ドミナリアへの帰還 第7話
夜明けの中に映るザルファーを見るために、テフェリーはまだ暗いうちに浜辺へと出た。そこにいたのは彼だけではなかった。
曇り空と快晴の中間の適切な天候の日、海岸の適切な場所に立ったなら、ザルファーの海岸線をおぼろげに見ることができる。半透明に輝く塔と丸屋根は、まるで海の上の雲のように浮いていた。
今もフェメレフやジャムーラ各地から多くの人々が巡礼に訪れていた。ある者は「裂け目」の発生によって失われた祖先を奉じるために、ある者は歴史的な興味から。この朝も厳粛かつ沈黙の中に、あるいは波打ち際で子供達を遊ばせつつ賑やかな会話を交わしながら、幾つかの集団が浜辺に立っていた。テフェリーと同じく、独りたたずむ者らの姿もあった。何世紀もが経過して素性を認識される機会は減ったが、彼は距離をとった。彼自身の加齢はゆっくりと進んでいたが、既に定命の敵より長く生きていた。
近くの街セワは、ザルファーの巡礼者相手の商売や宿泊の便宜で年中賑わっていた。とはいえテフェリーは涼しい季節を選んで訪れた。ここ数年、彼は放浪して過ごしてきた。大修復以来、ドミナリアを巡りながらも一箇所に落ち着きたいと感じたことはなかった。宿泊所の料金を払う際、宿屋の主は言った。「大変でしょう、ザルファーの破壊者と同じ名前とは」
ザルファーの破壊者、それはまた新しい呼び方を。テフェリーは溜息とともに思った。説明には慣れたものだった。「古い家名でしてね。誰もひいおばあ様に逆らいたくはなかったんですよ」
主人は同情的に頷き、それは事も無く済んだ。
太陽とともに気温が上がる中、テフェリーは砂丘の間を歩き、海風が青い色のローブをはためかせた。彼は道へ戻ろうとして、砂浜へ向かう多くの巡礼者とすれ違った――子供達と女性二人、そして独り歩く男性――彼らはテフェリーとすれ違う際に、軽い会釈をした。
その道は広い段丘の平原と貯水池に沿って伸び、次第に果樹園や並木が現れ、そして街の外壁に開いた門へ続いていた。市場は活気に溢れ、色鮮やかな天幕下の露店はあらゆる類の飲食物や小物を巡礼者や辺りをひしめく住人らへと売っていた。人々の大多数はフェメレフや北部ジャムーラの浅黒や茶色の肌で、とはいえドミナリア各地から訪れた者らの姿もあった。セワは旅行先としては良い街で、最も古い区画ではモザイク装飾の広場や太い円柱のある家並みが、テフェリーに故郷ザルファーの生家を思い出させた。
プレインズウォーカーの灯を失って以来、何故これほどまでにザルファーが心を占めているのかはわからない。確かに罪悪感はある、だが自分は正しいことを成したのだと信じていた。ザルファーは生き続ける、それを滅ぼす程の争いから隔てられ守られて。だが近年、その考えは次第に、良くても利己的なものだったのではと感じるようになった。当時は正しい決断だったに違いない。今は不確かだった。
それに対して何かできるわけでもない。内心の議論に、彼は弱気に言い聞かせた。自分のプレインズウォーカーの灯をもってシヴの裂け目を修復し、破壊的な災害を防いだ。そして今の彼にザルファーを戻す力はなかった。
高い石壁で囲まれた家が並ぶ迷路のような街路を抜け、彼は瑞々しい庭園へと続く門をくぐった。公共の噴水広場にやってくると、宿泊所近くの低い石壁の上に見知らぬ二人が座っていた。テフェリーは表情と態度を平静に保ったまま歩き続けた。
トレイリア西部の新たな魔道士アカデミー以外で、彼の素性を知る者は少ない。シヴの後、彼は魔法の使用を自粛し、自身の評判を避けるようにジャムーラの街から街へと渡り歩いていた。この街の誰一人として、自分がテフェリーなどとは知るはずがない。ザルファーを奪った時間の魔道士、だが今も自分の死を求める古い敵がいる、そしてあるいは新たな敵も。オタリア大陸の外で陰謀団が力を増しているという噂が流れており、だがいかにして、もしくは何が彼らを復活させたのかは誰も知るよしもなかった。
宿泊所の前庭までやって来ると、扉近くに座っていた二人が立ち上がって目の前に立った。前置きも無しに、女性が告げた。「あなたがテフェリーだと、市場で耳にしました」
「色々噂がありますからね」 テフェリーは言い返した。意思の強そうな風貌と物腰の、とても愛らしい女性だった。長い編み髪はまとめられて後頭部に上げられ、ゆったりとした上下の衣服に、商隊の商人のフード付き外套をまとっていた。腰のベルトには使い込まれた柄の鞭が下がっていた。男性の方は剣を帯びており筋肉質で大柄、戦士らしい革と金属の上着に、縮れた髪を細く束ねて銅の輪で飾っていた。肌の色から、二人はテフェリーが時の裂け目を作り出した際に取り残されたザルファーの家系と思われた。だがそういった者はフェメレフに数多く存在する。必ずしも、彼らが祖先の復讐として自分を殺しにやって来たとは限らない。
その男性は微笑み、もっと愛想のよい声色で言った。「こちらはスビラ、私はクェンデと申します」
反応を待たず、スビラが言った。「マケトという男が尋ねて来ませんでしたか」
テフェリーは表情を礼儀正しく保ち、だが困惑すべきか疑うかを迷った。「申し訳ありません、違うテフェリーではないでしょうか。今日と、今日以外のどの日にもマケトさんという方は来ていないと思います。」
スビラは眉を上げ、明らかに懐疑的だった。「会わなかったと」
それは質問ではなかったが、何にせよ彼は答えた。「会いませんでしたよ」 そして杖に体重を預け、考えた。これが暗殺の前触れだとしたら、少なくとも独特な接触方法だった。「何があったのですか?」
思慮深く彼を見つめ、クェンデが説明した。「マケトが貴方に会いに来たと言っていました、そのために彼はスークアタから旅をしてきたのだそうです」
「マケトさんがそう言っていたとしても、私は何も」 これは全くもって暗殺の試みではない、そうテフェリーは思い始めていた。困惑した旅人が相手を取り違えている、ごく普通のことだと。「何処か他の場所でその人を探した方が良いのではありませんか」
「彼を探す必要はないんです」 スビラが言った。その表情は厳めしく、テフェリーの言葉を信じていないようだった。「死んだのです」
テフェリーは彼女を見つめた。今や興味をそそられ、だが慎重に尋ねた。「それではお二方は何故ここに?」
彼女はクェンデと不明瞭な一瞥を交わし、言った。「私の商隊に何があったのかを把握する必要があるのです。マケトは私達の宿営で殺害されたのです。彼はテフェリーという人に会いに来たと言っていました」
その全てがとても奇妙だった。テフェリーは言った。「誓って、マケト氏のことは存じ上げません」 今すぐ立ち去り、荷物をまとめてセワから離れるべきだと彼はわかっていた。だが好奇心をそそられ、彼は尋ねた。「殺されたとは、どのようにですか?」
クェンデの表情は厳めしかった。「魔法です。もしくは少なくとも、商隊の医師はそう判断しました」
ふむ。「どういった魔法で?」
「わかりません――私達の中に魔道士はいないので」クェンデは不審そうに眉を上げた。「あなたは?」
スビラは今も彼を、隠れ場所から獲物に飛びかからんとする捕食者のように見つめていた。テフェリーはその質問に答えないことにした。「行政官にお話しするべきではないのですか」
その言葉にスビラはしばしの間疑いの視線を向け、そして顔をしかめた。「この街の行政官は、私達が滞在中に起こったあらゆる犯罪を商隊の仕業にしたがっているんです。仲間を困らせたくはありません。犯人を見つけ出して、私の手で法に突き出してやりたいんです」
それはもっともな言い分だった。「すみません、そのマケトという方については本当に何も知らないのです」 そしてもし分別があったなら、テフェリーはそこで終わりにしていただろう。だが分別を持ち合わせた事などなかった、特に謎が関わっている場合は。それにもしそのマケトが本当に自分を探していたとしたら、理由を知りたかった。「何故、魔法で殺されたと医師は考えたのですか?」
クェンデが言った。「殺されて二日が経ちますが、腐敗の兆候が何もないのです」 彼は片手を挙げた。「ええ、彼は今も生きているというのであれば簡単なのですが、息をしておらず石のように冷たいのです」
これは面白いことになってきた。「でしたら、私に見せて頂いても宜しいでしょうか」
スビラは眉を下げた。皮肉を帯びた深い疑念のような感情すら、彼女を美しく見せた。「あなたは魔道士なのですか?」 彼女はそう尋ね、クェンデはテフェリーをじっと見つめた。
それもまた回答したくない質問だった。「学者です。色々と知っています。それに行政官に助けを求めたくないのであれば、他に選択肢はお持ちでないようですし」
スビラは彼を見つめ、だが頷いた。「確かにその通りです。わかりました、来て頂けますか」
テフェリーはスビラとクェンデを追って街の郊外に出た。馬小屋と安宿の並びを過ぎ、外壁の外にはむき出しの岩の地面に商隊の天幕と荷馬車が集まっていた。他にも旅人らが、ほとんどはセワの街中に宿泊する余裕のない貧しい巡礼者の集団が、安全のために商隊の近くに縮こまっていた。断崖が砂漠の厳しい風から街を守っているため、そこも多少は安全であったが、決して長時間を過ごしたい場所ではなかった。歩きながら、テフェリーは尋ねた。「そのマケト氏についてはどれほどご存知なのですか?」
スビラが言った。「あまり多くはありません。彼が私の商隊と旅をするのも初めてのことでした」彼女はクェンデへと頷いた。「クェンデの方がよく知っています」
クェンデは小さくかぶりを振った。「何度か一緒に旅をしただけです、商隊を組んでここに来る前に」
これまでテフェリーは、クェンデとスビラが共に商隊を所有していると推測していた。だがどうやら二人は最近知り合ったらしいと知って安堵の波を感じた。そしてその思いを振り払った。馬鹿なことを。今は恋愛事を期待している場合ではない。あるいはこの先も、人々が自分の存在を忘れてしまうまでは。そしてそれは、死者を見に向かっているという状況ですら陰鬱な考えだった。テフェリーは深く溜息をつき、スビラは彼を不思議そうに見た。
彼女が先導して宿営を抜け、何人かの家畜商人が守る少し離れた天幕へと向かった。「死体はここへ移動させました」
クェンデが続けた。「他の同行者がそうしろと主張したので。彼の死因を怖れてのことです」
「それは賢い判断ですね」 テフェリーが二人へと言った。「犠牲者に触れた者に広がることを意図した死の呪文というのも存在しますから」
驚き、スビラは入口の布を持ったまま止まった。「本当ですか?」
クェンデは肩をすくめてその心配を押しやった。「彼を診た医師は何事もなく戻ってきましたよ」
「ええ、今はまだ」 テフェリーは柔和に言い、身体を屈めて天幕の中へ入った。
死者は絨毯の上に横たえられており、布がかけられていた。テフェリーはそれを取り上げた。
検死をした医師は間違っていたのではとテフェリーは思った。実はその男は生きており、何か奇妙な、だが自然な麻痺状態にあるのだと。ある種の毒には体温を下げ、あらゆる生命活動の兆候を隠すものも存在する。だがその男の眼球と脈拍を確認すると、そういった事例ではなかった。そこには何か別のものがあるのがわかった。「皆さんと医師の判断した通りです。これは自然の死ではありません」
「それで、彼に心当たりはありました?」 スビラが尋ねた。
「いえ、会ったこともありません」 テフェリーは腰を下ろし、思慮深くスビラを見つめた。「何者かがこの哀れなマケト氏に呪文か毒を用いて身体から生命力を奪っただけでなく、腐敗を止めて保存した。時間の魔術の仕業に見せかけるように」 そして彼は立ち上がった。
スビラは目を狭め、クェンデの表情は明らかに緊張した。彼は言った。「そうなのですか?」
「これが時間の魔術であれば、彼は時を止められて動かず、息もしていないように見えます。ですが生きており、身体も温かいはずで、ひとたび解除されれば何もなかったかのように動き出します。同時に、時間の魔術を維持するには集中を必要とします。いつまでも続けられるものではありません」 テフェリーは肩をすくめた。「ですので、もし私が誰かを殺そうと思うなら、間違いなく時間の魔術は使わないでしょう。少なくともこのようには」 彼は微笑んだ。「私の仕業だとお考えなのですよね。だから私を捜しに来たと」
スビラはクェンデを一瞥した。彼は今もテフェリーを見つめ、即座に自らの身を守れるように身構えていた。彼女は言った。「あなたが殺したのですか?」
テフェリーは彼女へと言った。「芽生えたばかりの私達の友情にとっては幸運なことに、私ではありませんよ」 警戒を解き、クェンデは少々力を抜いた。
思いにふけるスビラの凝視からは、彼女がテフェリーの言葉を信じているか否かを探るのは難しかった。「あなたは時間の魔道士だとマケトはクェンデに言っていました。彼がそれを信じていたかどうかはわかりません」
クェンデは頷いた。「私も信じていませんでした。ですがどうやら……」 彼は死体を示した。「……この説明はつくようです」
テフェリーは再びマケトを見下ろし、眉をひそめた。自分の素性を知る何者かが明らかにマケトをこの旅へと送り出した、だが完遂する前にマケトを殺してしまうことに何の意味が? マケトは副次的な被害者なのか、それとも私達両方を狙った策謀が? テフェリーは訝しんだ。「ふむ」
スビラは眉を上げた。「言うことはそれだけなのですか?」
「私はいつも言いたいことだらけで、それは私の欠点の一つです」 テフェリーは彼女へと歯を見せて笑った。「彼が何故私に会おうとしていたのかは聞いていませんか?」
「聞いていません。尋ねもしませんでした」 クェンデが言った。彼は今も懐疑的で、とはいえその態度から、テフェリーは力のある時間の魔道士なのだと信じながらも、マケトの殺害に関してはそうではないと感じさせた。「私には全く関係なく、後になって必要になるとは思いませんでしたので」
テフェリーは理解して頷いた。「彼の持ち物は調べましたか?」
「まだです」 スビラは振り返り、天幕の入口を持ち上げると家畜商人の一人に声をかけた。「アキム、お願い。マケトの鞄を持ってきて」
「取ってこよう。私の天幕にある」 クェンデはそう言いながら出して行った。
「ありがとう」 スビラは彼の背に声をかけた。そして彼女がテフェリーへと向き直ると、二人は沈黙の中で考えこんだ。やがて彼女は言った。「あなたが犯人だと確信していました、ですので証拠を探す必要もないと思っていました、まるで物語の登場人物みたいに」
テフェリーは彼女をからかわずにはいられなかった。「そして、今は私が犯人ではないと?」
スビラの表情は皮肉的だった。「別の説があります、と言ったら?」
「その説とは?」 テフェリーは率直に知りたかった。最初に会った時、スビラはクェンデよりも積極的に疑っているように見えた。だが彼女は明らかに柔軟な思考の持ち主だった。あるいはクェンデも同じく疑っていたが、実際の感情を表に出さないことに長けているのかもしれない。
スビラは腕を組み、彼を値踏みするように見つめた。「このマケトはあなたを殺すために送り込まれた」
テフェリーもほぼ同じ考えだった。何を言うべきか定かでなく、彼は躊躇した。この数年テフェリーはザルファー巡礼の学者を装ってきたが、そんな人物を殺す理由はそう多くない。彼自身が時間の魔道士だとしてもそうだ。スビラは続けた。「あなたは只のテフェリーではなくて、あのテフェリーなんでしょう」
二人はしばしの間目を合わせていた。自分はザルファーの破壊者と対峙しているという考えにも、スビラは怯えているようには見えなかった。だがそれは判別し難かった。テフェリーは息を吐き出し、認めた。「私がそのテフェリーだとしたら……誰かが私を殺したがっているというのは、そう不思議なことではないと言わざるを得ないね」
スビラは眉をひそめた。「でも暗殺者一人だけを? あなたはそれよりもずっと危険な存在だと思います」
テフェリーは明るい笑みを保った。それを恋の駆け引きだと思いたいと同時に、彼女は自身の心を率直に語っているのだともわかっていた。「心配して下さるとは嬉しいですよ」
スビラの表情は真剣だった。「その人を見れば、危険かどうかはわかりますから」
つまり彼女は自分が危険人物だと知っている、だがその表情には侮りも狼狽もなかった。テフェリーは尋ねねばならなかった。「私が何者かを知って、気にしないのですか?」
スビラは肩をすくめた。「私の一族はずっと旅をしてきました。ザルファーが……離れた時にいた者は誰もいませんでした。ザルファーを奪われたというように聞かされて育ちはしませんでした。それに、ファイレクシアの侵略の様子も書物で知りましたし、残骸も見ました。あなたが何故ザルファーをそうしたのかは、理解できます」 彼女は躊躇し、そして同情に僅かに口元を歪めた。「皆言っています、今のあなたにそれを戻す力はないと。とても……辛いことですよね」
彼女がそれらの事実をごく素直に受け入れていることに、テフェリーの心を詰まらせる罪悪感が緩んだ。「ザルファーの裂け目を作り出した時、自分は正しいと確信していました。私は故郷を壊しかねない恐怖からそれを守ったのだと。けれど今では、その決心に疑問を抱く毎日です。とはいえ自分の行いを変える力はない」 その痛ましい事実を受け入れるのは、驚くほど容易かった。テフェリーは彼女の穏やかな視線を受け止めたが、顔をそむけたいという衝動はなかった。誰かと心から会話したのは数年ぶりのことだった。眩暈を起こしそうに思われた。
スビラは頷き、彼の告白を無言で受け止めた。「つまりあなたには敵がいる。けれどもしマケトがあなたを殺しに来たなら、彼を殺したのは一体誰?」
「良い疑問です」 テフェリーは天幕の中を歩き、目の前の問題に集中しようとした。「あるいはマケトは私を殺す計画を知ったのかもしれない。そして私に警告するためにここに来て、だが計画の背後にいる魔道士が彼を殺害し、このように見せかけた」 彼はスビラを一瞥した。「そしてあなたは行政官のもとへ行き、私はその罪状で逮捕される……」
スビラは皮肉を帯びた声で続けた。「そして無実を証明するまで素直に逮捕されておく」
「いや、逮捕させはしませんよ。独房に監禁されているというのはこう……」 テフェリーはその思考を締めないことにした。時の泡に捕われるのとは同じではないだろうが、再び体験したいものではなかった。二度と何かに閉じ込められたくはなく、またそう試みた者は、自分がいかに危険な人物かを知ることになるだろう。
「けれどその計画は上手くいかなかった」 スビラは言い、気短に身動きをした。「私に疑問に思わせた、これを企んだ者は今何を考えているのか、もしくは何をしているのか」
「スビラ!」 誰かが外で叫んだ。その声は焦っていた。
スビラはカンバス地を払いのけて駆けた。テフェリーも続き、だが足を止めた。「あれ……は」
砂嵐が、轟音と共に砂漠から彼らへと向かってきていた。あまりにも巨大な砂と塵の壁がそびえていた。まるで海の巨大な波のように、もしくは山から転げ落ちる岩雪崩のように。そしてその勢いのままに商隊を直撃すると思われた。崖と石壁に守られたセワの街は生き伸びるだろう。だがその外で嵐に捕まった者は、また家畜や果樹園や畑、次の季節を生き延びるために必要な全てに待ち受けるものは悪夢だった。
スビラと家畜商人らは恐怖に凍り付いており、テフェリーは彼らのもとへ急いだ。逃げても間に合わず、だが天幕と荷馬車から聞こえる叫びと悲鳴から、そうしようとしている者もいるとわかった。「あれは何? 幻影?」 スビラが問い質した。
「いや、現実だ」 幻影には決して模倣できない圧迫感と緊張を、テフェリーは大気に感じた。
「けれど偶然じゃない」 スビラは厳めしく応じた。
テフェリーが言った。「これを無から起こせるのは力のある魔道士だ。それほど強いわけではないが、知識のある魔道士が数日をかけて、様々な風や気圧の動きを操る幾つかの呪文とともに起こすことができる。複雑な過程で――」
「それは生き延びてから説明して」 スビラは無力な身振りをした。「時ごとあの砂嵐を止めるのは?」
それはあまりに大きく、広がりすぎていた。「無理です。別の方法を考えなければ」 彼は既に別の案を考えていた。とはいえそれが上手くいくかどうかは別だった。
彼は皆から離れて歩き出し、岩棚の端に立った。そして杖を掲げて自身を錨とし、距離を正しく見積もれることを願った。
彼は目の前十フィート先の宙に、時が止まった大気の泡を作り出した。泡の中では、風に舞っていた塵がその場に静止した。力の限りにテフェリーはその泡を拡張した。海の方角へと長く、広く、高く、セワの街と商隊の宿営を守る自然の崖に届くまで。それを彼は高く持ち上げた。自身が立つ岩棚の端を頼りに、彼は時の泡の角度を定めて保持した。理論上はそれが有効とわかっていた。テフェリーはただ、その理論が正しいことを願った。
一瞬の後、嵐の先端が時の泡に激突し、滑り落ちるとともに広い砂漠へ散っていった。風は千々に吹き荒れ、砂が泡に吹き付けた。テフェリーは力の限りに時の泡を維持し、耐え、視界の隅に暗闇が忍び寄った。全力をその魔法に向け、身体が蜘蛛糸のように軽く感じた。両足が地面から浮かび上がった。それが本当に起こっているのか、それとも意識を失いかけてそう感じているだけなのかもわからなかった。そして後者かもしれないと彼は考えた。
そしてテフェリーは倒れ、時の泡は砕けた。彼は不愉快な死を覚悟した。砂に襲われて皮膚を剥がされるというのは、かつて不老不死のプレインズウォーカーだった人生の快い終わり方ではなかった、
だが吹き付けてきたのは過酷な砂漠の風以上のものではなく、砂も不快だが致命的ではなかった。やがてそれは断続的に砂を巻き上げる突風となって消えた。
スビラが彼へ駆け寄り、肩を揺さぶった。「大丈夫?」
テフェリーは返答のために息を吸い、砂にむせた。スビラは彼の上体を起こさせ、息ができるようになるまで背中を叩いた。涙目を拭い、顔を上げると商隊の宿営は無事で、だが天幕と荷車と興奮した動物は砂にまみれていた。人々は咳込みながらよろめき、逃げ出した者もゆっくりと戻ってきた。彼らは助かったことに明らかに驚いていた。街は大した被害はない様子で、困惑した人々は崖を背に建てられた家々の窓口や玄関、もしくは屋根の上に集まっていた。
スビラがテフェリーを立たせると、家畜商人のアキムも駆け付けた。彼らが天幕に辿り着くと、別の商人がやってきて言った。「街から行政官が来ます。誰かが嵐を起こしたと言っています」
「嵐を起こしたのは誰?」 スビラが尋ねた。その男が躊躇すると、彼女は言った。「教えなさい!」
「その人、テフェリーです」
「それは違う」 アキムが反論した。「私達を救ってくれたのがテフェリーだ。この目で見たのだから間違いない。自分で嵐を呼んで、死にそうになりながらそれを止めるわけがあるか?」
スビラが街の門を見ると、丁度それらしき集団が現れた。彼女はテフェリーへと言った。「あなたを殺そうとした者の仕業だわ」 彼女は家畜商人らへ向き直った。「街に行ったのは誰? あの人達を連れてきたのは?」
アキムは困惑に身体を動かした。「誰も! ずっとここにいたよ。クェンデだけが――彼はマケトの死体を移動させようとして」
「クェンデ?」 スビラは繰り返した。そして目を見開いた。「何てこと、つまり――」
「マケトが私に会いに来たと言ったのはクェンデだ。私が時間の魔道士だとマケトは言っていたらしいが、そう主張したのは誰だ?」 テフェリーは苦々しく尋ねた。今や、ガラスのように全てが明白だった。恐らくマケトは無実の犠牲者で、計画の一部としてクェンデが友とした巡礼の旅人なのだろう。ひとたびテフェリーが行政官と彼らの魔道士らに連れて行かれた頃には、商隊の宿営にあった全ての証拠と、クェンデが伝えたかった話を否定するかもしれない者は砂嵐が破壊済みというわけだった。
スビラは全てを悟った怒りに罵り声を上げた。「騙された! あいつ、ずっと嘘をついていたなんて」 彼女はテフェリーへと向き直った。「時間を止めて逃げるのよ!」
「できない、今は」 テフェリーは怒れる羽虫の群れを止めることすら難しい程疲弊していた。再び力を使うためには回復する必要があった。
「なら隠れなさい!」
テフェリーは躊躇した。逃げるのはまるで……ああ、逃げるようだった。「だが――」
スビラは囁いた。「急ぎなさい、馬鹿!」
そしてテフェリーは走った。身を翻して天幕の間を抜け、荷馬車の群れとラクダの囲いを隔てて逃げた。彼はセワの外壁の先、岩がちの丘を目指した。そこで夜まで隠れて、立ち去る前にどうにかして準備を――
不意に剣の一撃がやって来て、テフェリーは脇に飛びのいた。彼は地面に倒れ、転がった。天幕の間からクェンデが飛び出し、目にも留まらぬ速さで動いた。テフェリーは片手を振り上げ、胸へと振り下ろされる剣を取り巻く時間を加速した。鋼は中心まで錆び、彼に命中して破片へと砕けた。クェンデはよろめいて転倒しかけ、テフェリーは慌てて離れた。彼は落とした杖を掴み、背を伸ばして立とうとした。
クェンデは体勢を立て直して二本の長ナイフを抜いた。水晶のその刃が輝いていた。テフェリーは破壊的な時の呪文をこれから唱えるかのように杖を突きつけ、だが一つか二つの小さなそれを唱えただけでも完全に力尽きて倒れてしまうとわかっていた。彼は問い質した。「何故こんなことをする?」
「お前に近づく唯一の方法だからだ」 憤怒に表情を硬くし、クェンデが言った。「裏切り者、破壊者!」そして襲いかかった。
テフェリーはかろうじて時の流れを僅かに遅らせ、クェンデの目にも止まらぬ攻撃はゆっくりとした威嚇となった。テフェリーは後ずさった。「嵐を起こしたのは君か」
テフェリーの力は残り少なく、だがクェンデの笑みは苦々しくなった。「風を起こす呪文と、死をもたらす毒使いの魔道士を雇った。マケトが時間の魔道士に殺されたと見せかけるために」
「何者だ?」 テフェリーは問い質した。これから死ぬのだとしても、何故なのかは知りたかった。
「私の祖先は獅子将マギータだ」 クェンデの凝視は鉄のように固かった。「お前が破壊したキパムにいた」
「あの将軍か」 テフェリーの心が沈み、彼はかぶりを振った。「破壊したわけでは――」
「嘘をつけ!」 時間の呪文と戦いながら、クェンデの筋肉が膨れた。そしてテフェリーは長くはもたないと知っていた。
鞭が鳴る音が不意に響いた。それはクェンデの腕に巻き付き、彼を強く引いた。
スビラがアキムと共に立っていた。二人の背後には家畜商人らがおり、全員が武装していた。彼女は叫んだ。「クェンデ、離れなさい! マケトを殺したのも嵐を起こしたのも彼じゃなくて、あなた。あなたが殺した!」
クェンデの表情には決意だけがあった。「この男は強すぎた。殺すには、まず弱らせる必要があった。君はわかっていない――」
疑う表情で、スビラは手を振り払った。「弱らせる? そのために街の半分と私の商隊を? マケトは? あなたの大切なマギータ将軍はそれを誇ると思うの?」 彼女は嫌気に顔をしかめた。「クェンデ、一緒に旅をしてきたけれど、そんな事をするとは思っていなかった」
クェンデは彼女を睨み付けた。「マケトは盗人で殺人者だった。私は無辜の者は殺さない」
スビラは動じなかった。「けれどテフェリーを罠にかけるために、あなたは商隊の全員を犠牲にしようとした」
狼狽が怒りを圧倒し、クェンデはその言葉を否定した。「この男なら、嵐を鎮めて皆を守れると――」
スビラは呆れていた。「彼が皆を守ってくれると? なのにあなたはまだ彼を殺したがっている」
「こいつはザルファーの破壊者なんだぞ! 血族の誇りにかけて、復讐すべき相手だと私はずっと聞かされてきた!」
テフェリーは顔をしかめた。報いのために、血の復讐のために、知らない人々や見たこともない地のためにクェンデは育てられたのだ。その息の詰まるような遺物から解放されるには、テフェリーを殺すしかないと考えたのだろう。テフェリーは言った。「ザルファーは破壊されてなどいない! 巡礼者らと浜辺に行って見てみるがいい! ザルファーはまだそこにある。もし私がこの世界へザルファーを戻せるならば、今この時にでも命を捧げたっていい」 テフェリーは努めて声を平静に保った。「だが私の命では足りない。私にもうその力はない。不可能なんだ」
アキムが慌てたように言った。「スビラ、行政官が来るぞ。行かないと」
「私の荷馬車を持ってきて。テフェリーと一緒に向かうから、次の停泊所で落ち合いましょう」
クェンデはかすれた声で言った。「やめろ。連れて行かせはしない。私はずっと待っていたんだ――」
スビラは鞭を手離し、クェンデと胸がほぼ接するまで進み出た。彼女は無感情に言った。「なら私を殺しなさい。それが止める唯一の方法よ。人殺しになるかそうでないか、クェンデ、選びなさいよ」
「スビラ」 乾いてかすれた声をテフェリーは絞り出した。彼は怖れた、クェンデがそのナイフを彼女の心臓に突き立てるのではと。そしてそれを止める力は残っていなかった。「やめるんだ、命を危険にさらすのは……クェンデ、頼む、彼女を殺さないでくれ」
彼女はそれを聞き流した。クェンデは彼女を睨み付け、そのまま時は流れた。やがて、彼はゆっくりと後ずさった。同時に家畜商人らが二人の間に割って入った。そしてアキムがスビラの荷馬車でやって来た。
スビラはテフェリーを御者席に押し上げ、だがクェンデはその場に立ったままでいた。彼女も昇ってアキムから手綱を受け取ると、クェンデが言った。「何故こいつのためにそんな事を?」
「貴方たち両方のためによ、馬鹿。消えて、そして何かやりがいのある事をしなさい」
アキムは飛び降りた。荷馬車が動き出すと、テフェリーが言った。「殺されていたかもしれないだろう」 彼は疲労に震えていた、力は残っていなかった。
スビラは鋭く言った。「どういたしまして。少なくとも、私の商隊と一緒に来て泥棒や盗賊や色々な危険から皆を守ってくれることはできるでしょ。時間の魔道士なら得意な筈よね」
テフェリーは座席に背を預け、真面目にそれを検討した。魅力的な提案だった。放浪を続けるのであれば、仲間がいるというのは良いことに思われた。正体を偽る必要のない仲間が。「しばらくはそうさせて貰うよ」 でこぼこの道を荷馬車が進む中、彼は心を決めたように言った。「私も一か所に留まる者ではないんだ」
「ニアンビ、気をつけるんだぞ!」 テフェリーは娘へと声を上げた。噴水の池を取り囲んでユリの花が咲いており、ニアンビはそれに群れる蜻蛉を追いかけてまたも庭を駆けていた。アカシアの木陰に建つ大きな家は広々として快適だが古く、庭の敷石は不揃いだった。そのひび割れは小さく夢中な足をとらえそうな形をしていた。
数年前、スビラは商隊を管理できる者を見つけて任せ、テフェリーと共に古い交易路に近いこの街に落ち着いた。やがて二人の間にニアンビが生まれた。今では彼女は商隊へ戻っており、テフェリーが娘を育てる中、定期的に帰宅していた。
ニアンビは噴水へと駆け、だが緩んだ敷石にサンダルが引っかかり、彼女は転びかけた。完全に本能からテフェリーは呪文を唱え、ニアンビは宙で凍りついたように止まった。
自身に驚き、テフェリーもまた即座に凍りついた。魔法はとても長いこと使っていなかったが、戦うための反射神経は一切損なわれていなかった。
彼は進み出てニアンビの周囲を調べた。その角度と軌道を注意深く見定め、その先に鋭いものや固いものは何もないことを確認した。そのまま転ばせたなら彼女は草の上に倒れ、少しのすり傷ができて、上手くいけば庭のでこぼこの敷石の上をサンダルで走ることの教訓を学ぶだろう。実際、それ以外の選択肢はなかった。
だが彼は、かつての選択を思った。ザルファーは破壊されるか、さもなくば世界から取り除いてそのまま閉じ込めておくか。琥珀の中の骨のようにニアンビを閉じ込めておく、その考えに彼は酷く気分を悪くした。自由と成長を犠牲にしてまで、安全を守ることはない。それは明らかに思えた。
ザルファーについては明らかではなかった。ファイレクシアに対してザルファーの何らかが生き延びる保証はなかった。だがドミナリアの多くは無事ではなくとも生き延び、残されたものは新たに成長し発展することができた。
テフェリーは息を吐き出した。ザルファーを戻せるならばそうする、長いことそう思っていた。とはいえどれほど自己反省したところで、力は戻ってこないのだ。
そうではなく、何か他の手段を探したならば。ウルザはきっと、役に立ちそうな強力なアーティファクトを創造しておいただろう。それを探す意味はある。
だが今のところは、妥協しておくのが最良に思えた。彼はニアンビの前へ踏み出して呪文を解呪した。
時が再び動き出し、娘は父親の腕の中へ倒れ込み、声を上げて笑った。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)