続唱特集へようこそ。今回の特集では、アラーラ再誕の新メカニズムについて掘り下げていこう。通常、私のコラムではそのメカニズムをデザインの面から掘り下げていくのだが、今回はそうではない。プレビューの間にトムがいい仕事をしてくれたので、違う方向から掘り進めることにしよう。続唱は非常に楽しく、そして、非常に無作為の要素の強いメカニズムだ。前の記事でもゲームの中の無作為性について触れたが、私は、無作為性という内容について掘り下げれば1つの記事にするだけの価値があると確信している。もちろん、その無作為の実例として続唱を取り上げていくことになる。

サイコロころころ


 特定の考え方について語るのだから、まずそのための用語を定義することから始めるべきだろう。「無作為」と言っているが、その意味は何なのか。まずは辞書を引いてみることにしよう。

無作為
名詞
作為のないこと。意図的に手を加えることなく、偶然にまかせること。ランダム。

 無作為とは、予想できないことだ。ではこの前提に基づいて話を続けるとするが、それだけではちょっとゲームについて話をするには物足りない。ゲームにおいては、無作為であるとは、「操作が加えられなければ」予想できないこと、とさせてもらおう。「操作が加えられなければ」というのはなぜかというと、多くのゲーム、特にマジックにおいては、プレイヤーはゲームの要素を操作することが認められているからである。プレイヤーが無作為の部分を手に取り、そしてより無作為でない状態、あるいは完全に無作為でない状態にすることができるということだ。この能力によって、少なくとも今回の議論の範囲では、無作為の質が失われることはない。これが、今回のコラムのキモと言ってもいい部分なのである。

 分かりにくいかね。では、マジックのゲームにおけるちょうどいい例を挙げてみよう。マジックのもっとも無作為の部分は何かと言われれば、百人中百人がライブラリーと答えるに違いない。60枚(以上)のカードをデッキに入れ、中のカードを引く順番は分からない。この順番は無作為である――本当に? マジックのカードの中には、デッキにあるカードの順番を操作するものが山のようにある。それによってライブラリーの無作為性は失われるのか? 今回のコラムにおいては、失われない、と定義する。無作為性を操作する能力は、マジックの重要な要素である無作為性を無くしはしないのだ。

 なぜゲームにおいて無作為性が無作為性が重要かについて語るために、「Art of Game Design」というジェセ・シェルによる名著における定義を借りよう。開発部のブライアン・ティンスマンはこの本を大層気に入っていて、開発部のデザイナーのためにこの本を備品としてウィザーズに買わせたぐらいだ。私はまだ全部読み終えてはいないが(500ページ以上もある大著だから)、今まで読んだところはいちいち納得する場所ばかりだった。

 とにかく、この本の中でジェセ・シェルはゲームデザインに関する様々な言葉を定義している。「面白いこと」とは「驚きの喜び」である、とか、「プレイする」とは「好奇心を満たすような操作をする」である、とか――そして、「ゲーム」の定義は「プレイに満ちた方法で問題を解決する活動」であるという。これら3つの定義の関連性が理解できるだろうか?

 その答えは、知らない、ということだ。驚きは想定外のところに生じる。好奇心は知らないことを知りたいという欲求だ。問題を解決するとは、当初は知らなかった解決策を探すことに他ならない。つまるところ、ゲームとは未知なるものを探すことそのものなのだ。因果なことに、マジックは未知との遭遇に満ちている。さて、ここらで無作為の話に戻そう。マクロからミクロまで、あらゆるゲームが「知らない」ことを多少なりと内包しているのだ。

 とはいえ、すべてのゲームに無作為が存在しているわけではない。例えばチェスなどはどうだろうか? これはこれでいい話題のタネになるのだが、今日の話題からはそれてしまうので こちらで紹介しよう。興味があるなら読んでみてくれたまえ。興味がないなら読み飛ばしてくれても構わない。

コイン投げ


 さて、ここまで見てきたとおり、ゲームには未知の部分が必要である。そして無作為性はその未知を作り出してくれる。それを前提に、無作為性がゲームにどのような影響を与えているか検討していくとしよう。

 驚きを作り出す。驚きとはすなわち面白さであるということは既に言った通りだが、それだけでなくより技術的なものでもある。未知は、完全には予想しきれないことを作り出してくれる。それによってゲームはよりドラマティックに、そしてエキサイティングになるのだ。

 ゲームを変える。何でも充分にこなせる環境は、いずれ飽きが来るものである。無作為性はそこにいろいろな変化をもたらしてくれる。変化があるからこそ繰り返そうと思えるのだ。ネズミがレバーを押せばエサが出てくるという古典的な実験において、レバーを押したときにエサが出てこないこともあるというほうが、より頻繁にレバーを操作するのだそうだ。ゲームにおいても同じく、変化はモチベーションを生み出してくれるものだ。

 反応を呼び起こす。無作為であることの問題点は、技術の高低と関係がなくなるということ、言い換えると、すべてを制御できていれば良いプレイヤーが有利になるということである。しかし、これは正しくない。ゲームにおいて、無作為に起こる出来事はプレイヤーに複数の行動を強制する。まず、何が起こったか、そしてそれがそのゲームにどう影響を与えるかを認識しなければならなくなる。次に、その新しい変数をどう利用してゲームに勝つかを推論しなければならなくなる。さらに、その新しい変数を利用するために他のリソースを最大限に活用しなければならなくなる。これらはどれも非常に複雑なもので、経験豊富なプレイヤーでなければこなすことができない類のものだ。不可知の変数がゲームに投入されればされるほどに、プレイヤーの技量がそれを活かす機会が増えると言ってもいい。そのいい例が、経験豊富なマジック・プレイヤーがドラフトでいい成績を収めているということだ。反応するための能力は、多様な技術に支えられているのだ。

 無作為性によって、ゲームはより面白く、何度も楽しめるようになり、そして技術が試されるようになる。すばらしいことだ。さて、ここからは反面、無作為性の問題点について挙げていこう。なぜゲームは無作為性の塊にならないのか――答えは、ゲーマーの中にある。

ちょっとした無作為

 ゲーマーがどれほど無作為を嫌っているかということについて厳密にしておこう。その差異はすぐに出る。プレイヤーが無作為を嫌うという根拠は、なによりも市場調査、そしてプレイヤーたちが無作為について声高に不平不満を零しているということが挙げられる(私は、マジックのプレイヤーは統計上充分にゲーム・プレイヤーの代表として用いられると考えている)。

 それではいくつかの例を挙げてみよう。まずはこのカードだ。


ELVISH IMPERSONATORS

 このカードは強いだろうか? 6面サイコロを振ったときの平均値は3.5だ。平均値で言えば、このカードは 3.5/3.5 ということになる。銀枠世界には1/2の数字が存在するが、想像しにくければ3/4あるいは4/3として考えてもいい。強いと言えないだろうか? 無茶苦茶強いというわけではないが、まあまあ強いと言えるだろう。では、このカードはアングルードの評価表の中でどの程度の評価を受けているのだろうかというと、最低だった。なぜだったのか? 実際のところ、他にも6面サイコロを使うカードがあったが、カードパワーが平均よりも高いものであってさえ、総じて評価が低いのだ。踏み込んで言わせてもらえば、6面サイコロのメカニズムは人気がないと言える。実際、サイコロが使われているだけでそのカードが使われなくなっていた。それが、アンヒンジドで6面サイコロが使われなかった理由だ。

 次はこのカードだ。

岩滓のワーム

 《岩滓のワーム》は唯一、第10版現在まで生き残っていたコイン投げを使うカードだ。なぜここ2年間で一枚だけそんなカードを入れたのか? 答えは、コイン投げを含むカードは市場調査での評価が低いからだ。一方、このようなカードを好む層もわずかにいるのでセットには入れ続けているが、市場調査によるとやはり人気はないままである。(訳注:その後、現在のスタンダードでも1枚だけ、《空爪団》がコイン投げを含んでいる。)

 次に、マジック以外の例を挙げよう。2002年に、ウィザーズ・オブ・ザ・コーストは、リチャード・ガーフィールドのデザインによる(誇らしいことに初期デザインでは私もリチャードに協力することができた)スターウォーズのトレーディング・カードゲームを発売した。


 リチャードはこのゲームをミニチュア・ゲームの延長として設計したので、大量の6面サイコロを使うように作られた。戦闘では、カードのダメージはいくつの6面サイコロを振るかという形で表現されていた。ウィザーズはこの商品の売れ行きが悪かったので続編を出すのを止めたのだが、市場調査から浮かび上がってきた理由の一つにはトレーディング・カードゲームで6面体を振ることは好まれない、というものがあった。

 これは予想外だった。寄せられたコメントを精査すると、サイコロを「技術に関係ない」ものとして評価していた。しかし、このゲームでは大量のサイコロを振るので、その結果はどんどん均一になる。(仮に100万個のサイコロを振ったとすると、その平均値が3.5になる確率はサイコロを10個しか振らなかったときに比べてはるかに大きい。)しかし、プレイヤーは、数学上の現実とは反して、サイコロをたくさん振るゲームは「より無作為に」なると評価していたのだ。

 この節の要点をまとめると、市場調査によると、プレイヤーはプレイヤーが無作為だと感じる要素を拒絶する、ということになる。

無作為の欠点

 そこから出てくる疑問が、なぜプレイヤーは無作為をそれほど低く評価しているのかということだ。その答えは、無作為性のせいで不幸な出来事が起こることがあるからである。

 繰り返させられる。モノポリーで刑務所にいるとき。バックギャモンでコマがはじき出されているとき。《野生のワーム/Wild Wurm》[TMP]をプレイしようとしているとき。無作為性のせいで、しようとしていた行動ができずに何度も繰り返すはめになる。上で、同じ事を繰り返させるには変化が重要だと言ったが、無作為性はその逆をつくこともあるのだ。同じ事をただひたすらに繰り返させられることは、けして楽しいことではない。


 いらいらさせられる。初心者にとって、何かに繰り返して挑戦し、達成できないということはいらいらするものである。無作為性はそれにさらにがっかり感を上乗せしてしまう。制御不能な因子のせいで達成できないのでは、自分が無力だと感じてしまうのだ。無作為性のせいで失敗したとなると、ただ失敗する以上にいやな感じになるものだ。

 ゲームが停滞する。失敗するだけでなく、無作為性のせいでゲームが停滞することもある。これの例はMMO(多人数型オンラインゲーム)だろう。クエストを達成するためにドロップ品を必要とする場合、そのドロップ品が出るか出ないかが無作為であれば、プレイ中にそのドロップ品を一度も手にできないことさえありうる。無作為性の下では何も起こることが保証されていないのだ。

 番狂わせが起こる。ゲームデザイナーとしては、それは悪いことだとは思わない。だが、より弱いプレイヤーに負けることは多くのゲーマーにとって苦痛に他ならない。勝利への鍵を偶然手に入れる喜びより、そのことによる意気阻喪の方が少しだけ大きいのだ。

 このように、無作為性によってゲームはより面白くて繰り返し遊べて技量を試すものになる一方で、無作為性によってゲームはよりつまらなくて繰り返し遊べなくて良いプレイヤーが負けることのあるものになる。一体どういうことだろう?

 それこそがこの話の心臓部だ。無作為性というものは、ゲームデザインにおいて薬にも毒にもなる劇物なのだ。

 無作為のべし・べからずに入る前に、もう一つだけ触れておきたいことがある。未知の重要性についてだ。無作為でなくても未知なもの、非公開情報は存在し得る。この前提になる考え方は単純だ。各プレイヤーに独占している情報があるとすると、その情報は他のプレイヤーにとっては未知なものである。問題は?


 一言で答えるなら(一言で答えるのは、非公開情報はそれだけで1つの記事が書ける内容で、いつかは書こうと思っているが、それは今回ではないからだ)、非公開情報はここまで述べてきた無作為性の必要性を満たす点もあれば満たさない点もあり、中でも最大の違いは「誰も知らない情報はあり得ない」ということだ。本当のサスペンスというのは、誰も何が起こるか分かっていない時にこそ発生する。もちろん、非公開情報はゲームの重要な一部であり、ほとんどのゲームにはそういう情報が存在するべきであるということには疑う余地もない。

無作為の秘訣


 今回のコラムの重要なところは、無作為性というものは上手く使えばゲームデザインにおける強力で有用なツールになるが、下手に使えば何もかも台無しにしてしまう可能性があると言うことだ。では、下手にならないように上手に使うためにはどうしたらいいか、無作為の使い方の秘訣をいくつか紹介しよう。順に説明するので、付いて来てくれたまえ。続唱の成功は、これらの秘訣の結晶だと言っても過言ではない。

 ゲームデザインのアドバイスに入る前に、もう一言だけ。ここで説明する無作為の使い方は、プレイヤーの過半数にとって幸せになるようなものだ。これから回避するようにアドバイスするつもりの、ハイリスク・ハイリターンのほうがいいという人々もいる。マジックでそうしているように、そういったものはわずかに忍ばせる程度なら問題ないが、それが無作為の中心になるべきではない。もちろん、非常に無作為性の高いゲームというものも存在するが、この記事で中心にするのはマジックのような真剣に遊ぶゲーマーを対象としたゲームである。

#1) 無作為の結果がより良いものになるようにせよ。

 無作為をエキサイティングにしているのは未知であるということだが、未知にも良い未知と悪い未知がある。おばあちゃんが僕の誕生日に作ってくれるデザートが何なのかは良い未知で、暗い路地に潜んでいるのが何なのかは悪い未知だ。簡単に言えば、人々は楽しめることを好み、楽しめないことを嫌う。この当然のことを、ゲームデザイナーは忘れがちになる。

 ゲームデザインにおける無作為性は、この場合どう当てはめられるのか? 一つ例を示そう。コイン投げの結果として、こんな2つの例がある。あるゲームでは、表が出たら15ドルを得、裏が出たら5ドルを得る。また別のゲームでは、表が出たら5ドルを得、裏が出たら5ドルを失う。


 どちらのゲームでも、表を出したいのは同じである。表を出せば、裏を出した時に比べて10ドルの利益を得る。しかし、この2つのゲームに対するプレイヤーの反応は違ってくる。1つめのゲームでは、どちらも得になることだ。どちらの結果が出ても、いい結果になる。これは不快感を呼び起こしにくい。一方、2つめのゲームでは、悪い結果が出る可能性がある。そうなると、気になることが起こるのだ。

 1つめのゲームは楽しくてエキサイティングだ。2つめのゲームはそれよりも緊張が表に出てくる。何がめくれても、もう一つ呪文を唱えられるのは変わらないのだから、続唱がこの1つめのほうに近いのは分かるだろう。望んでいた呪文と違うものであっても、悪い結果が起こることはないのだ(不利になる呪文だったら唱えないこともできるのだから)。

 第1の教訓は単純である。「無作為は、プレイヤーを良い結果で驚かせるために使うべし。興奮させるべきであって、緊張させるべきではない」

#2) プレイヤーに無作為に対処する機会を与えよ。

 無作為に関して当たり前のことだが、無作為は、ゲームの早い時期に発生するほうが良い。早いうちに発生した無作為の出来事に対処するのは楽しいことだ。一方で、無作為によってゲームが終わってしまうのは楽しいことではない。一言で言えば、プレイヤーは無作為に対処する時間があれば喜んで耐えるものなのだ。

 再びここで続唱を例にとって確認してみよう。続唱持ちの呪文を唱えたときに何が起こるのか、だ。

  1. 続唱持ちの呪文を唱える。
  2. 続唱の効果を解決し、ライブラリーを順に捲っていく。
  3. カードを見つける。
  4. そのカードを唱え、プレイするために必要な決定を行なう。
  5. 下の呪文を解決する。

 この効果の中の無作為の部分は「2」の部分にある。該当するカードを見つけたら、そのカードをどう使うのがいいかを考えることになる。そして、その後でもとの呪文の処理に戻る。この順番は非常に重要である。無作為部分はそれをどう使うといいか考えることができるからこそエキサイティングなのだ。無作為によって、他のエキサイティングな行動に追いやられると言い換えてもいい。

 無作為性は目的ではなく、手段でなくてはならない。ゲームデザインにおける無作為性の最大の問題は、無作為性に関する注目が結果にだけ集まるということである。プレイヤーの望むのと違う結果になったとき、そのいやな体験だけが頭に残るのだ。逆に、続唱で捲ったカードが気に入らなかったとしても、そのカードの使い方をどうするか考えたという経験が頭に残ることになる。

 上で言ったとおり、未知への対処というのはゲームの大きな魅力である。ゲームにおいて特上のことの一つに、一見全然役立ちそうにないモノを巧く使いこなす方法を探す、ということが挙げられる。リミテッドがこれだけ魅力的なのは、マジックを長くやっているプレイヤーは未知を乗り越えることのスリルを楽しむことを知っているからではないだろうか。

#3) プレイヤーに無作為性の源を操作させよ。

 無作為性をより受け入れやすくする方法として、プレイヤーに何らかの方法でその無作為性を制御できるようにする方法を与えるというものがある。特に行動しなかったとしてさえ、望めば情報を得ることができると言うことは充分に励みになるものだ。これは、一般に、人々は自分の制御できないことを嫌うという事実に由来する。制御できないということは、抵抗も対策もできないということである。人々は、何らかの形で制御できるようにするための努力なら受け入れられるのだ。

 ここから、もう一つ重要なことが導かれる。無作為性はゲームに多大な面白さを与えるが、無作為であることに気付くと人々は嫌がるものだ。となると、ゲームデザイナーの仕事は、無作為だと気付かせないようにゲームの中に無作為を吹き込む方法を探すことになる。

 マジックのデザイナーは遠い昔、プレイヤーたちが自分自身だけで行なうある種の無作為性を受け入れるということを学んだ。プレイヤーが受け入れているものとして挙げられるのは、ライブラリーだ。既に言ったとおり、ライブラリーをシャッフルすることはマジックにおける最大の無作為化装置だが、ほとんどのプレイヤーはこれについて特に考察することもなく受け入れている。なぜなら、その無作為化は最初に行なわれるものであり、従ってゲームすべてがその無作為に対処するものだからである。また、デッキをシャッフルすることは、カードゲーム一般において必須だとして受け入れられているからでもある。


 続唱がこれほどに受け入れられている理由は、その無作為性がライブラリーそのものだからでもあると考えられる。プレイヤーはライブラリーの無作為性を受け入れており、従って続唱を受け入れることもそう困難ではない。また、ライブラリーは操作可能なので続唱は完全に無作為ではないと感じることができる。そしてそれ以上に、続唱にはもう一つ操作することができる部分がある。続唱は、点数で見たマナ・コストがそのカードより小さいカードを探すわけで、その条件に合うカードをデッキ構築の時に組み入れることができるのだ。デッキに1マナのカードが入っていなくて、2マナのカードが1種類しか入っていなければ、3マナの続唱呪文でめくれるカードがその2マナのカードになると確信できているはずだ。

 人間は安心を求める生物である。ゲームデザイナーは、より受け入れやすいものを導入したり、あるいは既に受け入れられている要素を用いたりすることができる。

#4) 無作為の象徴を取り除け。

 最後の注目点はそのままこれである。プレイヤーが無作為性を感じ取ったら、まず不快感を覚えるものだ。既に述べたとおり、人々は制御できなくなることを畏れる。しかし、ゲームデザイナーはドラマティックでサスペンスに溢れた瞬間を作らなければならず、そのためには制御不能になることが必要なので、不平不満を言われることになる。

 アドバイスの最後の1つは、ゲームデザイナーはプレイヤーにとって無作為だと見えるものが何なのか意識しなければならないということだ。サイコロを振ったりコインを投げたりすることは、文字通り無作為の象徴なので特に悪い影響を与える。ゲームでサイコロを使うものがけして少なくないのは、プレイヤーがそれをそういうものだとして受け入れているからにすぎない。ボードゲームではサイコロを使うものだが、カードゲームはそうではない。モノポリーでサイコロを見ても驚きに目を見開くヤツはいないが、アングルードやスターウォーズTCGではそうではなかった。大量の否定意見が市場調査に寄せられたのだ。


 これが、マジックのカードからコイン投げを減らし、サイコロを使わなくなった理由である。作ったカードが上記3つのポイントをクリアしていても、「コイン投げをする」とか「サイコロを振る」とかいう記述を書かないわけにはいかず、それだけでそこまでの努力が水泡に帰すのだ。このポイントは短くて単純だ。無作為の行動をどう表現するかを考えるべし。無作為性を強調するのか、それとも目立たぬように隠すのか?

 ゲームデザインにおいて無作為を作ることは、無作為ではない。それをプレイヤーにどう提示するか、充分に考える必要がある。

「予想外だ!」

 今日のコラムでは、プレイヤーの視点からは検討されることのない、だがデザイナーは考慮せざるを得ないマジックの一面にスポットライトを当ててみた。幸いにして、続唱メカニズムはそれを上手く使い、無作為性から面白さと興奮がわき出してくるようにした好例だ。

 それではまた来週。

 その日まで、あなたがあなたの人生における無作為への対処を楽しめますように。

チェスにおける無作為性について

 以前、リチャード・ガーフィールドが開発部に向けて提供していたゲーム関連の議論の種としてのよくあったのが「チェスには無作為性は存在するか」だった。本日の記事にふさわしいようでいて少し本筋から外れるので、興味のある人向けに、別枠でコラムとして提供することにした。


 チェスは無作為性のないゲームと言えるだろうか? 私はそれに対して否定論を立てる。その前に断っておくが、私はチェスの名手ではない(チェスのグランドマスターからチェスに関して受けたことのある最良の評価は、彼の「知る限りでもっとも攻撃的な下手」というものだった。賛辞と受け取ったね)。だから、チェスの専門用語を使わず、一般的なゲームの用語だけで話そう。良いゲームにはじゃんけんのようなメタゲームが存在する。つまり、3つ以上の戦略がお互いに有利不利の関係で存在し、何か1つの戦略がすべてを支配するということがない、ということだ。なぜそう言い切れるかというと、1つの戦略がすべてを支配した場合、ゲームは終わる。そのゲームが生き残っているということは、つまり、そのゲームの世界でじゃんけんが成立しているということになる。

 アナトリー(ミュージカル「チェス」に存在するキャラクターから名前を借りよう――チェスはよく知らない私だが、ミュージカルはよく知っているから)がグー・プレイヤー、つまり、グー・スタイルの戦術に習熟したプレイヤーだと仮定する。彼はパーやチョキの手順も指すことはできるが、グーが一番好きなのだ。大会の第1回戦で、彼は他のプレイヤーと対戦することになる。誰と当たるかは無作為だ。対戦の組合わせにシードがあったとしても、誰と誰が当たるかそのものは無作為である。アナトリーは、誰と対戦するかを事前に知ることはない。対戦相手がチョキ・プレイヤーだとしたら、アナトリーの得意戦術が相手の得意戦術に勝つことになる。相手がパー・プレイヤーならその逆だ。


 別の考え方をすれば、こうなる。アナトリーは開始時に相手を知らない。彼は最初の手を選ばなければならない。相手の得意戦術に対して、ある手は他の手よりも有利になるだろうが、相手の得意戦術が何かは分からない。従って、アナトリーは知らない情報に基づいて判断しなければならなくなる。複数の初手がある時、そのなかのどれを選ぶかを何に基づいて決めるといいだろう? 決める助けなどありはしない。つまり、彼の初手は本質的に無作為なのだ。

 また別の視点から見ると、無限のターン数を読み切り、ありうるすべての手順を計算し、すべての可能性を計算して順位付けするスーパーコンピューターがあったとすれば、コンピューターは理論づけて選択肢を順位づけることができるだろう。問題は、人間の脳にはそのようなことができはしない、ということだ。実際、チェスプレイヤーはしばしば複数の好手が思いついたもののその中でどれが一番有利なのかは(コンピューターのように)計算しきることができない、という状況になることがある。そのような状況においては、プレイヤーは確定できない複数の手の中からどれか一つを選ばなければならない。選ぶための基準は? 本能、好悪、何にせよ究極的には無作為に選んでいるに他ならないのだ。

 ところでこのような「議論の種」としては、(スター・ウォーズの中でEP4「新たなる希望」とEP5「帝国の逆襲」のどちらが良いか、とかと並んで――ちなみに正解は前者だ)読者の反応というのも含まれる。もし意見があればどうぞご自由に。