ヴォーソスとメル(メルヴィン)
ヴォーソス特集へようこそ! 今回はマジックのフレイバーのファンについて語ろう。2007年のこと、私はヴォーソスとその仲間であるメルヴィン(略してメル)についての記事「メルヴィンとヴォーソス(リンク先は英語)」を書いた。今日の記事は、この8年間にヴォーソスやメルについて考えたことや当時書いていなかったことを織り込んだ、その最新版となる。
本論に入る前に、メルヴィンの名前について少し触れておきたい。最近、プレイヤーの心理学的分類(ティミー、ジョニー、スパイク)がどれも男性名であって、女性も含む表現としてはふさわしくないと気がついた。もう一度命名するなら、中性的な名前を選んだことだろう。既にプレイヤーになじみすぎてしまっているので、今から変えるわけにはいかない。そこで、「ジョン・ドー」に「ジェーン・ドー」があるように、対となる女性名をつけ、どちらの性でも心理学的分類が使えるようにした。ティミーにはタミー、ジョニーにはジェニー。スパイクはもとよりあだ名であり、私がこれまでに出会った「スパイク」というあだ名の人物は4人中3人が女性だったのでそのままでいいと判断した。それから発展してヴォーソスとメルヴィンだ。ヴォーソスは作った単語であり、文化的な性は存在しないのでそのままに。メルヴィンだが、単に「メル」に省略するだけでメルヴィンとメラニーの両方のあだ名となる。そもそもメルヴィンという呼び名自体が他の呼び名よりも使われていないので、単に「メル」に省略することにした。
心理学的分類で行こう
話したいことはいくつもあるが、まずは最も論争の種になる話から始めよう。多くの人がヴォーソスやメルのことを心理学的分類の4つめと5つめだと考えている。問題はそこにあって、実は心理学的分類ではないのだ。なぜ違うのか、そして実際は何なのかについて、少し時間を取って説明させてもらうことにしよう。
心理学的分類の要点は、人々が楽しむ理由となっている動機を心理学的に理解するということである。「何を」楽しんでいるのか、ではなく、「なぜ」楽しんでいるのかという理由を理解するためのものなのだ。私がデザインについて語るとき、「何を」楽しんでいるかに焦点を当てているのも混乱を招いている原因だろう。私は、カードがどのようにティミーに、あるいはジョニーにアピールするのかという話をしたり、「スパイク向けカード」とか「ティミー向けカード」とかを作ることについての話をしたりする。「何を」にばかり注目しているように見えるのは、理解できるようにするためなのだ。そうしたことで、心理学的分類が本当に示しているものから焦点を逸らしてしまっていたかもしれないと思う。
《大建築家》 アート:Steve Belledin
ティミーがなぜマジックをプレイしたいのか? 何かを経験したいからに他ならない。彼らは感情の、あるいはアドレナリンのほとばしりを求めているのだ。ティミーがそれを経験するための手段の1つが、大型のクリーチャーや呪文なのだ。強大なものを唱えたり、それがゲームに大きな影響をもたらすのを見たりするのは爽快なものだ。また他のティミーにとっては、対人のやりとりがそういうほとばしりを得られるものだ。プレイを通して友人とやりとりするのは本当に楽しい。また、別のティミーは、効果の幅が大きいカードが好きだ。そこには驚きがあるからである。ティミーにとって「何を」というのは統一されていない。ティミーをティミーとして定義しているのは「なぜ」のほうなのである。
ジョニーについても同じことが言える。彼らはマジックを自己表現のために使っている。創造的なデッキ作成を楽しむ者もいれば、コンボを楽しむ者もいる。またあるいは他の誰もやらないような方法でカードを使うことを楽しむ者もいるのだ。ジョニー用カードに共通しているのは、同様に、それらのカードが心理学的にその需要を満たすためにどのように使えるのか、である。他には共通点は存在しない。
スパイクは自分の力を証明したい。マジックは彼らの可能性を示すための場である。その表れは最高の勝率であったり、その作ったデッキが多くの人にプレイされることであったり、自分に課した目標を常に達成し続けることだったりする。やはり、スパイク用カードの共通点も、「それが何なのか」ではなく、「それがなぜスパイク・プレイヤーを満足させるのか」という一点である。
一方、ヴォーソスとメルは、「何」が重要になる。この2つの分類の発祥は心理学的なものではなく、美学的なものだ。これらの分類では、プレイヤーがマジックの要素をどう受け取っているかに焦点を当てている。この2つの違いは何か? 美学は心理学的なものではないのか?
これを説明するのに一番いいのはたとえ話だろう。美術館を想像してほしい。美術館の運営者が、来館者の心理学的分類をしたいと思った。そうなると、人々がなぜ美術館に来るのかを把握することになる。心理学的に、人々はなぜ得をするのか? 現実逃避? 創造的刺激? 何かの動機? なぜ来館者は美術館に来ているのか? ここで、もう1系統の分析として来館者の美学を把握することになる。現代美術が好きなのか? 明るい色のほうが好きなのか? 力強い筆致が好きなのか? 何が彼らにその絵画を鑑賞させているのか?
理解するにはどちらも重要である。前者を理解することで人々を美術館に集め、そして美術館での体験を楽しませる方法を見つけることができる。後者を理解することで、人々が欲しがる芸術を推定することができる。ここには重なり合う部分が存在する。ある種の芸術は、ある種の心理学的欲求を補強する助けになりうるが、それでも「なぜ」と「何」の間には違いがあるのだ。
さて、マジックの話に戻ろう。ヴォーソスがヴォーソスであること(あるいはメルがメルであること)には共通した理由は存在しない。この区分けは、彼らが何を評価しているのかを示している。フレイバーを全て把握することが楽しいからフレイバーに興奮しているのなら、ティミー・ヴォーソスだろう。物語を使って、たとえば伝説のクリーチャーばかりの天使デッキを作るなどして自分自身を表現することが好きなら、ジョニー・ヴォーソス。物語に関する全てのことの権威になりたいというなら、スパイク・ヴォーソスということになる。これらはそれぞれ一例に過ぎない。ヴォーソスやメルと心理学的分類の組み合わせには様々な形があるのだ。
ヴォーソスとメルが心理学的分類でないなら、一体何なのか。彼らがマジックのどこに美しさを見出しているかというところから、私はこれらを美学的分類と呼んでいる。
美とは何か
ここで美について軽く触れておきたい。メリアム=ウェブスターの定義によると、美とは「人あるいは物の中にある質または質の集合で、感覚に快楽をもたらす、あるいは精神を心地よく高揚させるもの」である。言い換えると、美は強烈な興奮をもたらし、人を立ち止まらせ思案させ、ほとんどの場合ポジティブな形で反応させるものである。
各人がマジックのゲームに何を求めているかをうまく扱うため、私はプレイヤーの心理学的分類に何年も費やしてきた。これが重要なのは、マジックをプレイヤーにとって楽しめるものにするのは私の仕事だからである。そのため、私はプレイヤーがなぜ楽しんでいるのかを理解する必要があった。そして、そのための方法として、プレイヤーが求めるものを心理学的に分析して理解する必要があった。こうして、プレイヤーの心理学的分類が作られることになり、それは開発部にとっての重要な道具となったのだ。
この話をしたのは、美学的分類もまた非常に有用だと証明されているが、それを理解して活用するには時間がかかったからである。ヴォーソスは最初、2005年にマット・カヴォッタ/Matt Cavottaが書いたフレイバーを扱う記事(リンク先は英語)のなかで定義された。10年前のことである。当時、私は心理学的分類を主にゲームプレイのために使っていた。マットは、そこで扱われていないフレイバー的側面を楽しんでいるプレイヤーも多くいると感じていた。こうして、ヴォーソスが定義されたのだ(後に、私も心理学的分類がマジックの他の側面とどう関連するのかについて時間を費やして説明している(リンク先は英語))。そして、後に、当時の私の考えでは美学的にヴォーソスの対照となるメルを定義した(これについてはこれから掘り下げる)。つまり、私は、最初はヴォーソスとメルが心理学的分類でない理由に注目して時間を費やしたが、それが何なのかを理解するのには時間がかかったのだ。そして、それらが意味するものを理解することがマジックを作る上でどう役に立つかを理解するにもまた時間がかかったわけである。
《森の報奨》 アート:Chris Rahn
これまでにもしばしばマジックをアートだと捉えているという話をしてきた。クリエイティブの努力で、商品にとどまるものではなくなっているのだ。我々は、経験して高い評価を得られるものを作っているのである。言い換えると、私は、我々が何か美しいものを作ろうとしていると感じたいのだ。心理学的分類はプレイヤーがなぜマジックを楽しんでいるのかを掘り下げるもので、美学的分類はプレイヤーがなぜ美しいと感じるのかを掘り下げるものだ。ヴォーソスとメルは、ただ別々のベクトルで見ているだけなのだ。
このことから、以前このテーマで記事を書いたとき以来の最大の気付きに繋がった。当時は、私はヴォーソスとメルは一本の直線の両端だと言っていた。今はそうは考えていない。ヴォーソスとメルはそれぞれ異なった美学的基準で見ていて、それぞれを突き詰めた先にいる存在であり、ヴォーソスの対極とメルの対極にはそれぞれ異なった、ヴォーソスやメルが惹かれるようなものに興味を示さない人がいるのだ。しかし、そういった興味のない人に特別な名前をつけようとは思わない(名前をつけたほうがいい場合、単に反ヴォーソス、反メルとだけ呼ぼう)。
それでは、ヴォーソスとメルがいったい何に美を見出すのか、これから見ていくことにしよう、
ヴォーソス
私はしばしば、デザインするときの始点として2つの視点があるという話をしてきた。1つはフレイバーで、もう1つはメカニズムである。フレイバーから始めることをトップダウン・デザイン、メカニズムから始めることをボトムアップと呼んでいる。ヴォーソスはフレイバーを意識するというヴォーソス基準を突き詰めた側である。マジックのカードには、そのカードがテーマ的に表しているものについての情報を含むさまざまな要素がある。単なる「3点のダメージを与える赤のカード」ではなく、稲妻を表したカードなのだ。
カード名、イラスト、カードの構想、(あるなら)サブタイプ、フレイバー・テキスト、それらそれぞれがそのカードの表すものが何であるかを示す助けとなっている。ヴォーソスはそれらの要素のそれぞれ、そして全体に基づいてカードを評価するのだ。加えて、ヴォーソスはマジックのメカニズム的要素(ルール・テキストやマナ・コスト、パワー、タフネス)を考慮する。これはこれらの要素も全体としてのフレイバーを伝える上で意味を持っているからである。
ヴォーソスにとって、美はフレイバー描写を通して描かれるものだ。彼らはカード、サイクル、メカニズム、セット、ブロック、あるいはカードの一部を見て、そしてそれらがクリエイティブ的感覚をどれほど再現しているかを理解できるのだ。『マジック・オリジン』からその一例を見てみよう。
《大オーロラ》は、ローウィン次元に定期的に訪れ、シャドウムーアに変える大変化を表している。ニッサのオリジン・ストーリーで重要な意味を持つだけでなく、『ローウィン=シャドウムーア』ブロックの物語での一大要素であった。メカニズム的には、このカードは少しばかり不確かなものであり、このカードの要素はカラー・パイの上で緑よりも赤に多く見かけられるものである。しかし、一歩引いてこのカードが表している全体を見ると、本質的に緑そのものである大オーロラを見事に再現しているのだ。
ヴォーソスであればフレイバーの全ての面に興味があるというわけではない。イラストに注目する人もいれば物語に注目する人も、あるいはカードの要素がどのように繋がっているのかに注目する人もいる。ヴォーソスに共通しているのは、フレイバーの文脈に美を見出しているということだけである。
メル
それと対照的に、メルはメカニズム的要素の中に美を見出している。メルは、カラー・パイ、マナのシステム、ルール、テンプレート、セットのメカニズム的需要まで様々な要素が組み合わさってマジックのカードが組織的に機能していることを評価するのだ。マジックのカードをデザインしデベロップすることはある意味芸術であり、メルはその観点で魅了されているのだ。
ヴォーソスがクリエイティブの背後にある技術に注目する一方、メルはデザインの技術に注目する。これまで「Making Magic」を13年間書いてきて、マジックのデザインの様々な側面について語ってきた。メルは、カードがメカニズム的にどう組み上げられているのかを理解し、様々な変化点や要素を含む非常に複雑なシステムを追うことを楽しむ人々なのだ。彼らにとって、カードがゲーム上の必要を満たしながらマジックのデザインの原理原則に従っているありかたにこそ、カードの美しさが存在するのだ。
『マジック・オリジン』から例を見てみよう。
《搭載歩行機械》はフレイバー的に芳醇とは言えない。アーティファクト・クリーチャーで、なんとなく飛行機械からなっている。クリエイティブ的には飛び抜けて魅力的というわけではない。このカードを印象的なものにしているのは、デザインのあらゆる要素が組み合わさってゲームプレイ的に輝くクリーチャーにしているあり方である。そして、それと同時に、史上初のマナ・コストが{X}{X}のアーティファクト・クリーチャーでもあるのだ。
ヴォーソス同様、メルもまたそれぞれ異なったメカニズム的要素に注目するものである。カラー・パイがどう適用されているかに注目するものもいれば、カードを作り上げているテンプレートを評価するものもいれば、ゲームプレイの複雑さを評価するものもいる。メルとヴォーソスの違いは、その注目点がそのカードが表すものが何なのかではなく、そのカードがどう組み合わさってできているのかだということである。
ヴォーソスとメル
最初にヴォーソスとメルについて考えたとき、私はそれらを対立概念と考えていた。ヴォーソスは感情的反応寄り、メルは理知的反応寄りだと思っていたのだ。デザイン上、フレイバーとメカニズムはしばしば対立していた。どちらかを優先するためにもう一方を犠牲にする必要があるということはよくあるのだ。ゲームプレイ的な視点からはさらにそうだ。たとえば、装備品であればどんなクリーチャーにでもつけられる、となると、ウーズが剣を持ったりツリーフォークが靴を履いたりすることになる。逆に、フレイバーを輝かせるため、《大オーロラ》でやったようにカラー・パイを曲げる必要があることもある。
そんなある日、私はこのカードを見ながら考えていた。
このカードはフレイバー的に芳醇だ。ギリシャ神話に語られている、伝説的吟遊詩人のオルフェウス、そして悲劇的に死んだ彼の妻のエウリュディケーを死の国から救い出そうとしたその試みに着想を得たカードである。このカードはクリーチャーを墓地に送り、そしてターンの終了時にもう1体のクリーチャーとともに戻ってこさせる。ルール・テキストはその物語を再現したものだ。メカニズム的にも、このカードは非常に気が利いているもので、黒に婉曲な明滅効果を与えている。完全に黒の要素だけを組み合わせて、デッキの軸になるようなメカニズム的に独特なことをしているのだ。
《死の国からの救出》は間違いなくヴォーソス向けカードだが、一方でメル向けカードでもある。ヴォーソスとメルが同じ軸の両端だとしたら、これはどういうことだろうか?
もう1枚、『マジック・オリジン』から素晴らしい例を見てみよう。
なぜこのカードがクールなのかを理解するには、このもう1枚のカードを見る必要がある。
《カラデシュの火、チャンドラ》は、チャンドラ・プレインズウォーカー・両面カードの第1面である。このカードは灯が点る前、カラデシュに住んでいたころのチャンドラを表している。《チャンドラの灯の目覚め》は、彼女がカラデシュで罪に問われ処刑されそうになる瞬間を描いたものだ。処刑場で、チャンドラが感情に圧倒され、彼女がそれまで生み出した中で最大の炎を放ったのだ。これが彼女の灯を点し、レガーサへとプレインズウォークさせ、そして彼女がプレインズウォーカーであると発見せしめることになる。
《チャンドラの灯の目覚め》は、《カラデシュの火、チャンドラ》を変身させる条件を満たせるようにデザインされている。この、チャンドラの灯が点った瞬間を描いた呪文で、メカニズム的にプレインズウォーカーに変身させる条件を誘発させるのだ。フレイバー的にもメカニズム的にも、これはホームランだと言える。つまり、これもヴォーソスとメルの両方に魅力的なカードなのだ。
《死の国からの救出》や《チャンドラの灯の目覚め》といったカードを見て、私は、ヴォーソスとメルはそれぞれ別の評価軸を持っているのだと認識させられた。ヴォーソスかメルかの二者択一ではなく、ヴォーソスか反ヴォーソスか、メルか反メルか(それぞれの中間であることのほうが多いだろう)という2つの軸があるのだ。
この2つの美学的分類は、プレイヤーがマジックの美しさをどう見つけるかを表している。「ヴォーソス」あるいは「メル」という区分は、どこに美を見出すかの評価軸においてかなり重視しているというだけの意味なのだ。ヴォーソスでもメルでもある人もいるし、ヴォーソスであったりメルであったりすることと心理学的分類には直接の関係はない。心理学的分類は美学的評価軸と並立して存在できるものだからである。
《欠片の双子》 アート:Goran Josic
ビホルダーの目
それでは、ヴォーソスやメルといった区分は何の役に立つのだろうか? その答えは2つある。1つめが、プレイヤーにとって、自分がマジックの美しさをどこに見出しているのかを理解するのに有用である。自分が何をしているのかを理解することによって自分がさらに楽しくなる方向に進むことができるようになるので、ときおり内省することは有意義なのだ。区分することで、プレイヤーは自己分析が可能になる。また、これはマジックを作っている我々にとっても有意義である。それぞれのカードが魅力的な理由を知ることは、そのユーザーに向けて効果を最大にしようとするときに非常に役に立つのだ。たとえば、特にヴォーソス向けのカードを作るなら、フレイバーを活かすためにゲームプレイはいくらか犠牲にしたいこともあるし、メル向けカードならその逆となる。
これらのことは心理学的分類においても同じことが言える。言語化によって議論と気付きを生み出せると信じているので、私は、長い時間をかけて、マジックの様々な要素を理解し区分してきた。区分することによって理解できるようになり、概念に名前をつけることによって議論が可能になるからこそ、区分には大きな意味があるのだ。
この話題について語るべきことは以上だ。いつもの通り、この内容についての諸君の意見を聞きたいと思う。ヴォーソスやメルについてどう思っただろうか? まだ触れていない一面はあるだろうか? この区分を使う、また別の方法はあるだろうか? メール、各ソーシャルメディア(Twitter、Tumblr、Google+、Instagram)で(英語で)聞かせてくれたまえ。
それではまた次回、『戦乱のゼンディカー』のプレビューを始める日にお会いしよう。
その日まで、あなたのそばに広がる世界を見て、その美しさを見つけるありかたがあなたとともにありますように。
(Tr. YONEMURA "Pao" Kaoru)