中、気を紛らわすのは困難だった。太陽が空に昇っている間であれば、ニッサはどうにかポケットの重さを気にせずにいられた。温まった毛布をゼンディカー人に配り、ギデオンと共に境界を掃討し、そして近くの滝で粗造りの皿を洗う――精霊龍の乱入も、居心地は悪かったがありがたいものだった。起きている間は、動きを止める必要はなかった。だが今、夜が空岩のほとんどの人々の意識を手にし、動きと活気が収まり、絶えず流れていた快適な低い囁き声は沈黙に置き換わっていた。かつて、夜は日中に比べてただ静かなだけだった。夜になれば、宿営のエルフ達が立てる音は大部分が静まり、目を覚まし始めたばかりの生物達の音へと明け渡すだけに思えた。だがこの世界で、巨人が倒れた後のゼンディカーで、目を覚まし始めた生物は何も居なかった。その代わりにあったのは白亜の荒廃の山だった。風に音を立てるのは枝のある木々ではなく無の空間、並んだ穴、油ぎった光沢に覆われて繰り返される不自然な模様だった。このゼンディカーにおいて、夜の静けさは完璧すぎるほど静かだった。動きを止めたニッサの耳の中で鳴るのは、その静寂だった。

 それが大地に焼き付いて以来初めて、彼女は魔法文字へとやって来た。他の者達は既に訪れていた。彼女はジェイスがそれを研究するのを、ギデオンがどこかぼんやりとしながらそれに沿って歩き、線の屈曲を辿る様子を見ていた。ゼンディカー人の多くも同様にやって来て、その端に小さな捧げものを残し、靴を脱いで柔らかく育ち始めた草の上に立った。そしてゼンディカーの魂もまた、そこにあった。ニッサはそれを感じた。それはそこにあって、彼女をずっと待ちわびていた。手を伸ばすだけで良かった。だが彼女はそうしていなかった。今はまだ。

 その代わりに、魔法文字の線を踏まないよう気を付けながら、彼女は中心点へと向かった。何もない大地、その三角形の頂点に立ち、彼女は袖をまくり上げた。大地に膝をつくと肩から緊張が抜け、体中が温かい緑色の微光に包まれた。その時が来た。ニッサは地面を掘り始めた。


 それを終えると、四つの穴ができた。もう何年も前のように思える、あの吸血鬼から渡されたそれぞれの種について一つずつ。植物の種類それぞれの大きさを見積もり、ニッサは気を付けて穴を配置した。ジャディの樹は成長に最も大きな空間を必要とするだろう。その梢はいつの日か、魔法文字をすっかり覆って更に外までも広がるだろう。若木の頃には弱った旅人を心地良い日陰で迎え、そしていつの日か、広がり絡み合った枝はエルフの部族の住処となるだろう。それとも……ニッサは修正した、ゼンディカー人部族の住処になるだろう――エルフ、コー、ゴブリン、そして人間が共に。彼らはジャディの樹に住まい、コイラの木立の果物を食べるのだろう。そう、きっと木立になる。コイラの種は魔法文字のマナの力を吸って大きくなるだろう――最初に地面を破るだろう。この木の細い幹は太陽へと向かって伸び、その花はたちまち柔らかくて強い匂いのする果物となってゼンディカーの人々を潤すだろう。赤マングローブの危険な美は生態系を保持し、人々を見守るだろう。そして血茨。ニッサは自身の深い内、柔らかな場所で息を止めた。バーラ・ゲドの血茨。故郷の植物。もしかしたら、その最後の生き残り。若い頃、これをどれほど当たり前だと思っていただろう? 今はこの一つだけだった。この一つはきっと、この地に生きる他のあらゆる生命を守るという使命を得るのだろう。棘の蔦で、その仲間と同じ方法で、ジョラーガを長年守ってきたように。

 今、その手に種の包みを持ちながらも、ニッサは新たな森が形を成すのが見えた。いつの日か、それは自分が夢見た姿になるだろう。いつの日か、それは広く、高く成長するのだろう。いつの日か、それは豊かに茂って力に満ちるのだろう。いつの日か、それは頑丈な茨に守られるのだろう。だけど、その日まで誰がそれを守ればいいの? 今と、いつかを、誰がゼンディカーを見守ればいいの?

「あまり自信はないけど、それのせいで離れられないのね」 チャンドラの声にニッサははっとした。心ここにあらずで、彼女はチャンドラが近づく音に気付いていなかった。奇妙なことだった。ニッサは通常、注意を解くことはない。不慣れな静けさはチャンドラの言葉をニッサの意識の深層に届かせ、感覚に触れさせた。今そこにある、だが完全に姿を成してはいない感覚。チャンドラは紅蓮術師であって、テレパスではないのに。

 ニッサは顔を上げ、チャンドラと目を合わせた。それは大きく見開かれた、正直そのものを映す琥珀色だった。その瞬間、彼女の魂までまっすぐに見えるようだとニッサは感じた。他者にすんなりと彼女の物の見方を把握させ、どう感じているかをただ理解させる。チャンドラはその両方を一瞬にしてやってのけていた。きっと、だからこそニッサはこんなにも率直に反応できるのだろう。「離れられるかどうかもわからないの」 その言葉が口をついて出て、ニッサは息を止めた。

 だがチャンドラはすぐには何も言わなかった。その代わりに彼女は地面に、ニッサの隣に屈んだ。二人はニッサが掘り、まだ埋まっていない穴の中央に座った。穴は魔法文字の輝く線に囲まれており、その線がそこにあるのはチャンドラがそれを成したからだった。ニッサは思い返した、もしこれほど力のある紅蓮術師でなかったら、魔法文字がそこに描かれることも無かっただけでなく、魔法文字が刻まれたその大地も、完全に消滅していただろう。世界が壊れるとニッサが感じたその時、チャンドラは踏み入り、ニッサへと触れ、二人は繋がった。他の何かと、ゼンディカーの魂とすら全く違う繋がりで。二人はその力を合わせ、エルドラージの巨人を殺せるほどのことを成し遂げた。間一髪だった。全てが終わった時には両者ともひどく衰弱していた。チャンドラは歩くことができず、ニッサはしばらくの間見ることも、四肢の震えを止めることもできなかった。だが今二人は癒え、この場所にいた。そしてゼンディカーもまた。ニッサとチャンドラよりも、世界には多くの時間が必要だろう。もしかしたらチャンドラはそれを理解しているのかもしれない。ニッサは紅蓮術師を見て、説明しようとした。「世界は本当に壊れそうだったの。今も、上手くいかなそうな事は多いし、危険も多い。次に何が起こって、どんな姿になろうとも、それがどんなものになろうとも、その成長を助けたい」

「きっと、すごいのになるわ」 チャンドラは微笑み、頭の下に両手を置いて柔らかな草に仰向けになった。

「私はそれを見逃したくはない」 ニッサは言った、はっきりとその声を発したことに彼女自身驚いた。「その時は、私はここにいたい」

「その気持ちはわかるわ」

「それと」 そうしなければならないと思い、ニッサは付け加えた。「私はただ見ているだけじゃ嫌。守りたい。誰かここにいないといけない。守らないといけない。側にいないといけない。私にはできるし、そうしたい」

 二人は黙って座っていた。ニッサは指を種の包みに走らせた。彼女は初めてそれらを手にした日を思い出した。感じた重みを、四つの種以上のものを、その責任を。そして失敗したらという不安を。だが彼女は種を守りきった。少なくとも、まだ失敗してはいなかった。今もまだすべき事が沢山ある。そうでしょう? ニッサはチャンドラとの間に下りた沈黙を破った。「もし私がゼンディカーに留まるなら――」

「あなたがやるべき事をやらなきゃ」 チャンドラは言った。「私はそれを止めることなんてできない」

 ニッサは咳払いをした。「あの二人は? 彼らも理解してくれる?」

「ギデオンとジェイス? きっと大丈夫よ。あいつら、あなたを逃がしはしないから」

 ニッサは息を吐いた――良かった。心配していたのはそれだった。自分達はそれぞれ誓いを立てたのだから。

「あいつらね、私をレガーサから連れ出しはしなかったの。でも結局私はここへ来ることを選んだ」

 ニッサはチャンドラを見た。もしチャンドラがゼンディカーに来てくれなかったらどうなっていたか、想像できなかった。想像したくなかった。「来てくれて、本当にありがとう」

「私、もう少しで来ない所だったの。私、向こうで生徒が沢山いたのよ、知ってる? 学校の先生だったの。修道院長ね」

 ニッサは驚いたように、眉を上げた。

「私がそんな仕事をしてたなんて変でしょ」

「別に変には聞こえないわ」 ニッサは言った。「初めて会った時からわかってた、あなたは生まれつき何かすごく大きな力と繋がっているって」

 チャンドラは微笑んだ。「で、だからこそ私はそこを離れたの」 彼女は肘をついて身体を起こした。「留まって、紅蓮術師の才能のある生徒に教えることもできた。いい仕事もしてきたのよ。少なくとも彼ら全員は、本当に凄い自己を維持する炎の渦を、どうやって作るかを知ったもの」

 ニッサは笑い、そして長いこと笑っていなかったと気が付いた。チャンドラはこんなにも簡単に微笑ませ、声を上げて笑わせてくれる。彼女はそれを楽しんだ。

「でもルチ修道院長と他の皆もよく教えてくれるはず。皆、紅蓮術師になるだろうけど、もしかしたら私が教えた炎の渦にそこまで熟達していないかもしれない、でもきっと大丈夫。私には他にやるべき事がある、修道院長にも皆にもできない何かが、他の誰にもできない何かが。だから私はここに来たの。それこそギデオンが言ってたこと。あいつが私達全員の才能について、灯と力とその持つ意味について言ってた時に。覚えてる?」

 チャンドラの言いたい事が何か、ニッサには正確にわかった。オブ・ニクシリスの洞窟から脱出し、滅亡の瀬戸際にある世界を目にした時のギデオンの演説。ニッサは彼の言葉を反芻した。『私達は誓わねばならない……多元宇宙を脅かすあらゆる脅威へと共に立ち向かうために。私達にしかできない事だ。これは私達の力が、灯が担うべき使命だ』

「他の誰にもできない」 チャンドラは言った、今一度、まるでニッサの心が読めるかのように。「でもあなたは、私達はできる。一緒になら。傍にいれば」 彼女は悪戯っぽく付け加えた。「ね。ジェイスがさ、ギデオンから肩を叩かれなかったのに気づくまでどれだけかかったと思う? しかも声出して驚いてたの。見てみたかったでしょ?」

 ニッサは再び声を上げて笑った。心から見たいと思った。ギデオンとジェイス。ジェイスが声を出して驚くなんて、それは――面白いだろうか? 間違いなく面白い、そう断言できた。チャンドラ、ジェイス、ギデオンと共に過ごすのは楽しく、浮かれるほどで、そして面白おかしい時すらあった。もしこの三人のプレインズウォーカーと別れたなら、ゼンディカーから離れると同じほどに苦しいだろうと実感し、そして驚いた。世界の魂以外のものとこんなにも深い繋がりを感じたことは長いことなかった。だが今、もう三つの繋がりを感じていることを否定するものはなかった。新しい、だが力強い繋がり。大切にしたいと思う魂がもう三つ、そしてその先の、自分達四人が共に守るべきの何万もの。

「私は朝食を温めに行かないと」 チャンドラはそう言って起き上がった。魔法文字の中に座っている間に太陽が昇り始めていたのを、ニッサは実感していなかった。「何か持って来ようか?」

「ううん」 ニッサはゼンディカーの朝の空気を呼吸した。自分自身で向かいたかった。「私もすぐに向かうから」

「わかったわ。じゃあ、またね」 チャンドラは歩き去った。

「チャンドラ」 ニッサは呼びかけ、チャンドラは振り返った。「ありがとう」

 チャンドラは笑みを返し、肩をすくめた。「地虫が食べたいなら早く来て。でないとギデオンが独り占めしちゃうわよ」

 ニッサは待つ気はなかった。世界が癒えるのを待つ気はなかった、それは癒え、成長するだろう、彼女がそこで見ていてもいなくとも。そしてここには他の誰かがいる。彼女はタズリを、ムンダを、セーブルを、そしてキオーラを思った。

 彼女は絹の包みの上層を開き、四つの小さな種を露わにした。一つまた一つ、彼女はそれらを掘った穴へと横たえた。そうしながら、彼女は夢を囁きかけた、いつの日かそれらが成長する森の。彼女は語りかけた、それらがやって来た世界を、かつてのゼンディカーの姿を、何が起こったかを。そして世界を救いに来てくれたあの紅蓮術師を、テレパスを、恐れ知らずの指揮官を。この世界を、種が安全に育つ地にしてくれた者達を。

 最後の一息とともに、ニッサは掌を地面に押し付け、大地に触れた。もう一つやる事があった。ゼンディカーの魂へと触れた。彼女はそれに語りかけた、種を頼むと。だがそれが応えるよりも早く、彼女を引き込むよりも早く、取り囲んで抱き寄せるよりも早く、彼女は手と、魂を放した。「また会いましょう。約束するわ」 彼女はそう言って立ち上がり、知る世界から離れ、待っている世界へと向かっていった。


 竈の火へと向かう途中、落ち着きなく催促するような意識の流れがニッサを待ち伏せていた。『ニッサ! 話したいことがある』 テレパスが視界に入ってきた、まるで自身の思考を追いかけるかのように。『ソリン・マルコフについて知っていることを全部教えてくれ!』

 ニッサの心臓が高鳴り、彼女は思案した。そう、これこそ自分が今やろうとしていた事のように思えた。彼女はジェイスの目を見て微笑んだ。『あなたに見せる方が簡単だと思う』 躊躇することなく、ジェイスは彼女の心へと飛び込んだ。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


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