今年3月、私はサンフランシスコで開催された「Game Developer's Conference」に行き、デザインについて話をした。先々週、先週、そして今回の3回で、そのスピーチをまとめた一連の記事を掲載している(その1その2)。今回が第3回で最終回となる。これまでの2回を読んでいない諸君は、今回の記事の前提でもあるのでぜひ読んできてもらいたい。それでは、今回の教訓だ。

教訓#14

 この教訓を得たのは、2010年4月、『エルドラージ覚醒』のときである。このセットは『ゼンディカー』ブロックの第3セットだったが、メカニズムを0から作った大型セットだったのだ。その大きな理由が、物語の上で起こった大事件、すなわち、古の神秘の存在である3体のエルドラージの巨人たちが封印から解き放たれ、大災厄をゼンディカー世界に巻き起こしたという事件である。このセットのデザインにおいては、エルドラージとその血族の雰囲気を再現することに労力の多くが費やされた。表したいと思った3つの属性は、巨大さ、異質さ、そして貪欲さだった。

 マジックにおける私の座右の銘の1つに、「テーマがコモンに存在しなければ、それはテーマではない」というものがある。つまり、上記の性質がコモンのエルドラージ・クリーチャーからも伝わるようにしなければならないということになる。今回の本題は、《ウラモグの破壊者》というエルドラージに関するものである。

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 《ウラモグの破壊者》は巨大だった。コモンで8/8である。通常、このサイズのクリーチャーはアンコモンかレア、神話レアになるものだ。《ウラモグの破壊者》は異質だった。無色のクリーチャーなのにアーティファクトではない。新しい透明のカード枠で、アートに描かれているクリーチャーは見た目も奇妙だった。《ウラモグの破壊者》は貪欲だった。攻撃するたびに対戦相手にパーマネント2つを生け贄に捧げさせる、滅殺メカニズムを持っていた。プレイにおいては本当に暴力的だった。我々は、エルドラージがどのようなものなのかを表すコモンのエルドラージを作ったと確信していたのだ。

 すべてのセットで、我々は開発部外からまだカードを見たことがないウィザーズ社員を集め、彼らがどうするかを見るというプレイテストを行っている。何度も、《ウラモグの破壊者》を戦場に出しはするが、それを使わないで置いておく、という状況があった。実際、これはエルドラージ全てについて同じだった。これらの無色クリーチャーは巨大で、しかも滅殺を持っているのだということを思い出してもらいたい。破壊的たるべく作られているにもかかわらず、プレイテスターたちはそれで攻撃しようとしなかったのだ。

 経験の浅いプレイヤーは、間違った選択をしてクリーチャーを失うことを強く恐れる傾向にある。そのため、攻撃することをためらうものなのだ。エルドラージは大きいので、コストも重くなる。つまりそれを戦場に出したころには、戦場には多くのクリーチャーが並んでいることになる。いくら8/8あるとはいえクリーチャー1体で攻撃したら、大量のクリーチャーにブロックされて死んでしまうかもしれないのだ。滅殺持ちの大型クリーチャーで攻撃すれば攻撃した側が有利になるので問題ないと考えていたが、それはプレイヤーがそう理解していればこそだったのだ。

 熟考の末、私はこの問題の解決策を見出し、《ウラモグの破壊者》に一文付け加えることにした。

 これで、プレイヤーは《ウラモグの破壊者》で攻撃しなければならなくなった。選択の余地はなくなった。そして、攻撃したなら、どれほど強力かを目の当たりにし、そしてエルドラージで攻撃することには問題はないのだと理解することになる。問題を乗り越えさせるための鍵は、強制することにあったのだ。こうしてこの教訓が得られた。

教訓#14:単刀直入を恐れるな

 しばしば、マジックのデザインのことを芸術だと捉えていると話しているが、アーティストは微妙さを好むものであり、言葉ではなく作品で語るように伝えられている。芸術を特別なものにしているのは、その軽いタッチなのだ。ここに問題がある。微妙さが役に立たない場合が存在する。明白なものさえ見落とされることがあるのだ。

 マジックで例を挙げると、プレイヤーのメカニズムに関する考え方を短縮するためにキーワードが用いられる。キーワードがあることで、プレイヤーはどこに注目すべきかを理解できるのだ。1999年10月、『メルカディアン・マスクス』というセットを発売した。このセットには、デッキからクリーチャーを探すことができるレベルや傭兵、それに手札のカードを特定の呪文として使うことができるスペルシェイパーが存在していたが、その両方について、キーワード化はせず、クリーチャー・タイプで区別するようにしていた。その結果、プレイヤーは『メルカディアン・マスクス』には新しいメカニズムが存在しないという不満を持ったのだ。キーワードとメカニズムの結びつきは非常に強く、切り離してしまうとプレイヤーはその一面を見失ってしまうものなのである。

 時折、受け手に何かを理解させるために、単刀直入にする必要があることもあるのだ。受け手自身に見つけさせるようにすることが素晴らしい効果を持つ場合も多いのだが、それが常にうまくいくとは限らないことは認識する必要がある。プレイテストが鍵になるのは、メッセージが伝わっていないことを理解する助けとなるからである。私はよく自分のクリエイティブ的な道具を工具箱に例えるが、時には、ただ金槌が必要なときもあるのだ。

教訓#15

 諸君が次の話を理解できるように、まずプレイヤー心理学の話をしよう。私が初めてウィザーズに来た当時、開発部は非常に数学中心的だった。彼らはマジックを数と組み合わせという面から考える傾向にあった。私は心理学の視点からゲームデザインを考えることに興味があった。プレイヤーがマジックから求めているものは一体何なのか。広告学の講義で学んだ方法を用いて、私はマジックをプレイする理由を表す3つのプレイヤー心理分析を作った。「ティミー」「ジョニー」「スパイク」の3つである(後にそれぞれの女性形を「タミー」「ジェニー」そしてスパイクはむしろ女性のあだ名としてのほうがとして多いので「スパイク」、とした)。

 このことに関して複数の記事を書いている(最初の記事続編(各リンク先は英語))が、まとめるなら次のようになる。

ティミー/タミーは何かを経験するためにゲームをプレイしている。

 それは大型クリーチャーをプレイする興奮であったり、何か狂ったことや想像外の出来事を起こす快感だったり、友人とふれあう楽しみだったりする。ティミー/タミーがプレイしているのは、マジックから感じられるもののためである。

ジョニー/ジェニーは何かを表現するためにプレイしている。

 マジックは各人にプレイの仕方を選ぶ高い自由度を認めているゲームである。ジョニー/ジェニーは、マジックを自己表現の方法として用いる事ができるのでマジックの創造性を愛しているのだ。ジョニー/ジェニーがマジックをプレイしているのは、マジックが彼らに自身の一面を表す手段を提供しているからである。

スパイクは何かを証明するためにプレイしている。

 マジックは非常に複雑なゲームである。自分自身や他者に、自分の能力を示すための方法として自分に挑みたいと考える者にとって完璧な手段なのだ。スパイクがプレイしているのは、それが自分を試し向上させる方法だからである。

 これは、2005年10月、『ラヴニカ:ギルドの都』を舞台にした次の話の鍵になる。当時、我々はこのカードをデザインした。

 それでは、心理分析3種それぞれからこのカードを見てみよう。まず、これはジェニー向けではないので、ジェニーは除外しよう。ティミーはこのカードを見て、コイン投げに目を留める。ティミーはコイン投げが好きだ。無作為で、楽しくて、興奮できるものだ。スパイクはカードを見て、2つの結果に目を留める。それぞれ異なるが、どちらも他方よりも明確に悪いものではない。どちらの選択が正しいかを理解するのには技術が必要で、スパイクは技術に報いるカードが好きだ。

 では、この属性を入れ替えてみよう。ティミーは2つの結果にはあまり興味がない。ティミーはコインを投げた時の興奮に注目している。ティミーが望むのはドラマで、多様性なのだ。一方のスパイクはコイン投げにはあまり興味がない。彼女は技術を役に立たせたいと思っており、無作為な結果のせいで負けることは好まないのだ。

 こうしてティミーは興奮する瞬間のないコイン投げカードである《溶鉄の歩哨》を嫌い、スパイクは技術を示せる興味深い選択でありえたものを無作為に委ねている《溶鉄の歩哨》を嫌った。最終的には、2つのグループを満足させようとしたこのカードは、どちらにも満足されない、誰にも愛されないものになってしまったのだった。こうして次の教訓が得られた。

教訓#15:要素はその対象とする受け手のためにデザインせよ

 すべての受け手を満足させようと狙うと、誰も満足させられないことがよくあるものだ。プレイヤー全てがゲームに同じものを求めているわけではない。どのようなプレイヤーがいるのかを理解できるように、プレイヤーがそれぞれどのようなものを望んでいるのかを理解することが重要なのだ。つまり、なにか要素をデザインするときには、受け手の中のどの一団に向けて作っているのかを理解し、そしてその要素をその受け手に向けてデザインすることが必要なのである。他のプレイヤーがそれを好まなくても、問題ではない。そのプレイヤー向けではないのだ。

 何かを作るとき、可能な限り広い受け手を満足させたいという欲求はあるものだが、それはマクロレベルであってミクロレベルではない。可能なかぎり多くのプレイヤーを満足させる方法とは、そのゲームにどのようなプレイヤーがいるかを理解し、そしてその各種のプレイヤーに向けた要素を作ることだ。それぞれの種類のプレイヤーがそのゲームの何かを楽しむようにすることのほうが、プレイヤーがそのゲームのすべてを楽しむようにすることよりも重要なのである。つまり、要素のミクロレベルの作業をしているときは、各要素が誰向きなのかを理解し、そうデザインすることが重要なのだ。そうすれば、受け手の各人がそのゲームの中にある「これこそ自分向けだ」と思わせる部分を見つけることになるのである。

教訓#16

 次の話は1999年8月、サプリメント・セットの『Unglued』の話になる。『Unglued』はユーモラスな、ルール破りの、最初の銀枠セットであり、競技マジックとは違うものとして作られたセットであった。このセットで最も人気のあったカードがこれである。

 このカードは《B.F.M. (Big Furry Monster) 》と呼ばれるもので、大きすぎて1枚のカードに入らないのだ。両方のカードを手札に揃えて、それから初めて唱えることができる。そうしたらこの2枚のカードが一緒に戦場に置かれ、1枚の巨大なカードになるのだ。1年後、私は『Unglued 2』(発売されることがなかったセット。詳細はこの記事この記事を参照)に取り組んでいた。そして、プレイヤーが大きすぎて表すのに2枚のカードが必要なカードを楽しんだことから、その逆に、小さすぎて2枚ないと1枚分にならないようなマジックのカードを作るのはどうだろう、と考え、分割カードと名付けた。

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 『Unglued 2』は中断され、分割カードも忘れ去られる運命に思われたが、それから1年後、『インベイジョン』のデザインに取り組んでいたとき、多色ブロックは分割カードのお披露目にふさわしいと閃いたのだった。分割カードを『インベイジョン』のリード・デザイナーだったビル・ローズ/Bill Roseに見せたところ、ビルは非常に気に入ってセットに入れたのだった。さらにリチャード・ガーフィールド/Richard Garfieldにも見せたところ、彼も興味深いと答えた。しかし、ビルとリチャード以外には、社内に分割カードを気に入った人は誰もいなかったのだ。

 デベロップの初日に、『インベイジョン』のリード・デベロッパーのヘンリー・スターン/Henry Sternは分割カードを削除しようとした。開発部の他のメンバーも削除しようとした。ブランドも削除しようとした。ここで強調しておきたいのは、誰もが自分の信じる最高のマジックを持っているということである。分割カードがマジックのカードのあるべき姿から離れすぎていること、あるいはやり過ぎだと思われることを心配したのだ。どちらにせよ、分割カードに反対した人々は、削除するのが正しいと真に感じていたのである。

 ビルと私は分割カードをセットに残すために戦った。少しずつ、我々は他の人々を説得していき、そしてこのセットが印刷されるころにはウィザーズの大半の人々は賛成に回っていたのだった。分割カードは鳴り物入りで発表され、プレイヤーは惚れ込み、市場調査でもこのセットで最も人気の高い「メカニズム」となったのだった。

 このことから、次の教訓が得られた。

教訓#16:プレイヤーに挑むことよりもプレイヤーを飽きさせることを恐れよ

 ウィザーズに来てから20年の間に、私は様々な革新的なことをしてきた。そのたびに、誰か(大勢であることが多い)が現れ、情熱と意志をもって私に伝統に反する新しいことが間違った考えだという理由を告げてきた。「そんなことはできない!」「リスクが大きすぎる!」「マジックが無茶苦茶になる!」

 私は退屈なメカニズムもいくらか作ってきた。しかし、情熱と意志をもってそのメカニズムを作るのを止めてきた人はほとんどいない。その理由は、人はプレイヤーを飽きさせることよりもプレイヤーに挑むことのほうを恐れるからである。しかし、それは逆だと私は考えている。何か壮大なことをしようとして失敗しても、プレイヤーは何かすごいことをしようとしたのだと認識して許容してくれるものだ。彼らはその企画に敬意を払ってくれるし、次に何をするのか期待して留まってくれる。しかし、受け手を飽きさせてしまったらそのような許容はない。同じ過ちをすることは、新しい過ちをすることとは違うからである。プレイヤーを飽きさせれば、彼らは憤慨し、場合によってはプレイをやめてしまうことになる。

 ゲームデザイナーとして、私は逆にすべきだと考えている。プレイヤーに挑むことは恐れるべきことではない。もっとも恐れるべきリスクは、リスクを取らないことなのである。

教訓#17

 この話は2005年10月、『ラヴニカ』ブロックのときのことである。2つ目の多色ブロックを作りたかったが、それが5年前に鳴り物入りで発売された最初の多色ブロックである『インベイジョン』の単なる繰り返しには見えないようにすることが重要だった。多色にふさわしい、その一方で『インベイジョン』とは方向性が全く異なるテーマを見つけなければならなかったのだ。

 まず最初に、『インベイジョン』のテーマが何だったかを探ったところ、「可能な限り多くの色をプレイする」だった。最初の多色ブロックには、当時までプレイヤーがほとんどプレイしていなかった4色や5色のデッキをプレイするように様々な後押しがあったのだ。それなら、その真逆の方向に向くとしたらどうなるだろうか。可能な限り多くの色をプレイするのではなく、可能な限り少ない色をプレイするとしたら。とは言っても多色ブロックなので、プレイヤーには2色ちょうどをプレイさせるようにするということになる(1色だと単色になってしまう)。

 選択肢を増やすため、このブロックでは10種類の2色ペアすべてを均等に扱い、可能な限りのデザイン空間を使えるようにすることにした。クリエイティブ・チームのブレイディ・ドマーマス/Brady Dummermuthは10種の2色ペアというアイデアを元に、ギルドの理念を作り上げ、そこから都市の世界というアイデアにたどり着いた。私はギルドというアイデアに惚れ込み、そしてギルドを各ギルドがブロック内の3つのセットのうち1つにだけ登場するように4-3-3に分けた。

 ラヴニカが発売され、即座にプレイヤーに気に入られた。プレイヤーはギルドと都市世界に惚れ込んだ。ラヴニカは史上でも最も人気の高い次元の1つ(「の1つ」が必要かどうかは異論がある)になったのだ。そして誰も『インベイジョン』と混同する人はいなかった。このことから得られた教訓が、これである。

教訓#17:すべてを変えるために大きく変える必要はない

 この教訓を例えるなら、冷凍えんどう豆である。私は特に料理が上手いわけではないが、私の妻のローラ/Loraは上手い。彼女が夕飯を作るとき、ほとんどの場合私が野菜を担当する。凍っているので、沸かしたお湯に投入するのが私の仕事だ。いろいろな野菜を扱うが、今回はえんどう豆の話をしよう。最初、沸騰したお湯があって、そこに豆を投入するまでは毎回同じだ。豆を入れて、まだ足りないとなればさらに追加する。まだ足りないのでさらに入れる。そして鍋の豆を見て、充分かどうか不安になり、そしてもうちょっと増やすことにする。もう一回。それが何度も繰り返され、最終的には多すぎる量の豆を作ってしまうのだ。

 多くのゲームデザイナーが、新しいゲームの要素をこの豆のように扱っていると思う。充分だと確信できることはないので、さらに増やしてしまう。そして、最終的には増やしすぎ、問題を起こしてしまうことになる。プレイヤーに過剰な複雑さをもたらし、ゲームのメッセージを濁し、後で使えるはずのリソースを無駄に使ってしまうのだ。

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 そこで、私は少し違う視点からゲームデザインに向き合い始めている。「どれだけ多く追加する必要があるか」ではなく、「どれだけ少なく追加する必要があるか」を考えるのだ。この視点の変更が重要なのは、ゲームデザイナーにとって(芸術家にとってでも良い)の目標は、ゲームから取り除けるものがなくなるまで可能な限りあらゆるものを取り除くことだからである。そうすれば、そのゲームに残るのは必要な要素だけになる。つまり、豆は必要なだけあればいいのだ。

教訓#18

 私は毎週記事を書いている。この記事を今読んでいる諸君は、そのことに気づいていることだろう。テーマに従った文章を書く特集週と、私が書きたいことを書ける無制限週がある。特集週と無制限週、この2つの中で、書くのが難しいのはどちらだろうか。

 答えは、無制限週なのだ。特集週は制約があるので、普通なら掘り下げないような選択肢を掘り下げることになる。例えば、私がこれまで書いた中でもお気に入りの1本が、トピカル・ジュースの1本目「To Err Is Human(失敗するのが人間だ)」である。トピカル・ジュースとは、読者からマジック関連の題材とマジックに関係ない題材を募集し、それを絡めて1本の記事に仕上げるというものだ。「To Err Is Human」では、マジック関連の題材はデザイン上で自分が犯した最大の失敗10個で、マジックに関係ない題材は女性についてだった(読んだことのない諸君は、こちらへ(リンク先は英語))。この記事は自分では決して書かなかっただろう。新しい領域に自分を押しやったことで初めて、この独特なものを作ることができたのだ。

 このことから、次の疑問が生まれる。テーマのあるセットとないセット、どちらがデザインするのが難しいのか、である。答えは上と同じく、テーマのないセットである。テーマのあるセットでは、それまで掘り下げたことのない新しい方向に推されることになる。一方、テーマがないセットでは同じようなところ、既に扱ったところを何度も使うことになるのだ。このことから、この教訓が得られる。

教訓#18:制限は創造の母

 この20の教訓の中で、これはもっとも頼りにしているものである。実際、「Making Magic」を長い間読んでいる諸君は私がこう言っているところを何度も見ているはずだ。この教訓は、創造性に関する神話に通じている。多くの人々は、選択肢が多ければ多いほど人は創造的になれるものだと信じている。しかし、これは脳の働きと矛盾している、ただの神話なのだ。脳は素晴らしい器官で、非常に賢い。問題を解決する必要がある場合、脳はまず記憶を探り、その問題を既に解決したことがあるかどうかを調べる。解決したことがあれば、脳はその問題をまったく同じ方法で解決しようとするのだ。

 ほとんどの場合、これは効率的である。何かをするたびに同じことを学び直す必要がなくなる。しかし、クリエイティブな場合にはそれが問題になる。同じニューラル回路を使ったのでは、同じ答えしか得られない。クリエイティブ的には、それは目指すところではない。そこで、私が得た方法が、脳を新しいところに向かわせるために、それまで始点にしたことがないところを始点にするというものだ。これが、私がセットごとに新しい始点から始めるようにしている理由である。そうすることで、違う方法で考え、新しい問題を作り出すことになり、新しいアイデアや解決策が生み出されることになる。つまり、制限は障害ではなく有用な道具なのだ。制限を使うことで、より創造的になることができるのである。

教訓#19

 私の数多くの仕事の1つが、マジックのスポークパーソンとなることである。私は様々なメディアと関わっており、その中にはソーシャルメディアも含まれる。私は様々なプラットフォーム(Twitter, Tumblr, Google+, Instagram)で活動しており、8万人以上のフォロワーがいる。中でも一番活発なのがTumblrの私のブログ、Blogatogだ。4年にわたって活動しており、6万以上の質問に答えている。多くのやり取りを経て得た教訓がこれである。

教訓#19:受け手は問題を見つけるのは上手いが解決するのは下手である

 この教訓は医師の問診に例えられる。医師が必ず最初にすることは、患者に気分を尋ねることだ。それは、自分のことを一番よく知っているのは自分だからである。自分の気分を自分以上に知っている人などいないのだ。しかし、医師は患者が抱えている問題を解決する方法を患者に尋ねることは多くない。それは、医師のほうが詳しいからである。これと同じことがゲームデザインにも言えるのだ。

 プレイヤーは、自分がそのゲームに対してどう感じているかを作者よりもよく知っている。何か問題があれば、それを伝えてくることは簡単だし、彼らは問題を見つけることには本当に秀でている。しかし、問題を解決することについてはそうではない。彼らは課せられている制限や、満たすべき条件を知らない。彼らは彼らの視点からゲームを見ているが、作者はすべてのプレイヤーの視点を理解する必要があるのだ。つまり、ゲームの問題点を見つけるためのリソースとして受け手を使うべきだが、彼らが解決策を提示してきてもそれは話半分に捉える必要があるのだ。

教訓#20

 この話のために、すべての教訓を表示しよう。

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 これを見ると、1つ重要なことに気がついた。これらの教訓は、独立したものではない。教訓の1つについて考えていくと、他の教訓について考えることに繋がっていくのだ。プレイヤーに所有した気分を与えることが人間の本性を扱うことでないわけはないし、プレイヤーに挑むことを忌避しないことは惚れ込ませる可能性を高めることになる。細部はプレイヤーの掘り下げるべき新たな要素だ。「興味深い」と「面白い」を混同しないようにすれば面白い部分が勝利のための正しい戦略になる。見れば見るほどに、つながりが現れるのだ。

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 このことから得られたのが、この最後の教訓である。

教訓#20:すべての教訓はつながっている

 それぞれの教訓を調べていくうちに、それらはお互いにつながって存在しているとわかってきた。そして、私はそれらが別々の教訓などではなく1つの大きな教訓群なのだと気がついたのだった。このスピーチのタイトルを「20の年、1つの非常に複雑で繋がりあったゲームデザインの総合的観点」に改めようかと考えたが、それはあまり魅力的でないと判断した。

 そして、最後の教訓がある。

最後の教訓:私が学んだあらゆることは、すべてつながっている

作り続けて20年

 この記事にまとめ直したスピーチを楽しんでもらえたなら幸いである。その1で言ったとおり、このスピーチはYouTube(リンク先は英語)で見ることができるので興味がある諸君は見てくれたまえ。このスピーチの反響はかなりのものだったが、諸君からのフィードバックも楽しみにしている。どう思ったか、メール、各ソーシャルメディア(TwitterTumblrGoogle+Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。

 それではまた次回、『異界月』のプレビューが始まる日にお会いしよう。

 その日まで、私の20の教訓があなた自身が新たな教訓を得る助けになりますように。

(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)