銀の月の下で

更新日 Magic Story on 2016年 3月 2日

By Kimberly J. Kreines

Kimberly J. Kreines is a creative designer new to the Magic team. But neither playing Magic nor writing are new to her. She has a penchant for dragons, the Oxford comma, and chicken tikka masala. In her opinion, all three are equally delightful.

 ハラナとアレイナは追跡者であり狩人、ケッシグ州を縁どる暗き森の深みに生きる者の庇護者である――その森はウルヴェンワルドと呼ばれている。イニストラードの古い森は彼女らの領域であり、彼女らはその内なる恐怖とその外なる無辜の者とを隔てる盾となってきた。だが近頃、森の中にて何かが動き始めていた……


「この感じ、わかりますかね? むずむずするような」 長老たちが顔を並べる長机の前に農夫ワリンが立ち、その隣には彼のふくよかな妻が目を見開いていた。二人は長老達へと背を向け、教区のこの狭苦しい共同施設に集まったガツタフの住民たちへと顔を合わせた。ハラナはアレイナの隣に座り、扉に最も近い席からそれを見ていた。

「虫が首の後ろを上ってくるようなもんです」 ワリンは喋りながら身を震わせた。「首ねっこから上って髪の中へ入ってくるような」

アート:Nils Hamm

 その男が今、それを感じていると話すのは奇妙だとハルは思った。そのような物事を耳にしたことは今までなく、そのような感覚がありえるのかもわからなかった、まさしく今朝までは。彼女はその感覚とともに目覚めた。首の後ろで何かが悪戯をするような、背骨を這い上るような。彼女は不安になり、それ自体も極めて妙だった。事実、その感覚は野営の寝床を出て森から街へ入っても潜んでおり、やがてすぐに再びその感覚が大きな波となって底から上がってきた。彼女は自身の震えを押し殺した。

「すごく本物っぽいんですよ、間違いなく何かがそこにいるってくらいに。わかります?」 農夫ワリンは首の後ろを激しく引っかいた。彼がそうする様を見てハルも同じ動きをしていたと気付き、彼女は膝の上に両手を置いた。「何かおっかないものが皮膚の下を這っているんですが、何なのかは絶対わからない!」

 町民の多くが椅子の上で身をよじり、動かし、農夫ワリンと同じように引っかいた。

「うむ、うむ」 まるで蠅を追い払うかのように、コルマン長老が分厚い手を振った。「ワリンよ、皆その感覚を知っておる。だがおぬしはわざわざ議会にまでやって来て、それをどうしようというのだね」

「全部ですよ!」 農夫ワリンは列席する長老十一人全員へと向き直った――彼らは通常十二人だが、ソムロン長老は善きメアリ嬢の二日目の葬儀を執り行い、祝福されし眠りへと彼女を送り出すべく欠席していた。「私は正しいって、この這うみたいな感覚でわかるんです!」

「おぬしの何が正しいのかね、ワリンよ?」 コルマン長老が反応した。

「はっきりと言いたまえ!」 グレイサー長老が怒鳴った。

「うちの牛が取り憑かれたんですよ!」 我慢しきれないように農夫ワリンの妻が言った。「狂ってしまった! 真夜中にですよ。別の牛を引きずって牧草地を回って、そして共食いを! 私はこの目で通り道を見ました。可哀想に、きっと長いこと苦しんだに違いない。そして狂った牛はただ貪り食ったんです、骨と歯しか残さずに!」

 町人からは息をのむ音が上がった。

「ならば一体目の牛が二体目を食ったと、どうやって知ったのかね?」 冷静を装ってコルマン長老は尋ねた。

「今朝、その牛の鼻先に血がついているのを見たんですよ!」

 更なる息をのむ音が。

 ハルはアレイナを見た。二人のやり取りに言葉は不要だった。二人とも知っていた、ワリンの農場は街外れに位置していると、そしてそれはウルヴェンワルドの森に隣接していると。そして近頃どのような獣が、その森の中で決定的な復活を遂げたかを。この二週間にアレイナとハルはそれぞれ三体の獣人を倒し、加えてつい昨晩、共に一つの群れを退治した――小さい、だが確かに群れだった。だがそれらの遭遇は全てガツタフから遠く離れており、懸念が持ち上がる程ではなかった。ハルは遠い咆哮を木陰の小道の半ばまで追い、そしてアレイナが一体を倒したのはナッターノールズの外だった。だが今、彼らの怯えた様子は告げていた。あの獣どもが図々しくも森の縁から街へ、人々へと向かってきていると信じるに値すると。それは許されなかった。ウルヴェンワルドはアレイナとハルの領域であり、そこから染み出した暗き恐怖に無辜の者を傷つけさせるわけにはいかなかった。

「護符ですよ!」 ワリン夫人の嘆きがハルの注意を部屋の前方へと引き戻した。「あの女が作ったんだよ、この安物の護符を!」 農夫の妻は非難とともに善きエヴェリン嬢へと指をさした。彼女は息をのみ、首に下げた護符を掴んでいた。「あの女がこの役立たずを!」

「護符のせいじゃない!」 エヴェリンの隣に座っていた男性が飛び上がり、彼女を守った。「エヴェリンはこの街で最高の、一番よく効く護符を作ってくれる、いや、この地でも過去最高の!」

「静粛に!」 コルマン長老は叫び、分厚い掌を長老達の机に叩きつけた。だが彼は無視された。

「なら取り憑かれた牛はどう説明するんです?」 ワリンの妻が食ってかかった。「別の牛を引きずって農場を歩いた跡は? 食べた後に残された骨は?」

「そうだ!」 誰かが後方から叫んだ。

「護符が役に立たなかったんだ」 別の声が上がった。

「護符が役立たずで私達の牛が取り憑かれた、それは間違いない」 これほど多くの町民が集まる前で弁論すべく、農夫ワリンは勇気を奮い立たせているように見えた。「私達はエヴェリン嬢の怠慢の犠牲者なんだ」 彼は自身の護符をきつく掴み、町民と長老達の両方へと懇願した。「正しい護符が無ければ、私達は次の夜すら過ごせません」

アート:Kev Walker

 同意のやじが上がった。

 町民が不完全な護符を責める、それはハルにとって理にかなっていた。牛は邪悪な霊に取り憑かれたのだと彼らは考えた。それは彼らが説明できる物事だった。彼らが正しいと思える物事だった。世界を統べていると彼らが信じている、危うい平衡をひっくり返さない物事だった。彼らはハルとアレイナと同じ現実の中には生きていないのだ。町民は暗闇の中で、森の中で何が起こったかを知らないのだ。彼らは天使アヴァシンの光に守られた世界に生きている。狼男のような存在から守られていると信じている。だがアヴァシンの世界にあっても、狼男は完全に払拭されることはない。かつてより著しく数を減らしたとはいえ、ウルヴェンワルドには常に狼男が存在してきた。ハルとアレイナは知っていた。二人は森の最も深くに消えずに残る、獣人の気味の悪い咆哮がこだまするのを聞いていた。

 その咆哮を思い出し、ハルは椅子の上で心地悪く身動きをした。首の後ろに這うような感覚が戻ってきていた。一つの咆哮を聞いたことが、喜ばしくない感覚をもたらしたそもそもの始まりだった。最初、彼女はそれを夢だと思った。その夜の、群れとの戦いは夢の中で行われたのだと。以前に一つの群れと対峙してからは幾らかが過ぎていた。そしてまた、短い期間にこれほど多くの獣人と対峙してからは幾らかが過ぎていた。ハルは寝床に横たわったまま、心の中でそれらの鼻面が、筋肉が、後ろ脚が現れては消える様を見ていた。そのため彼女は、咆哮を聞いて目が覚めたと思っても驚かなかった。

 だが今、ワリン夫人の膨れ上がった目を見ながら、その咆哮は脳内のものではなく、記憶や夢でもなく、本物の、真の獣の咆哮だったのではと彼女は不安になった。まさにその獣が、事実、大胆にもこの街に入ってきて、大胆にもワリンの家畜を食らったのだと。それを繰り返させるわけにはいかなかった。「行こうか?」 ハルは小声でアレイナを誘った。

 アレイナの表情が明るくなった。彼女には早くも狩りの熱があった。

 二人は同時に立ち上がった。ハルの指が予感にうずき、彼女の両眼はすぐ側の扉の取っ手を見て――次の瞬間、その扉が勢いよく放たれた。

 宿屋の主シャランとその妻エルザが教区の会議場に飛び込んできた。

「鐘を鳴らして!」 エルザが叫んだ。

「夫人がいなくなった」 主人が言った。

「死んでしまったの!」 エルザが訂正した。「あいつが夫人を!」

 先程ついにコルマン長老が取り戻すことに成功した幾らかの秩序は窓の外へと消えた。町民は吼え、悲鳴を上げ、飛び上がった。

「ああ、可哀想な人」 エルザは声をあげて泣いた。「辺り一面が血まみれでした。あいつが夫人の身体をどうしたのか想像もできません。あいつは下劣な悪人だってわかってました、宿に入ってきた時から、街に入ってきた時から」

「パルター夫妻だ」 ハルはアレイナへと囁いた。

 アレイナは同意に頷いた。

 犠牲者と犯人が誰なのか仮定は明白だった。ガヴォニーから訪れたパルター夫妻。彼らは今その宿屋の唯一の客であり、ここ三か月の間にその宿屋に入った唯一の客だった。ハルとアレイナは一週間ほど前、その聖戦士と夫人その人に会っていた。二人は木陰の小道を目指してウルヴェンワルドの深い小道をさまよっていた。言うまでもなくハルとアレイナは二人に手を貸し、言うまでもなく二人がよじれた森を出てガツタフへと向かうのを確認した。そしてその道すがら、彼らは三体もの狼と一体のグールと、取り憑かれた樫の木一本と戦った。

アート:Jaime Jones

 アレイナが素早く木々の間をすり抜ける様を思い出し、ハルは微笑んだ。この数年間、熟達の追跡者である彼女はその格闘技術を証明してきた。もし彼女が何らかの助力もなしに巨大なスカーブを倒せたとしても、ハルは驚かないかもしれない。

 パルター夫妻はハルとアレイナへと丁寧に礼を述べていた、もしくは少なくともパルター氏は。彼の妻は暗い森を横切るという試練に大いに怯え、その細い身体は騎乗用の外套のフードの下にすっかり隠れていた。パルター氏は月皇議会の聖戦士と名乗り、ハルとアレイナへと防護の守りを渡そうとした。それを霊廟の護衛任務の中で何度も使用し、何度も助けられたとの事だった。ハルとアレイナはその守りを丁寧に受け取ったが、二人にとっては些細なものであり、そういった物が必要だとは信じていなかった――その時点では。

「鐘を鳴らして!」 シャラン夫人が再び命令した。「人殺しが街をうろついているんです!」

 ハルはパルター夫妻のどちらかが犯人だとは思わなかった。あの聖戦士は親切で、婦人はやや虚弱そうではあったが献身的と思えるほどだった。獣人の仕業だったとしたら? 確実にそう思われた。

「行こう」 アレイナは囁き、もはや塞がれていない扉を示した。宿屋の二人は論争の奥へ入り込んでおり、そのおぞましい出来事の更なる詳細に飢えた町民の群れに囲まれていた。

 ハルとアレイナは注意を引くこともなく、群集の中を容易にすり抜けた。二人は身を隠して動くことに長けており、そして二つの素早く、しなやかな歩幅で扉から出て玉石の街路へと出た。

「ってことは――」 ハルが切り出した。

「あいつらか」 アレイナが続けた。

「うん、あいつらかも」 ハルは修正した。「群れの仕業かもね、別の群れの……」 彼女は熟考した。「一夜のうちに二つの群れがわりと近くにできたのかもしれない、しばらくなかった事だけど」 彼女はアレイナを一瞥したが、向かう先へと完全に集中していたために視線は返ってこなかった。ハルは続けた。「どっちにせよ、はぐれた獣人か群れがガツタフの境界内に入って、昨夜、少なくとも二度も襲った。まずワリンの農場で牛に」

「そして、シャランの宿でパルター夫人に」

 ハルは道の途中で不意に立ち止まり、唖然と開いた口を手で覆った。彼女の心はただ何かに集中していた。

「どうしたの?」 アレイナは肩越しに尋ねた。

「ぞっとする話。間違いなく」 ハルは追い付こうと急いだ。「今、牛は取り憑かれたって町の皆は決めつけてる。それは正解からは程遠いけど、パルター夫人を殺した犯人を特定するまで長くはかからない」

 アレイナは疑問に首をかしげた。

「宿の中」 ハルはアレイナ自身の言葉を繰り返した。

「宿の中……」 アレイナが言った。ハルは彼女が頭を働かせているのが見えた。「……パルター夫妻の部屋……鍵のかかった扉の向こう」

「窓が壊されてたとか無理矢理入られたとかは言ってなかった」 ハルが言った。

 二人は一斉に進路を変更し、シャランの宿屋へと駆けた。


 街の鐘は鳴り続き、既に何らかの警報として有用とは言えなくなっていた。

村の鐘鳴らし》 アート:David Palumbo

 その音は、まるでエルザ・シャラン自身が縄に取り憑いたようだとハルは思った。鐘鳴らしの手からそれをもぎ取ったに違いないのだろう。むしろありがたかった。エルザの動揺は良い具合に長老達の手を煩わせ、パルター夫妻の部屋を探す時間を二人にくれるだろう。

 二人は受付の机を過ぎて、忍び足で広間へと入った。ハルは前方のただ一つの扉へと頷いた。それは半開きのままで、殺人現場を目撃した主人とその妻が大慌てで飛び出して行ったことは疑いなかった。まずハルがその部屋へと移動し、アレイナが続いた。両者とも開いた扉の角度を乱すことはなかった。

 ハルは息をするや否や、金属質の血の匂いが喉の奥を打った。「こっち」 彼女は囁き、小さな休憩室の転げた椅子を避けると薄暗く照らされた寝室で足を止めた。彼女はアレイナの緊張を感じた。蝋燭は消されカーテンは引かれていたが、床に広がる血の海が見える明るさは十分にあった。アレイナは恐怖から緊張したことなどない、ハルはそう知っていた。彼女は血みどろの場面に怯える娘ではない。その静止は彼女が感覚を研ぎ澄ますための方法だった。ハルはアレイナを観察することで追跡の技術の多くを学んでいた。彼女は今やアレイナを模倣し、動かずとも周囲の手がかりへと更に敏感になることができた。広がる暗いプールを見て、彼女の思考はその血液の持ち主である女性へと動いた。そしてその時だけ、彼女は苦痛を感じその女性を憐れむことを自身の心に許した。パルター夫人は心から信頼する相手に命を奪われた無辜の者だった。ハルはアレイナを見上げた。最期の瞬間はどれほど恐ろしいものだったのだろうか。その実感はどれほど酷いものだったのだろうか。だが悲しみの感情に浸ってはいられなかった。それは次にやるべき仕事には何の足しにもならない。

 血の一滴すらも乱さぬよう注意深く、ハルはその小さな正方形の部屋の外周をそっと時計回りに、そしてアレイナは逆回りに進んだ。三つの手がかりが隠されることなくそこにあった。引き裂かれたレースの切れ端、硬化した蝋溜りの上に横たわる蝋燭、そして銀のボタンが一つ。ハルの注意を引いたのはそのボタンだった。外周を巡ってアレイナと合流すると、彼女は血の海の近くに転がるそれを指差した。「記憶違いかもしれないけど、森の中で会った時に、聖戦士パルターは緑のベストを着てなかった? ちょうどあんなボタンが三つついた」

 アレイナは憂鬱な顔をした。「あんたの記憶はいつも正しいんだ、怖いくらいに」

「じゃあ間違いない」 ハルは言った。「彼の変身はこの部屋で起こった。彼は妻を殺して逃げ出して、ワリンの農場を通ってもう一度食事をして、森へ入っていった」

「そうみたいね」 アレイナが言った。だがハルは彼女の声に、完全な確信ではない何かがあると感じた。

「どうしたの? 何を見つけたの?」

 アレイナは血の池を示した。「おかしいと思わない? 血はこの通り、床にこんなに広がってる。でも骨とか、肉片とか、髪とか布とか、獣が食べられないものは何処へ?」

 ハルは下がり、その場面を新たな視線で見ようとした。アレイナのその疑問は重要だった。だがハルの心がそれの答えを見定めるよりも早く、何か別のものが彼女の注意を引いた。アレイナの背後で収納棚の扉が僅かに開いており、中にあるものがかろうじて見えていた。その光景にハルの心臓が高鳴った。アレイナもすぐに気付いた。彼女は疑問に眉をひそめ、肩越しに振り返って見た。そして二人ともしばらくの間、凝視しながら立っていた。収納棚の中にあったのは椅子だった。ごく普通の椅子だった、収納棚の中にあるという事以外は。だが椅子が収納棚の中にあるという事自体は懸念には及ぶものではなく、そしてハルの心臓を胸の中で高鳴らせたのもその事ではなかった。彼女を躊躇させたのは、椅子からぶら下がる革紐とベルトだった。十本以上が、あらゆる長さで、引き裂かれて千切れていた、そして錠前が三つ。一つは椅子の上に、二つは床に。

「拘束してたの」 アレイナが言った。

「知ってたってこと」 ハルが返答した。

「そうでしょうね」 アレイナの声は鋭かった。「彼を止めないと。できれば――」

 だが彼女はその思考を終えることはなかった。ハルが流れるような動き一つでその腕にアレイナの胴体を抱え、胸へと引き寄せて彼女を影の中へと引き込んだ。共に二人は動かず、黙って立っていた。それは熟達した潜伏の体勢だった。二人の呼吸は本能的に同調し、最も感覚が鋭い生物ですら聞き取れない程に低く、浅くなった。

 ハルに警告したのはその静寂だった。もしくは少なくとも、この時まで切れ目なく続いていた喧騒の欠落だった。鐘はもはや鳴らされておらず、それは殺人の捜査が始まったことを意味していた。こだまする足音と声を殺した声がそれを確かなものとした。町民は犯罪現場へと向かってきている、ハルとアレイナが今やその角に身を縮めるまさにこの部屋へと。

 扉が軋む音が聞こえ、二人は来た道から宿を出られないと知った。少なくとも言われのない欺瞞を招くことなく。規則として、二人は可能な限り町民とのいざこざは避けていた。町民はハルとアレイナを大目に見てくれていた。彼らは追跡者である二人がこの町へやって来た時は常にその存在を受け入れていた。二人は訪問者であろうと町民であろうと、ウルヴェンワルドを通り抜ける旅に手を貸してくれるためだった。だが同時に、ハルとアレイナはその暗い森の中に生活していると町民は知っており、その理由から二人を「よそ者」とみなしていた。一瞥する視線、抑えた声で交わされる疑念、そして背中に投げかけられる祈りの声。近づきすぎた者からハルは嫌悪と、同等の恐怖を感じ取っていた。殺人現場で目撃されて良いことは何もない。

 アレイナは寝室の向こう、小路へと向かって開かれた窓を顎で示した。完璧だった。きつい状況からの脱出において、常に頼れるアレイナの適応力にハルは微笑んだ。脱出する前に、ハルは注意深くそして静かに収納棚の扉を締めた。町民を怯えさせ、取り乱させるようなものを見せる理由はない。ごく僅かでも獣人の存在を暗示させ、それに伴って起きるであろうそのような心配をかき立てる意味はない。自分達が狩られていると思わせる必要はない。そうではない。ハルとアレイナには対処できる。自分達は無辜の者を守る。ウルヴェンワルドとその脅威は自分達が対処すべきものであり、対処してみせるつもりだった。

 その部屋へと続く扉が音を立てて開かれるのに合わせ、二人は窓を開けた。閉める際に木と木がこすれる音は、長老たちと町民が部屋へとなだれ込んだ際の、重い靴音と争うような低い声に飲み込まれた。ハルとアレイナは町民の誰にも詮索されることなく小路へと降りた。


 時間の余裕はなかった。二人がウルヴェンワルド奥深くの野営へと戻る頃には、太陽は既に地平線に触れていた。二人は素早くだが慎重に銀の武器を身に着けた。無論、二人は銀製の小さな刃を常に一本携帯している――完全に丸腰でいるのは愚かなことだ――だが最近の出来事からは、更に多くを持ち歩く必要があるように思えた。今や二人はほぼ全ての銀の武器を持ちだす必要と意味を見つけていた。銀の鏃、剣、槍、そして短剣。その金属は力を輝かせていた。

銀の象眼の短刀》 アート:Austin Hsu

 装備を固めるとすぐに二人は再び野営を発った。ハルが安全のために住処の周囲に植えた茨の迷路を通り抜け、一つとなって二人は暗くなりゆく森へと踏み込んだ。

 聖戦士パルターの足跡を最初に発見したのはアレイナだった。彼女はまず匂いを嗅ぎ取る。小さく丸い、笑うと顔全体を輝かせるようなその鼻は、鋭くかつとてもよく利いた。すぐ後にハルも匂いに気付き、宿の部屋と同じものだと認識し、そして直後に靴の足跡を見た。共に二人は恐るべき獣人を追跡した。

 彼の足跡はよじれた木々を迂回し、もしくは自身の内なる獣と戦っていた可能性が高いように思えた。同じ苦悩から彼はその人生を諦めてガヴォニーを離れたのだろう、ハルは想像した。彼はそこで人を殺したに違いない、恐らくは一度ならず。そして自身の中にある恐怖に気付いた時、彼はもはや愛する人々へ顔を向けられなくなったに違いない。そして逃げ出した、それ自体は奇妙なことではなかった。獣人の行動としてではない。奇妙なのは、妻を連れていたという事だった。哀れな魂。自分達が森の中であの夫婦を見つけた時にパルター氏から受けた印象、親切心と哀れみに溢れたそれからは、彼のその行動は連想できなかった。だとしたら理由を彼女は見つけたいと思った。もしかしたら彼は妻を安全な、新たな街へ残して行こうとしたのかもしれない。自身の行動から生ずるであろう疑念から遠ざけ、いつの日か新たな人生を始めて幸せを手に入れられると信じる場所へ。そして彼は森の中か、それとももっと悪い場所へ身を隠そうとしていたのかもしれない。自分ならそうするだろうとハルは思った、もしその呪いが自分に届いたなら――そしてその思考を殺した。そうはならない、そうはさせない、アレイナを危険にはさらさない。自分は姿をくらますだろう。姿をくらます以外にないだろう、とても、とても遠くへと。そうしたならその心は決して癒えないだろうと知りながら。だがその行動こそが自分の心臓の鼓動を完全に止めてしまうかもしれない。それはなんと慈悲深いことだろう。パルター氏はまさにそれを試みようとしたのだろうか。そうだとしたら。ハルはただ彼へのとても深い同情を感じた。だが次の瞬間、彼女は床に広がったパルター夫人の血を思い出した。その意図とは無関係に、パルター氏は愛する者を失ったのだ。彼の強さは十分ではなく、その欠点が結果的に夫人の生命を終わらせる結果になった。

 聖戦士へとハルが抱く感情が揺れ動くとともに、彼の足跡も変化した。変身が行われたのが明らかになった。ハルとアレイナは人間の靴跡を追っていたが、次の瞬間二人は獣の足跡を追っていた。二人はその獣人の道を辿り、そして唐突かつ不意に交差路へと出た。ハルとアレイナは銀の月光の下、足元の分かれ道に目をやった。

幻月》 アート:Ryan Yee

 二人が立つ場所から、聖戦士パルターは異なる二つの方角へ向かっていた、間違いなく異なる二度。まず片方の道を進み、そしてある時点で、この交差路からの距離は定かではないが、引き返して別の方角へ向かったに違いなかった。

「東はガツタフ、西は森の奥」 アレイナが言った。「あたしらの追う獣は内なる葛藤と戦ってたみたいね」

 ハルは頷いた。それは驚くことではなかった。自身の理論を言葉にしてはいなかったが、アレイナの心は同じ場所に着地していた。「なら、まずどっちへ行ったと思う? 今は何処にいる?」

「渇望に身を任せて、そしてある時に引き返したとしたら?」 アレイナは森の奥へと目を向けた。

「それとも、克服しようとして、でも飢えに突き動かされて街に戻ったとしたら?」 ハルは街の方角を見た。

「向かうのは――」 アレイナが切り出した。

「街だ」 ハルが言い終えた。

 二人は走った。

 その道を辿ってウルヴェンワルドから脱出すると、そこはワリンの農場の端だった。それは驚くことではなかった。獣人は過去に獲物が豊富だと知った餌場に戻ることが知られている。だが今夜パルター氏はここで獲物を食らってはいなかった、少なくとも今はまだ。その証拠として、牧草地の向こうにワリンの二頭の牛のうち一頭が立っていた。牛は牧草地の中の小道へと背を向けており、今ハルはそれを月光の中に見ることができた。それらはワリン夫人が表現していたように太く曲線を描いていた。まるでその重い身体を草の上に引きずられたように、何度も円を描き、その下の葉身を押しつぶしながら進んでいったようだった。哀れな獣。

 ハルはその跡へと足を踏み入れ、獣人が辿ったに違いない道をたどった。荒々しい獣が自然にこのような事をするというのは奇妙だった。何故ただ食べただけではなかったのだろう? もしかしたら彼はここに至っても衝動と戦っていたのかもしれない。聖戦士パルターの人物像がハルの心に姿を現し始めていた。優しく、信仰深い、善い男だったのだろう。たとえ人間の心を失っていたとしても、彼の意図は正しくそこにあったように思えた。

「匂いがわからなくなった」 アレイナの言葉にハルは我に返った。彼女はその獣人の痕跡を共に探しながら思い直した、その意図は行動無しには無意味だと。自分とアレイナはその狼男を退治しなければならない。

「死んでる! 殺された!」 エルザ・シャラン嬢の声が夜に響き渡った。「鐘鳴らしが! 哀れなオーウェル! ああ、死んでしまった!」

 そして鐘の音が届いた。その繩は再びエルザ嬢自身が引いたのだろう、間違いなく。

 アレイナとハルは時間を無駄にはしなかった。エルザ嬢の声のこだまが止むよりも早く、二人は夜の中を二つの影となって動いていた。暗い入り込みに隠れ、二人は鐘の周囲に集まった町民がひしめき合う中近づいた。注意深く静かな姿勢で、二人は肩と首の塊越しに鐘楼の足元の地面、黒い血の池を見ることができた。その様子は見間違えようがなかった。パルター氏の仕業。あの獣人がまたも殺したのだ。

 ハルの結論を断定するかのように、咆哮が一つウルヴェンワルドから響いた。無言でハルとアレイナは森へと駆け出した。だが広場から出る前にハルは肩越しに振り返った。その場面の何かが心に引っかかった、だがそれが何なのかを疑問に思う時間はなかった。彼女は森へと向き直った。狩りが始まったのだ。

 ワリンの農場を抜けて森へ入ると、大きな、狼の獣道がたやすく判別できた。二人はその足跡を辿って分かれ道へと向かい、この時は西へ、森の奥深くへと向かった。ハルは自分達が何処へ向かっているかがわかった。古アヴァブルックの環状列石、滅びた首都。そこは幽霊と、腐肉あさりの狼男の地だった。きっと自分達は追跡している一体だけではなく、もっと多くの敵と対峙することになるのだろう。走りながらハルは愛用のダガーの柄に手を触れ、自分達の森を守ろうと身構えた。

》 アート:James Paick

 不意に、アレイナが片手を挙げて地面にかがみこんだ。ハルは彼女を踏みかけたが衝突する直前に何とか立ち止まり、アレイナを止めた光景へと両目を向けた。森の地面、二人の前には鐘鳴らしの死体があった。オーウェルは幽霊のように青さめ、その皮膚は失血によって萎びていた――身体のほとんどは無傷だった。その四肢はまるで注意深く配置されたかのように広げられていた。彼の周囲至る所で下生えと草が踏み折られていた、まるで何か重いものがその上を引きずられたかのように。

 何かがおかしかった。死体があるはずがなかった。獣が食べたはずだった。

 最大限に警戒しながら二人はその現場へと近づいた。アレイナは周囲から、ハルは引きずった痕跡沿いに。その跡を追う前に彼女は認識した――その形は、屈曲の様子は、ワリンの農場にあった印と同じ形だと。わけがわからなかった。これは何らかの儀式の結果? 貪り食いたいという衝動に抵抗するためにパルター氏が行った何か? 一体どんな獣人がこんな事を?

 ハルはアレイナを見てまさにその疑問を投げかけようとしたが、アレイナの両目は森の更に奥、月の光にわずかに照らされた場所へくぎ付けになっていた。アレイナの凝視を追いかけ、ハルもそれを目にした。第二の死体。近づくとわかったが、それは護符作りのエヴェリン嬢だった。鐘鳴らしの死体と同じように手足を広げ、草は折れ曲がっていた。そしてそのすぐ向こうにはソムロン長老の死体があった。草には同じ模様、四肢は同じ配置で。

「ソムロン長老は確か――」 ハルが切り出した。

「葬儀に出てた」 アレイナが言い終えた。

「だとしても、出席できてなかったはず。見て」 ハルは手を震わせながら一つの詳細を指差した。それはソムロン長老の上着のレースであり、宿屋のパルター夫妻の部屋に残されたものと一致していた。そしてそこに、長老の袖口に、二人はその切れ端に合うであろう裂け跡を見た。

「宿屋の犠牲者がソムロン長老だったとしたら」 アレイナが言った。

「彼女の血だったとしたら」 ハルが付け加えた。

「パルター夫人は一体?」

 あの這い進むような感覚がハルに戻り、この時は尾てい骨から頭蓋の頂上へと駆け上がった。そしてまさにその瞬間、森の中に響き渡った咆哮に揺さぶられ、彼女の震えは大きく増した。

「それと、パルター氏は?」 ハルが訪ねた。

「それを見つけ出せってことなんだろうね」 アレイナが言った。彼女は咆哮が聞こえた方角へと駆け出し、ハルが続いた。

 走りながら、自分達はもう一本の足跡に平行に走っているとハルは気付いた。彼女はその足跡に自分の向かう方角を合わせた。それらは靴跡だった。パルター夫人の靴跡? ハルの心の中で何かがカチリと音を立てた。

「どうしたの、ハル?」 森の中、全力で駆けながらも、アレイナはハルの動きを察した。

「変身の時」 ハルの心は足取りとともにはやり、断片をはめ込み、どう尋ねたらいいかも定かでない疑問の答えを見つけようと奮闘した。「あそこで起こった、森の中の――」

「あった」 アレイナは激しく息をつきながら言った。「あたしら、両方とも証拠を見た。人間の足跡、そして狼の」

「違う」 ハルはかぶりを振った。「あたしらは、靴跡を見た。そして肉球の跡。別々に」

「うん?」 アレイナは急かすように言った。

 ハルは続けた。「けど、それが同じ足のものなら、靴は何処へ?」

 アレイナはごく僅かに足取りを緩め、だがハルはそれに気づいた。彼女にはその注意深さが備わっていた。ハルは足元の地面を指差した。「そして、なんであたしらはここでまた靴跡を見てるの?」

 アレイナは走りながら地面を凝視して、視界に靴跡を認めた。

「もしかしたら」 ハルは切り出した、アレイナが自身で断片をはめ込む十分な時間があると信じて。

「パルター氏のとは違う?」 アレイナが結論づけた。

「もしかしたら、狼男は――」 パルター夫人の名を口にしようとして、だがそれはハルの唇に引っかかった。二人は登り坂を越え、その頂上から小さな空き地を見ることができた。そしてその空き地の中に、よじれた石でできた間に合わせの祭壇があった。

アート:Andreas Rocha

 祭壇はでこぼこの雑な造りで、その上には善き聖戦士パルターが横たわっていた。

 彼の背後にはパルター夫人が、この森の中で最初に出会った時のようにフードを深くかぶって立っていた。その両腕を夫の身体の上へと掲げ、彼女は詠唱をしていた。悪魔の詠唱を。ハルはその音律と深く耳障りな音を認識した。「オーメンダール。オーメンダール! オーメンダール!!」 その名は明らかだった。この女性はある怪物と契約を交わしていたのだ。

「ベス、お願いだ」 その弱々しい声を耳にしてハルの心臓が跳ね上がった。善き聖戦士パルターはまだ生きている!

「黙れ!」 彼の妻は吐き捨て、一本の刃を抜いた。

 ハルとアレイナは共に身体を低くし、その小さな空地へと駆け出した。二人が接近する音にパルター夫人は顔を上げたが、わずかに二人の姿を垣間見ただけで体当たりを受け、地面に転がされた。

 夫人は激しく暴れ、両腕を振り回した。ハルが推測していたよりもはるかに強い力だった。二人は彼女を地面に押し付けるのがやっとだった。アレイナは自身の刃を抜いた。

「やめてくれ!」 聖戦士パルターが祭壇の上から叫んだ。「妻を傷つけないでくれ!」

 ハルは彼へと顔を上げた。「あなたを殺そうとしたのに」

「放してやってくれ、お願いだ。彼女は知らないんだ、何をしているのかもわからないんだ」

「彼女なんでしょ?」 夫人の首筋に刃を押し当てながら、アレイナは尋ねた。「町の人を殺したのは。あの殺人は全部」

 聖戦士は否定しなかった。

「今朝、宿屋の部屋にあった血はソムロン長老のよね? あなたは妻に何があったかを知っていながらガヴォニーを離れてガツタフへ連れてきた。収納棚の中に彼女を縛り付けようとしたけど、あの紐じゃ彼女に取り憑いた邪悪を押さえてられなかった」 一つまた一つ、アレイナは破滅的な真実を突き付けた。「そして彼女は逃げ出し、ワリン氏の農場で殺しを行おうとした。地面に悪魔の印を描いて。でもあなたに止められた。でもその後、あなたは彼女に逃げられた。街じゅう彼女を追いかけた、犠牲者を集める彼女を止めることもできず、止めようともせず、だから彼らをこの森の中まで連れてきた。彼らと、彼女を隠すために。一人ずつあなたが死体を動かした。三つの死体を。パルターさん、彼女は無辜の者を三人も殺したのよ」

「私が悪いんだ!」 聖戦士パルターは泣き叫んだ。「全て私が! あの霊廟は私が守っていたんだ、そこから出てきたものが何であろうと、私はそれを止めねばならなかった」

 ハルはその言葉を心から疑った。その悪魔の名、オーメンダールは彼女も以前耳にしたことがあった。そして彼女が知る限り、それは霊廟の護衛一人が対処できるような悪魔ではない。どれほど親切で、どれほど善き心の者であろうと。

アート:Min Yum

 この夜三度、彼女の心はパルター氏を憂いた。だがその同情もパルター夫人を解放するには至らなかった。その女性はもはや自身を失っていた。ハルとアレイナの掌握の下で悶えているものは、パルター夫人ではなかった。彼にとっては理解しがたい事だろう。ハルはアレイナへと頷き、アレイナはその刃を突き刺そうとした。だが次の瞬間、パルター氏は祭壇から半ば落ちるように、半ば飛び降りるように、ハルとアレイナへと体当たりをした。

 即座に二人の掌握が緩み、呪われた女性が束縛を振り解くには十分だった。パルター夫人は跳び上がり、ハルはその女性の痩せ細った身の内に力が集められるのを感じた。そしてパルター夫人は口を大きく開け、ハルとアレイナへと咆えた。その音は狼男の咆哮とは異なるものだった。その女性へと飛びかかった時、何かがハルの心を握りしめた。狼男は? その断片は今もはまっていなかった。森の中の足跡――自分達は明らかに狼の足跡を見ていた。食われた牛は――骨や歯を残して正しく食われた。それはパルター夫人の所業ではない、そうだろう?

 その考えに気を散らし、ハルは夫人の素早い動きを見逃した。手元へと完全に集中していたなら容易く反応できたはずだった。パルター夫人は想像以上に素早く動き、そしてハルが失った注意を取り戻すよりも早く、夫人は彼女から飛びのいて夫へと体当たりをするとともにその胸を突き刺した。

 夫人がナイフを引き抜いて再び刺すよりも先に、ハルとアレイナが彼女を押さえつけた。だがその傷は十分だった。血を吐く音、それが次第に消え、善き聖戦士の死を確かなものにした。

 パルター夫人を地面に押さえつけておくことはほぼ不可能に思われた。悪魔の契約から得た力に焚き付けられ、彼女の動きは全てがあまりに強力で、腕一本だけで二人を押さ込む程だった。だがハルとアレイナはよく訓練されていた。それは苔墓の怪物と格闘するようで、今やハルはその注意を肉体的な戦いへと完全に向けていた。パルター夫人は全力で抵抗したが、成功したのは顔を上げることだけだった。そして、フードが落ちた。森で彼女に出会って以来初めて、ハルとアレイナはパルター夫人の顔を見た。その髪は著しく抜け落ち、繰り返し流れる悪魔の力によって酷く損なわれた顔にハルは悲鳴を上げた。パルター夫人は笑みを浮かべた。そして彼女は詠唱を始め、するとその光彩は淡い青から暗くぎらつく黒へと変化し、その黒色は素早く広がって彼女の目を完全に満たした。ハルはアレイナを見たが、彼女は力の限りパルター夫人を押さえつけようと奮闘していた。だが悪魔の凄まじい力を夫人が呼び起こした時、二人にできる事は何もなかった。ハルとアレイナは投げ出された。

 ハルは宙を舞い、太い木の幹に横腹から激突した。苦痛が肩から広がり、側頭部へと達し、そして彼女は地面へ崩れ落ちた。

 彼女は立ち上がろうと苦戦し、四肢へと動くように、自分の思う通りになるように命令した。三つに揺らぐ視界へと一つに集中するよう強いた。側頭部の痛みはまるで身体全体に刃を叩きつけられたようで、彼女を地面へ押し付けようとしていた。だがそうはさせなかった。そうさせるわけにはいかなかった。目の前では夫人が振り回す拳をアレイナが受け、そしてもう一撃に倒れた。彼女はまだ反応してはいたが、その呪われた女性に絶え間なく流れる力には及ばなかった。そしてパルター夫人は刃に手を伸ばした。

「やめろ」 死に物狂いに発せられたハルの叫びは、わずかに音を成したに過ぎなかった。彼女は弱った四肢と戦い、進み出ようとした。だが遅かった。パルター夫人の刃が振り下ろされた。

 ハルのもつれた悲鳴は聞こえることはなかった。それは一体の獣人の唸り声に圧倒された。パルター夫人の刃は止まり、そして狼の前腕の一振りで彼女は地面に投げ出された。辺り一面に血が跳ね、その巨大な獣の歯と鉤爪に飛び散った。

 アレイナはその殺戮から転がって離れ、ハルは一瞬にして彼女の隣についた。共に二人は刃をパルター夫人の怒り狂って血まみれの姿に突き刺した。

 悪魔の呪いがその女性の命なき身体から抜け出ると、彼女の身体は小さくすぼみ、二人の足元で萎れた。残ったハルとアレイナは肩を支え合い、巨体の、息を切らせる獣人と対峙した。

 二人が行動するよりも、互いの意図を伝えあうよりも早く、左の木々から唸り声が一つ聞こえた。そして右から一つ、後ろから一つ、前から二つ。そして周り全てに輝く黄色の瞳を、銀の月光を反射し、汚している瞳を見た。二人は包囲されていた。どれほどの数だろう。十体、もしくは二十体以上。

アート:Scott Murphy

 ハルはアレイナの緊張を感じた。それはアレイナの通常の確固とした、基本的な姿勢ではなかった。その娘は硬直し、緊張していた。ハルは血のついたダガーを掲げ、目の前に立つ最大の獣人と目を合わせた。もし今夜ここで死ぬとしても、戦わずして死ぬわけにはいかなかった。

 だが彼女が攻撃の構えをとったそのとき、その獣人は姿を変えた。あまりの素早さに、ハルはかろうじてそれを目撃した。突如、その獣は筋肉質で、見事な体つきをした人間の女性となった。銀の月がその女性の青白い皮膚を照らし、長い髪の先端の白色を輝かせていた。戦いの最中に狼が人間の姿に戻るのを目にしたことはなかった。一度も。それはありえなかった、ここでそれが起こった今でも。

 一瞬、三人の誰も動かなかった。そしてハルがダガーを掲げて、とてもゆっくりと、その女性から目を離さないまま、地面に置いた。アレイナは身動きをしてハルに疑問の視線を投げ、だがハルの確信を見てとると彼女も同じように動いた。

 ハルは目の前の裸の女性がごくわずかに頷くのを見たような気がした。その女性は包囲する群れへと向き直った。狼男は全てが激しく息をついていた。戦いを待望し、飢えながら。その女性は一度かぶりを振った、短く鋭く。ただ一度、鳴くような音が返答に上がり、そして群れは背を向けてウルヴェンワルドの森の中へと姿を消した。

 ハルとアレイナは今しがた自分達の生命を守ってくれた女性とともに残された。

 ハルは咳払いをした。彼女は礼を言おうとしたが、言葉は出てこなかった。その代わりに彼女は野外用の上着を脱いでその女性へと差し出した。

「ありがと」 その女性はハルのコートを受け取り、肩にかけた。

「こちらこそ、ありがとう」 ハルはようやく声を出した。

「お前達のためじゃないわ。私はこの女を追っていたの」 彼女はパルター夫人を顎で示した。「そしてこの女のような者を。街にはこういう者がまだたくさんいる」

「あなたの足跡だったの、そして牛を食べたのも」アレイナが言った。

 その女性はアレイナを無視した。「私の望みはこの女の哀れな命を終わらせること。でなければお前達を助けなかった」

 ハルはその断言に身を固くした。

 その女性は続けた。「生かされたことはわかったでしょ。だから一度しか言わないわ。私の群れに手を出すな」

「狼男を?」 アレイナが尋ねた。

「止めないのであれば、私はお前たちと戦わねばならなくなる。そしてその時は、お前たちを殺す」 その女性の口調は脅しではなく、事実の断定だった。

 ハルは苛立った。「これはあたしらの森だ。ウルヴェンワルドはあたしらが守る」

「あたしらの領域に狼男を入らせはしない」 アレイナが付け加えた。

「お前たちのものじゃない。そしてお前たち二人がこの森を、来たるものから守れるなどと思うのは、自分達だけで生き延びられるなどと思うのは馬鹿よ。森から出て行け、ちっぽけな狩人。私達の森から去れ」

「絶対に出て行くもんですか」 アレイナは拳を握りしめた。

「来たるものって?」 ハルは尋ねた、真剣に。

「わからない」

 アレイナは鼻を鳴らしたが、ハルは取り乱さなかった。その言葉を心に留める何かがこの女性にはあった。

「正確なことはわからない、でもね」 その女性は言って、祭壇とパルター氏を示した。「私は十分に見たわ。そしてお前たちも、ここにあるものは狼男より悪いとわかったでしょ。まもなくこの世界は私達を必要とするでしょう。私達の咆哮を、群れの力を歓迎するでしょう。どのような脅威であろうと、戦える力になれるのは私達だけ」

「ウルヴェンワルドを脅かすものが何であろうと、あたしらは戦う」 アレイナが言った。「敵が何かは関係ない」

 その女性は溜息をついた。「もしここに留まれば、死に直面することになるわよ」 そして彼女はハルの上着を肩から落とした。「今夜はお前達を殺さないでおく、ただ私が、一人の人狼がそうしたかったから。それを覚えておくか忘れるかはお前たち次第よ。だけど覚えときなさい、私は去れと助言したことを。ウルヴェンワルドから出て、二度と入ってくるな。そして祈れ、お前たちにできるのはそれくらいよ」

「あたしらはそんな事は――」 アレイナは言いかけたが、その女性は既に狼の姿に戻っていた。彼女の変身はハルが他の獣人で見たような暴力的な、膨れるような変身とは似ても似つかなかった。この女性は普通の人狼ではない。唸り声一つを残し、彼女は二人に背を向けて森の中へと滑るように消えた。

 暗い森の奥深く、ハルとアレイナは差し込む月光の中に立っていた。あの這うような感覚がまたも戻り、ハルは指を背骨に走らせた。身体の震えが止まらなかった。その感覚は獣人からではなく、何か完全に違うものだった――ハルがまだ知らない、理解もしない何かの。

 アレイナが彼女を見た。走ろう、その目はそう言っていた。だがハルはどちらへ向かうべきか定かでなかった。


 アーリン・コードはもつれた木々の間を駆けた。馬鹿な人間。何故あんなにも盲目なのかしら? いつの日か彼女らを殺す必要にかられないことを願った。彼女らは荒々しく強い。それは価値のある特質。別の人生があったなら、二人とは友達になれたかもしれない。だがこれはその人生ではない。この人生に、アーリンが友を得ることはない。

アート:Winona Nelson

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)

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プレインズウォーカー略歴:アーリン・コード

次元概略:イニストラード

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