万端の準備

更新日 Magic Story on 2013年 6月 7日

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「公正な戦いなんてものはない」

 30時間ぶっ通しで作業を続け、工匠は疲れきっていた。それでも彼女の、一つの研究課題での最長作業時間どころかその半分にも及んでいなかったが、それらの計画は芸才と愛と、霊感によって突き動かされていた。喜びの仕事だった。そういった仕事の間は喜びが魂を満たしていた。一方この作業には喜びは無く、様々に大きさの異なる何十もの時計が全てチクタクと、彼女へと執行の時を刻んでいた。

 彼女にこのような呪文を唱える力はなかったので、小細工が必要だった。まず、増幅の魔法円。直径は五フィート、真新しい黒色大理石に銀線が刻まれている。外周には六百以上の異なる魔法文字と、より小さい魔法文字の円が七つ完璧に同心円をなし、正確な時間、場所、魔力位相に、細部までそれが対象とする相手へと定められていた。完璧でなければならなかった。それが作動したなら、彼女の昔の師匠さえ躊躇したであろう魔法の妙技を解き放てるかもしれない。さもなければ呪文はありとあらゆる形での華々しい失敗のいずれかを迎えるだろう。だからといって止めるわけにはいかなかった。


 昆虫を模した小さな構築物が彼女へと新たなたがね、銀の象眼の真新しい板、そして一杯の冷水を運んできた。彼女はぼろ布を掴むと両手と額を拭い、目にかかった赤褐色の髪の一束をはらった。独房へと戻るまであと七時間、完成には程遠かった。


 工匠は呪文円をじっと、眼を細めて見つめた。微細な作業と睡眠不足から目は乾き、熱を持っていた。彼女には何の欠陥も無いように見えたが、二度確認をするに値した。そして三度。彼女は満足して頷くと、作業台へと戻った。

 内部に色の光が渦巻く、小さな水晶球がそこにあった。彼女は深呼吸をして、それを実に注意深く手に取った。一歩一歩慎重な足取りで、彼女はそれを呪文円へと持ち込むと、とても、とてもゆっくりと設置した。手を放すと「カチリ」小さく鳴る音がして、彼女はひるんだ......そしてしばしの後、ゆっくりと息を吐いた。彼女はその球から離れ、もう一度額をぬぐった。茶目っ気のある笑みを浮かべ、彼女は机から紙を一枚取り上げて短い文を手早く書き、それを球の隣に置くと二歩下がった。ここからが難しい所だ。



 これほど多くの魔力を呼び起こすのは痛みを伴う。部屋は超自然的な青い光に満たされていた――その工匠は自身の身長ほどもある、不透明なドームを魔力で作り出すと、それは呪文円を完璧に覆った。彼女の表情は苦痛に歪んだ。奮闘に歯を食いしばりながら、完璧な障壁を創造すべく全てをかけた。この魔法の拘束物にはいかなる近道もなかった。彼女はただ精神と心と魂の全てをそのドームへと注いだ、完全に何も残らなくなるまで。止めたかった。止める必要があった。だが何十年もの精力的な仕事を通して鍛えられた彼女の心のどこかは、何か別のことを知っていた――彼女は知っていた、もう何秒か呪文を保持し続ける必要があると。何時間にも感じられる数秒が、まるで日々のようにゆっくりと過ぎる。彼女は叫んでいたが、自分の声は耳に届かなかった。

 その呪文は爆発とともに終わった。彼女は部屋の反対側まで吹き飛ばされ、散らかった作業台を飛び越えて本棚へと激突した。無数の機械仕掛けと完成途中の製作物が破壊され、何十ものビーカーが割れ、紙の束が宙に舞った。呪文円とその中の全てが、その試みによって完全に消滅していた。


 紙片がはためきながら床へと落ちてゆく中、部屋は若い女性が仰向けに寝転がり、声の限りに痛がり、笑う声で満たされた。


 工匠は旅の仲間の一人に揺り起こされた――一週間前、彼女とともに捕まった商人に。彼女とは違い、その商人は自身を安全な場所まで運べるという幸運を持っていなかった。そのため、蛮族が彼女と同行者達を狂った夏至の儀式にて殺害しようと計画していることを知ると、彼女は、瞬間移動して仲間達をその運命に置き去りにしていくことを一瞬考えた。一瞬。だがその後、儀式の一部として、勇者対勇者として戦うことが可能だとわかった。それは面白そうに聞こえた、そして哀れな人々を死へと見捨てる必要はなくなった。

 儀礼の化粧を施され、毛皮をまとった男の腕は工匠の腰ほどもの太さがあった。彼は独房の柵越しに彼女を睨みつけた。魔道士であると知られてはいたが、彼女は「監禁」と想定される期間の間、注意を引くような呪文は何も唱えないようにしていた。彼女は夜間、まったく自由に独房と実験室とを行き来していた。だが蛮族の者達が気づいていたとしても、そんな様子には見えなかった。

 その男は唸ると檻の扉を開け、ついて来るように工匠を促した。宿営地では疑いもなく、祝祭の準備がなされていた。粗野な天幕は全て飾り紐や装飾品を付けられ、競技のために柵が円形に組み立てられていた。これら全てが、太陽神へと捧げる残忍な生贄へと続く残虐な戦いの儀式のためのものだと知らなかったなら、その飾り立てられた様子はとても楽しそうだと彼女は思っただろう。太陽は完璧に澄んだ空に眩しく輝いていた。これほどの好天を彼女は知らなかった。彼女はリング端の小さな囲いへと誘導された。護衛は唸り、待つように促した。彼女はそうした。

 部族の者達が戦いのリング周囲に集まり始めた。そして蛮族のチャンピオンは既に部族の呪術士と弟子達によって準備をされている所だった。戦場の反対側からでも、工匠は彼らが持つ計り知れない力を感じることができた。学院で学ぼうと悪臭を放つ泥の小屋で学ぼうと、力は力。学院では、力を本へと閉じこんだだけでそれを独占できたと考える者が実に多い。そのような考え方を後悔する者は、実に少ない。

 集まった群衆は彼らのチャンピオンの名を詠唱し始めた。その人生の全盛期にあるであろう、若い戦士――背は高く筋骨隆々、身体に傷はない。深い黒色の髪をゆるく編み込んで背中に垂らしていた。


「グレル! グレル! グレル! グレル!」

 呪術士達は儀式を終え、静まるよう手を挙げた。部族の者達が完全に黙りこむその速さは、どこか不安になるほどだった。工匠の耳にその呪術士の声は何か他の、偽伝道師のように聞こえた――低く響く、強迫的な語調を含む声が群衆を統制していた。

「聞くがよい! 我ら熱くたぎる光の子らよ、我ら、夏の平原の子らよ! 我らは最強たるこの日に、長き陽の日に感謝を捧げよう、我らの頭上に燃ゆる存在が、最強となるこの時に!」

 群衆から咆哮が一斉に上がり、そして素早く静まった。

「彼の者のため、我らの力を捧げよう! 彼の者のため、我らの献身を捧げよう! 彼の者のため、敵の血を捧げよう!」

 再び咆哮が群衆から上がった。

「我らのチャンピオンに、太陽の祝福をすべて与えん! 我らのチャンピオンに、我らの力をすべて与えん!」

 これに応じて男性が二人、リングへと上がった。一人は小型の木の幹と思しきものを、もう一人は金属製の手桶を持っていた。

「この日、我らの力はあらゆる攻撃にも屈しぬ!」 男が木の幹を棍棒のように振るうと、それはグレルに直撃して粉々に砕けた。群衆は咆哮を上げた。

「この日、我らの意志はあらゆる炎にも屈しぬ!」 桶を持った男がその中身を――油を――グレルへと放ると、炎が上がった。グレルは立っていた、炎に巻かれながら、無傷で。群衆は息を飲み、そして畏敬を示して叫んだ。

「部族の子らよ、最も長き陽の光がおぬしらの肌を照らす間、おぬしは無敵となる!」

 工匠は身を固くした。彼女はこの全てに準備をしてきた。虜囚達へと何か計画されているかを理解すると、彼女はすぐに全てを調査した。用心していたとはいえ、いざ頑強な敵に相対すると、さすがに平静ではいられなかった。呪術士はその目を彼女へと向けた。

「そこの者、他所からの挑戦者よ? おぬしはその部族の偉大な戦士だと聞いておるが?」

 群衆に含み笑いが広がった。

「闘えます」 彼女は言った。

「そして偉大な魔術師であると! おぬしの仲間が言っておった! チャンピオン、おぬしは偉大な魔術師か?」

「偉大には遠く及びません」 彼女の声にはどこか悲しみの気配があった。

「そしておぬしは望んで、おぬしの庇護下にある他所者達の運命を受け入れると? おぬしの運命は彼らのものであると?」

「早く済ませましょう」

 彼女の前には多様な武器が、その中から選ぶよう並べられていた。彼女は小型の短剣を棚から手に取り、リングの中央へと歩み出た。グレルは一対の小型の石斧を手にしていた。太鼓が鳴らされ始め、群衆の咆哮がそれに続いた。

 グレルは躁的な笑みを浮かべていた。彼へとどれほどの魔力が流れ込んでいるのか工匠には想像もつかなかったが、それは大量だった。そして彼が上機嫌だということが勝算だった。熟達の身ぶりで彼女は炎の矢を二本、彼に向けて放つと、それは彼の胸で散り、残り火が流れ落ちた。無論、彼は無傷だった。グレルは群衆へと喜び勇んで腕を掲げた。工匠は歯をきしませた。

 短剣を逆手に持ち、彼女はグレルへと迫った。顔面に向かって短剣を振るうと、グレルは飛びのいた。彼女は自分を傷つけることなどできないとわかっていても、刃の軌跡を避ける本能は残っていた。 彼は飛びかかり、慎重に、強い力で石斧を振るった。だが工匠は巧みに転がって回避した。

 土埃の中を転がりながら、彼女はベルトの小さな物体を手にした。そしてグレルが再び迫る中、彼女はそれを彼へと放り投げた――蟻のような形状をした小さな構築物、その腹部には輝く青色の液体が溜められている。それは動き出すと、グレルに気付かれぬまま彼の腰巻に取り付き、工匠が次に唱える呪文の錨となった。


 彼女はどうにかグレルの次の攻撃をしゃがんで避けたが、分厚い上腕の返しの一撃が胸に当たり、その衝撃で彼女は宙に舞った。したたかに地面に叩きつけられ、彼女は片膝をついて立ち上がろうとした。グレルは再び勝ち誇って両腕を掲げ、予定通りにとどめの一撃をもたらす前に群衆から賛辞を得た。その時工匠は、彼女が準備してきた魔法全てを解き放つための、力ある言葉を囁いた。

「どうなるか見てごらんなさい」

 小さな爆発音があって、グレルは視界から消え失せた。


 グレルは瞬きをした。空気は冷たく、変な味がした。彼は自身が不透明の魔法のドーム内に捕らわれていることに気が付いた、秘術の力が青く渦巻きながら輝いていた。床には小さな輝く球体と短い文が手書きされた紙があった。彼は障壁へと拳を打ちつけたが、それは音もなく彼の一撃を吸収した。輝く球は明るさを増し、内部の橙色の光はいよいよもって......不安定になっているように見えた。それは激しい調子で音を発し、震えだした。半狂乱で彼はメモを見た。

夏至は明日。私の勝ち。

――ジョイラ

《ギトゥのジョイラ》 アート:Kev Walker


(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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