異論弁論:対象を取る「カードを引く」こと
今回、このMaking MagicとLatest Developmentは新しい企画に取り組むことにした。その名も「異論弁論」。開発部がマジックの細かいことについて常時議論を交わしていると言うことについてはしばしば説明してきた。あることと、それに関する別の考え方を直接目にしてもらうことにしよう。今回(そして好評なら今後も)、ある議題についてこのコラムで一面からの考え方を示し、その後でザックのLatest Developmentでもう一つの考え方を示してもらう。ザックと私はお互いに相手のコラムを見ることなく原稿を書き上げている。この企画のポイントは、判断は単純なものとは限らない、ということである。しばしば、両方に充分な論拠が存在する。それこそがマジックを作る上で重要なことなのだ。
それでは今回の議題だが、「カードを引くことは一般に対象を取るべきかどうか」だ。私の見解を説明する前に、この議題について説明しておこう。今回取り上げるのはカードを引く効果を持つ呪文だが、いわゆるキャントリップ呪文、他の効果のおまけとしてカードを1枚引くというものは含まないことにする。
私の意見を聞く前に、この件に関する諸君の見解を決めておいて欲しい。
考えが決まったなら、いよいよ本論に入ることにしよう。
カードを引く呪文の基本的なテンプレートはどうあるべきか、という話である。もちろん、呪文やセットの性質によって定められることではあるが、何も方向性を決めるものがなかった場合のそういった呪文は、以下のどちらになるべきか。
私はここで、右側のものであるべきだと主張したい。ディベートのルールから言うと、立証責任は私のほうにある。ザックが主張するほうはより単純なものだ。私はマジックに対する最大の脅威は複雑さが増していくことだと繰り返し述べてきた。右側を推すというのは、要約すれば「なぜ複雑さを増すべきなのか」ということになる。また、《予言》を見ても分かるとおり、この件に関しては私のほうが少数派である。長年にわたって右側のスタイルを推してきたが、開発部の大勢を変えるには至っていない。そこで、この第1回異論弁論では、複雑さの侵出を肯定し、開発部の現行のスタンスを否定する側に立つことにした。いわば背水の陣だ。幸いにして、これは私の本領でもある。始めよう!
この議論の重点は複雑さに関するものなので、私が提示したカードに存在する複雑さについて分析していくことから始めよう。
#1: これはマジック語だ(つまり、日常語ではない)
初めてマジックを手にするプレイヤーが、このカードを見たと仮定しよう。ザックのカードについてはすぐに理解できるに違いない。「あなたはカードを2枚引く」。ごく普通の日常語だ。一方、私のカードを見たらどうだろう。「対象とするってどういうことだ?」と疑問を持つに違いない。マジックをすでに知っている諸君は忘れがちだが、「対象」は専門用語である。マジックを学ぶにあたって、その意味を覚えなければならない。確かに日常語でも対象という言葉は存在するし、それはマジックでの意味と関係しないわけではないけれども、日常の「対象」とマジックの「対象」は完全に別の意味を持つ。初心者には、「対象とする」で終わる文に何の意味があるのか分からないものだ。
#2: 選択が必要である
対象を取らないほうのカードでは、何も考える余地がない。起こりうることはただ1つである。対象を取る方では、プレイヤーの人数分だけの選択肢が出てくる。つまり、選択肢は最低でも2つ、プレイヤー数によってはそれ以上の可能性が出てくるのだ。選択という点において、1つと2つには天と地ほどの差がある。
#3: 選択を理解する必要がある
なぜ自分がカードを引きたいか、というのは非常に簡単に理解できる。なぜ対戦相手にカードを引かせたいか、というのは、そう簡単ではない。複雑さを考える上で、カードが作り出す思考の量というものを考えなければならない。一見して分からないような選択を理解するには、それだけの考察が必要なのである。私のカードもザックのカードも似たようなものに見えるが、私のものにはザックのものよりもはるかに多い思索が含まれるのだ。
#4: より文章が多い
これはどうでもいいことに聞こえるかも知れない。結局のところ、(英語で)4語か5語かの差に過ぎない。しかし、市場調査で、文章量が多いことは威圧的に感じられるということが示されている。カードに書かれた文章量が多いことは、マジックそのものを威圧的にし、始めるのをためらうというのだ。この問題を持ち出した理由は、文章を追加することにも立証責任があるからである。この文章には、追加するだけの価値があるのだろうか?
《滅びへの選択/Choice of Damnations》 アート: Tim Hildebrandt
その前に
マジックを知っているプレイヤーにとってはどうだろうか? 上であげた論点は全てこのカードに初めて触れる初心者の話であり、実際にカードを引く呪文を使うプレイヤーの大多数は経験者だと言う事実を無視している。初心者がどう感じるかよりも経験者が必要とするということに重点を置くべきではないか?
私はそうは思わない。これは基本のカードについての話である。エキスパート・セットは、そのほうがふさわしいからという理由でカードを引く呪文が対象を取ることもある。経験者に向けての話であれば、経験者を重視した話をするが、今回はそうではない(ある面においては常に経験者に向けている部分はあるが)。「経験者にとって、カードを引く呪文は対象を取るべきだ」という議題であればよっぽど簡単に勝てる自信があるとも。
この議題に関する最大の問題は、カードを引く呪文が対象を取る場合、ライブラリー切れを起こさせることができるのでヘビー・パーミッション戦略が成立するということである。しかし、近年はヘビー・パーミッションが成立してしまう危険性がないようにきちんと管理できており、かつてほど重大な問題にはならないと考えている。おそらくザックはこの点について触れてくるだろう(まだ見ていないので確証はないが)。
ともあれ、この議論の中心に来るのは複雑さだと私は考えている。そこで、私はこの問題に取り組むにあたって上記の4つの点について論を立てることにした。私のカードは、より複雑である。それにはそれだけの意味があるのか? この複雑さに見合うだけの価値はあるのか?
もちろん、あるとも。
#1: これはマジック語だ(つまり、日常語ではない)
私の提示したカードを使う場合、初心者はそれを理解しなければならない。つまり、専門用語を学ばなければならないということだ。なぜそれを認めるのか? なぜなら、マジックをプレイするためには覚えざるを得ない用語だからである。初心者にどれだけの専門用語を見せるかということに関して私は慎重派だが、どれだけ減らしても最低限必要な用語は存在する。そして、その中の一番筆頭に来るのはこの「対象」なのだ。
《ラト・ナムの図書館/Library of Lat-Nam》 アート: Alan Rabinowitz
「ライブラリー」「墓地」「戦場」のほうが重要だという諸君もいるかも知れないが、それらは「対象」とはまったく違う種類の専門用語であり、学ぶのははるかに簡単である。「ライブラリー」「墓地」「戦場」は、いわば「言い換え用語」である。ゲームには山札、捨て札、場が存在する。ライブラリーが何なのか細かく説明する必要はない。それは山札である。山札にあったカードのうちで使ったものは捨て札置き場に置かれる。マジックはそれらに雰囲気のある名前を付けているが、それぞれが何なのかはよく知られているものだ。場に関しては多少の知識が必要だが、とはいっても多くのカードゲームには場が存在する(七並べ、花札、ドボン、スピード......)。場という考え方を理解することがそれほど難しいものだとは思わない。
もう一つ、専門用語の問題はキーワード(と能力語)だ。そのほとんどは注釈文やルール文で内容を記してある。複雑なものについては、コモンには入らないようにしている上に、(もっとも雰囲気があり説明が必要な能力であるところの)飛行を例外として、1つのセットに含まれる枚数はそれほど多くはないものである。「対象」はそうはいかない。
「対象」は、ただ目新しい語というだけではなく、一つの考え方である。マジックの要素の多くは、プレイヤーが対象という考え方を理解していることを前提にして築かれている。開発部も認めざるを得ない、初心者が学ぶ必要のあることの一つだ。一例を挙げると、マジック基本セット2012は初心者導入向けにデザインされているが、「対象」という語が使われているカードは96枚あり、そのうちで43枚はコモンである。
ゲーム・デザイナーにしてコミュニケーターとして、私はものの教え方というものを学んできた。その最重要ポイントの一つは、教えるためには反復が重要だということである。教師が教室で新しいことを教える場合、その内容を少なくとも5回は繰り返すべきだという。5回やれば、平均的な生徒はその新しい内容を理解するというのだ。
つまるところ、ゲームの根本に位置づけられているものを扱うのであれば、多すぎるほどの方がいいということになる。新しい専門用語がほんの少しだけ使われるよりも、しばしば使われる方がいいのだ。初心者プレイヤーが触れざるを得ないようにすべきなのである。基本セットにおける「対象」の扱われ方を見ると、その使い方をされているのは明白である。これを脳裏におくと、44枚目のコモンに対象を付け加えることは一見して思われるほど威圧的なものにはならない。
#2: 選択が必要である
「彼は知性的ですが、経験が足りません。彼の考え方は二次元的です」
――ミスター・スポックからカーク船長へ、カーンについて(『スタートレックII カーンの逆襲』より)
マジックをデザインするにあたってのもっとも奇妙なところの1つは、マジックそのものが動的であり、その実態を変え続けているということである。これはマジックの最大の強みの1つでもあるが、一方でデザインに大問題をもたらしている。デザイナーの目指すべきものが変化し続けているからである。ここ5年間での最大の変換点の1つに、マジックが2人専用のゲームではないということを受け入れたことが挙げられる。
《循環進化/Cyclical Evolution》 アート: Matt Cavotta
マジックには以前から多人数戦フォーマットは存在したが、デザインにおいて重要視されたことはなかった。イベントで使うための2人戦を主に意識していたのだ。その後、よりカジュアルなプレイヤーの声にも意識を向けるようになると、想像していたよりもずっと多くのプレイヤーが2人戦以外の楽しみ方をしているということがわかってきた。
昔は、ただ2人用のカードを作り、多人数戦をするプレイヤーはそれを当てはめて使っていた。その後、そういったプレイヤーを意識するようになって、セット内に多人数戦を意識したカードを数枚入れるようになった。そして、どうすれば多人数戦で使いやすいようにカードを調整できるかということを考えるようになった。今や、多人数戦で使いやすいカードをできる限り作るようにし始めているのだ。
もう一つ、対象を取ることのメリットとして、2人用のカードから多人数戦用のカードに衣替えできるということが挙げられる。もちろん自分でカードを引くためにも使えるが、他の使い方も可能になるのだ。仲間を助けることもできるし、敵を懐柔することもできる。取引材料にもできる。このちょっとした変更で、できることが大幅に増えるのだ。
これは初心者プレイヤーにも重要だと主張しておこう。2人戦以外に価値を持つカードが存在するという発想に門を開くことができるのだ。多人数戦をしたくなるに違いない。
以上のように、選択は多人数戦にプラスになる。2人戦では? それについては次の項目で語るとしよう。
#3: 選択を理解する必要がある
人間は習慣の生物であるとよく語ってきた。新しいものには抵抗があり、既知のものにしがみつきたくなるものだ。幸いにして、我々はその問題への答えを持っている。我々には生まれつき好奇心というものが備わっており、知らないことを知りたいと思うものだ。しかしここには一つ問題があって、好奇心は習慣よりも強いとは言えない。つまり、新しいことを取り入れるには障壁が存在するということになる。そこで、結晶化という考え方にたどり着いた。
《結晶化》 アート: Zoltan Boros & Gabor Szikszai
結晶化とは、何か新しいことを取り入れ、自分のものにするための工程である。結晶化を行なうためには、強力な感情的結びつきが必要である。外部のものを取り入れ、それを自分のものにする方法を見つけなければならない。たいていの場合、結晶化は気づかないうちに進んでいき、気がついたときにはなぜかそのものに惹きつけられているものだ。
私の職分をこなすために、私はマジックの結晶化について理解する必要があると判断した。マジックに時間と金を費やしたいと思うほどに人々を惹きつけるものは一体何なのか? これについて何年も考えた結果、一つの結論にたどり着いた。マジックと他のゲーム、あるいは他の娯楽との最大の違いは、プレイヤーが自分の好きなように調整できるということだ、と。
何度も何度も書いてきたことだが、私はマジックがただ1回のゲームだけで成立しているとは思っていない。マジックは、ルールという1つの傘の下にある様々なゲームの集合体だと考えている。マジックの流動性や自由度は、プレイヤーが望むままにマジックというものを組み立てられるようになっている。デッキ構築においてどれだけの自己表現が含まれているかという話もしたことがある。プレイヤーは自分のデッキを自分の創造物であると考え、思い入れを持つものだ。マジックは、プレイヤーたちが自分で作ったものだと思えるだけの可能性を内包している。すなわち、プレイヤーは事態を受け入れる観客ではなく、事態を引き起こす当事者なのである。
マジックにはそれだけの調整の余地が含まれているとして、初心者がそれを見いだすことはできるのか? 新しいことを始めるのは非常に難しいことだということを思い出して欲しい。最初にプレイヤーの想像力を惹きつけるのは一体何か? その答えはいろいろあるだろうが、私の考える最大のものは次に述べることだろうと思う(ここで説明に〈学び〉の対象を取るほうのカードを使うことにする)。
初心者プレイヤーは、使えると思うカードを使うものだ。ほとんどの場合、機能は1つしか考えていないだろう。
初心者プレイヤーが〈学び〉(「プレイヤー1人を対象とする。そのプレイヤーはカードを2枚引く」)を読んで、その意味を考える。そのプレイヤーは「対象とする」ということについて学ぶことになるが、最後には自分に使うことで2枚カードを引くことができると理解することだろう。カードの効果は1種類しかないと考えるものなので、効果を理解したプレイヤーは満足してそれ以上考えなくなるものだ。カードを2枚引くのはいいことだと思い、それで検討は終わることだろう。
どこかの時点で、そのプレイヤーはこのカードのもう一つの使い方に気づく。どう使うかはともかく、他の使い方があると言うことには気づくのだ。
やがて、そのプレイヤーが対象についてより深く理解すると、今度は相手に2枚引かせるという使い方に気がつくことになる。まだそうすることの意味は分からなくても、その先に踏み出すための扉は開かれるのだ。そしてプレイヤーは考えを巡らせていく。
《知識の搾取》 アート: Darrell Riche
そして、この選択が正しくなる状況にたどり着く。
ゲームが長引き、両プレイヤーともライブラリーが少なくなってきて、初心者プレイヤーは「ライブラリー切れ」について教わる。さて、そのプレイヤーはライブラリーに残っているカードの枚数を数え、このままだと自分のほうが1ターン先にライブラリー切れで負けてしまうということに気がついた。
そこで閃く。〈学び〉には、自分がカードを引く以外の使い方がある、と。
このタイミングでこそ対戦相手にカードを2枚引かせる意味があるんだと。そのプレイヤーは〈学び〉を普段使わない使い方で使い、ゲームを決める。この場合、この1枚のカードのおかげで負けていたカードを勝ちにできたのだ。
ここで起こったことは非常に重要な話である。ゲームにおけるカードの効果を1種類だと決めてかかっていた(ほとんどのゲームではそうである)プレイヤーが、未知の可能性が存在するゲームへと足を踏み入れたのだ。また、このプレイヤーは、マジックにはいつでも可能性があるんだ、と考えるのではなく、その可能性を自分が見つけ出したんだ、と考えることだろう。これはより重要なことである。ゲームを自力でひっくり返したと感じられるのだ。
これこそが結晶化である。ただプレイするだけのゲームから自力で変えられるゲームへと認識が変われば、感じ方も変わってくる。それこそが、マジックに対する思い入れというものである。
《Awesome Presence》 アート: Lawrence Snelly
ここまでに言った通り、私が言ってきたことはどれも無意識の話である。意識の上では「やった、イカしたことをやってやったぜ。楽しいな」ということになるが、心理学的に言えば、結晶化が起こっているということになる。
さて、なぜ対象を取ることにこんなにこだわっているのかと言うと、この結晶化の可能性を可能な限り増やしたいと思っているからである。可能な限り多くのプレイヤーに、相手にカードを引かせることができると気づいてもらいたいし、それに意味があると言うことに気づいてもらいたいのだ。私は、この要素をマジックのそこかしこに可能な限り入れたいと思っている。だからこそマジックのコンボ要素を愛しているし、カードの効果の細かいところにこだわっているし、カードを引く呪文は対象を取るべきだと強く強く主張しているのだ。
#4: より文章が多い
さてここで諸君に重大な秘密を明かそう。複雑なのは悪いことではない。もちろん、全てが複雑であればいいという話ではない。良い複雑さと悪い複雑さが存在する。悪い複雑さは、プレイの邪魔になるものだ。不必要な情報を増やしたり、混乱を招いたり、楽に扱えるより多くの要素を管理しなければならなくしたりするようなものだ。
一方、良い複雑さとは、プレイヤーの頭の見せ場を作るものだ。ドラフトしたり、デッキを調整したりしたくなるような深みを与えるものだ。良い複雑さは価値を高め、悪い複雑さは価値を下げる。悪い複雑さを取り除く途中に良い複雑さを見いだすのがコツである。この着想は最近手にしたもので、それを言い表す言葉として「レンズ状のカード」とでも言っておこうか。
普通一般的な表現で言えば、「レンズ状のカード」とは見ている光景を変更するようなカードである。デザインの文脈で私がこの語を使う場合、初心者には気づかないような複雑さを内包したカードのことを指す。一方から見れば単純に見えるが、別の角度から見れば複雑な効果を持つ。この一例を挙げれば、闇の隆盛の《黒猫》が挙げられる。
レンズ状の子猫
経験の浅いプレイヤーにとっては、このカードは死んだときに優秀なおまけのついているクリーチャーだ。より経験を積んだプレイヤーなら、このカードは攻撃やブロックを支配するために使ってアドバンテージを得られるということに気づくだろう。経験を積んだプレイヤーにとって、死亡による誘発型能力はただ起こるものではなく、狙って起こすものなのだ。私は、初心者にも経験者にもそれぞれ別の使い方が見える、こういったカードを作るのが大好きである。
カードを引く呪文が対象を取るのはレンズ状だと私は考えている。その説明のために、《溶岩の斧》を例に挙げよう。
これは基本セット2012に入っているコモンのカードである。このカードが何か問題を起こしたことがあるだろうか? このカードは自分自身に5点のダメージを与えるのにも使えるが、そんな使い方はされない。調査の結果、プレイヤーはこのカードを「対戦相手の頭をブン殴って5点」と理解しているということがわかった。なぜ混乱しないのか? 上記の通り、経験の浅いプレイヤーにとってはカードの効果は1つしかないからである。このカードは何をするのか? 理解したら、それ以上カードを読み込むことはない。「プレイヤー1人を対象とする。そのプレイヤーはカードを1枚引く」では自分を狙い、「プレイヤー1人を対象とする。溶岩の斧はそのプレイヤーに5点のダメージを与える」では相手を狙う、ここにはかなりの差がある。そうでなければ、《溶岩の斧》をはじめとした対象を取るコモン・カードは基本セット2012に入っていなかったはずだ。
単語数のような基準を当てはめるのは、カードが見た目以上に複雑かどうかを識別するための手段である。性質によってはどうしても複雑になることがあるが、ただ基準を機械的に当てはめるのではなくその理念に基づいて判断しなければならない。たとえば、直感的に理解できるようなカード(カードを見て想像できる通りの働きをするようなカード)に長い文章が書かれていても、意味不明な短い文章のカードよりも複雑とは言えないだろう。
「対象」という表現を使うことで、確かにいくらか複雑にはなっているが、その差はそれほど大きいものではなく、基本的な前提からすぐに同じところに到達できるものである。誰かが2枚カードを引く? じゃあ俺が。このカードが特に有用なのは、経験を積んだプレイヤー(や、多人数戦プレイヤー)はこのカードを初心者に思いつけないような方法で使いこなせるからである。
要点をまとめると
さて、それでは最後に私の「弁論」の要点をまとめておこう。
- 初心者プレイヤーは「対象」の語を学ばなければマジックをプレイできないので、何度も目に触れるようにするほうがためになる。
- 多人数戦はマジックの重要な一面であり、カードを多人数戦で使いやすい文章にすることはマジックを望む方向に成長させる上で重要である。
- 初心者プレイヤーにマジックを結晶化させるために、思い入れを持たせるきっかけになる要素を入れておくことが必要である。
- 初心者プレイヤーが対象を取るカードを引く呪文の意味を理解するのには何の問題もなく、中に良い複雑さを潜ませることでマジックはより良いゲームになる。
そして、これは経験を積んだプレイヤーから見た必要性については全く触れていない。
これで「弁論」は終わりである。「異論」を見たい諸君は、この後掲載されるザックのLatest Developmentを読んでくれたまえ。その後で諸君の考えがどうなるか、非常に興味深く思っている。
それではまた次回、獄庫を掲げる時に。
その日まで、楽しい議論があなたとともにありますように。
(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)