溢れ出る記憶

更新日 Magic Story on 2018年 1月 10日

By R&D Narrative Team

クメーナ

 形成師クメーナは下生えの中を駆けた。鼓動が高鳴っていた。魔法はほとんど使っていなかった――そこかしこを僅かに突くだけで、下生えは彼の通過を妨げるどころか通りやすくなった。ティシャーナ師はもっと強力な呪文術でまっすぐに自分へと向かっているのだろうが。

 感じることができた。不滅の太陽が眠る地、黄金の都オラーズカは近い。競争相手らは遅れており、勝利は間近だった。

 クメーナはすぐ近くの川へ飛び込み、流れに乗って泳いだ。黄金の都の力は更に近づき、増大し、どこか輝きを増したように感じた。前方に座す巨大な構造物の上を流れる水の音が聞こえた。驚いたことにそれは滝だった――ごく最近、水の流れが変えられたかのようだった。

 川幅が広がった。その先で流れは巨大な滝となって落ちており、クメーナは黄金の露頭まで進むと泳ぎを止めた。流れの深さは踵ほどで、前方の谷の梢からは見たこともない黄金の尖塔が突き出ていた。

 彼は笑みを浮かべた。ついに!

 薄い半円形の峡谷を挟んだ岩棚に、黄金の尖塔が密林から伸びていた。

 クメーナは峡谷の縁まで移動した。水は遥か下方に流れ落ち、地下の川へと運ばれていった。この見えざる水路はどれほど長く大きいのだろうと彼は訝しんだ。大いなる川すらも凌駕するのだろうか? イクサランの地表下には、どれほどの力が隠されているというのだろうか。

 オラーズカそのものも巨大、だが彼はその光景にとらわれたままでいた。(形成師、名を同じくする川の体現である彼が!)クメーナはこの地に秘められた魔法と、それをここまで長い間隠していたこと自体に感銘を受けた。彼は辺りを巡り、やがて入口を発見した。巨大な階段、その頂上には壮麗なアーチがかかっていた。

 鼓動が高鳴り、鰭が震えた。この数百年間、この階段を登った者がいただろうか? 一人として? 元々の目的は? 何故これは築かれたのだ?

 違う、何故ではない。理由は知っていた。この時のために、自分が登るために築かれたのだ。足元の石が力に波打ち、だがそれは彼自身の力が反響したものだった。

ハダーナの登臨》 アート:Titus Lunter

 遂に、クメーナは黄金の都へと昇った。

 階段頂上のアーチに辿り着き、輝く太陽に彼は半ば目を眩ませた。

 黄金。それはまさしく黄金で築かれていた。

 だが彼の興味をひいたのは黄金ではなかった。影の中から幾つもの目が見つめていた、この奇妙に清純な廃墟を住処とする動物が。それらもまた、クメーナに興味はないようだった。

 彼は黄金の都へ踏み入った。自身の力が増大するのが既に感じられ、今や競争相手も遠くない背後に来ていることを確信していた。あらゆる表面から光が輝き、陽光が彼の皮膚を温めた。我が家に帰ってきたかのようだった。

 クメーナは突然の確信に襲われた。不滅の太陽が鎮座する場所がわかった。それは発見される時を待っていた。

「クメーナよ」 黄金の城壁から、囁き声が届いた。「形成師クメーナ、大いなる川の子、そなたの民の導き手よ。来たれ、そして我を解き放て」

 そんなことが? ずっと、黄金の都は要塞ではなく牢獄だったというのか?

「誰だ?」 クメーナは叫んだ。「何故私を知っている?」

 振り返ると、輝く黄金の表面に何かが動いたのが確かに見えた。それが何なのかまではわからなかった――動物でも人でもなかった。警戒しつつ、ただ光が見せた錯覚かと彼は訝しんだ。

「よく知っておる」 その声は低くなった。「我がもとへ来たれ」

 知った声だった。

「どうやってだ? お前は何者だ?」

 黄金に、映るものがあった。ここにはないものが。顔?

「耳を澄まし、見よ、そして従うのだ」

「何者だ?」

「知っておろう」

 低く威圧的、それは導く者の声だった。彼自身の声だった。

「これは錯覚か? それとも私は狂ってしまったのか?」

 幾つもの顔もまた彼のそれだった。千もの小さな黄金のクメーナが光り輝き、その目を向けていた。

「否。クメーナよ、ここに座すは力。目的を与えられた力……だが同時に、内なる力を増すための力。静かなる池。闇の中の鏡。それは無力……」

「……私自身の力を映し出さない限りは」 クメーナはそう言い終えた。「そうか?」

「従うのだ」 その声を、黄金に映ったクメーナ達が繰り返した。「従うのだ」

「今一度問おう、何者だ?」

「クメーナよ、我は太陽。そなたもまた。従うがよい」

 それは彼自身の全力の信念とともに下された命令だった。

 迷宮が彼の前に伸び、石と金の曲がりくねった廊下が彼方まで続いていた。クメーナは踏み入り、瞑想的な恍惚状態の中、しかし着実な歩みで進んだ。角を曲がり、折り返し、不滅の太陽の声を追った。一歩ごとに、力が増していった。あらゆる表面が眩しい光に縁どられていた。

 眩しすぎた。暑いほどだった。鰭は縮れて乾き、鰓が乾いていった。それでも空の太陽は未だ動かなかった。

 中央の塔、巨大な神殿へとクメーナは近づいた。力が隠されていることを感じながら、彼は周囲を歩いた。片側には巨大で精巧な扉があり、壮麗な印と複雑な鍵で閉ざされていた。だがもう片側、広大な中央広場に面する側には、簡素な扉とその先に簡素な階段があった。頂上への道が。

 寒くもないというのにクメーナは震え、そして困難が最も少ない道を選んだ。

 彼は階段を登りはじめた。

 鰭の足を一歩また一歩と上へ進め、やがて頂上へ到達した。

 そして彼は小部屋に入り、不滅の太陽をじっと見つめた。それは彼が予想していたようなものではなかった――黄金に囲まれた鈍く輝く石、そしてなんと床に埋め込まれていた。巨大な窓がその先の都へと開かれており、不滅の太陽の上に立ったなら、都全体を見渡せそうだった。不滅の太陽は床の珍しい模様といったようなもので、だがそれは光ではなく、まるで……鏡のようだった。光は、彼だった。

 今、理解した。

 クメーナは不滅の太陽の上へ踏み出し、その力を、彼の力を手にした。足元の床が揺れ、視界もまた動いた。

 彼は広大で、全てを網羅していた。生涯をかけて研鑽してきた形成の魔術は今や、自分の力の一片程度にしか思えなかった、子供が掘った砂のようなものだった。オラーズカとその先の全てを感じた。川守りは何と愚かなのだろう、ずっとこの力を使わずにいたとは!

 都は隠されていたが守られてはいなかった。競争相手は既に自分を追ってこの中央の塔を目指しているだろう。自分はいとも簡単にオラーズカへ辿り着いた、彼らもすぐに来るだろう。蟻のように這うそれらを感じ、とはいえそれはまだ小さく遠く、各人を判別するには至らなかった。

 操作するように指を曲げると、取り囲む岩から離れるように都が伸び上がった。地面が震えた。何世紀もの間隠されていた尖塔が密林から伸び、背後の小峡谷は広く深く割れ、都を濠のように囲んだ。川の水がそこに注ぎ込んだ。地下の黄金の鉱脈が露わになって輝いた――途方もない富、だがクメーナには意に介さなかった。彼にとっては無益な金属、都の不合理なほどの富の僅かな一部であり、彼には必要性も利用価値もなかった。

 都に潜む生物らが身動きをした。その向こうの蟻らは慌て、急いだ。

 誰もが先を争って黄金の都を目指していたが、その競争は終わった。オラーズカを巡る戦いが始まり、そしてクメーナは自らの民がイクサランの地表から拭い落される様を見るつもりはなかった。逆だった。全くもって逆だった。今や、正当に自分のものを手にしたのだから。

 外に、周囲に、黄金の光に浴し、クメーナは笑い声を上げた。

クメーナの覚醒》 アート:Zack Stella

 だがその笑い声は背後からの音に遮られた。

 不滅の太陽の上に立つ肉体で振り返ると、一体の吸血鬼と目が合った。

 その女は歯を見せて笑った。襟元は乾いた血に覆われていた。

 クメーナは爪先に力を込めて身構え、警告した。「吸血鬼よ、これはお前が奪えるものではない。征服者がたった一人で私に敵うものか」

「二人ではどう?」 その女性はからかうように言うと肩越しに尋ねた。「マーブレン・フェイン、貴方はどう思う?」

 返答する声があった。「そうですな、マガーンの鏖殺者殿はその道を塞ぐものを清める。教会の目は確かです」

 二人目が階段を登ってくるのが見えた。高司祭、長く流れるようなローブに身長よりも長い杖。クメーナは不安になった。

 二体の吸血鬼が彼へ襲いかかった。

 クメーナは防御の呪文を唱えようとして、だが床に突き倒された。吸血鬼らは掻きむしり、噛みつき、その剣がクメーナの脇腹を長く切り裂いた。彼は二人を振り解こうとしたが、何度押しのけようとしても掴まれて顎を鳴らされた。マーブレン・フェインとヴォーナは彼を引き寄せ、ぎらつく歯が首筋に迫った。

 私はこんな死に方はしない。吸血鬼が私の血で満たされるなど許さない!

 クメーナは奮闘し、二人に掴まれてもがき、窓の外を見た。

 ヴォーナが上から笑った。「私達の神聖なる任務を支えたくないの?」

 クメーナがその顔へ唾を吐くと、笑みは更に広がった。

「それなら、別の死に方をしなさい」 軽蔑の声。

 ヴォーナは異常なまでの膂力で彼の肉を掴み、クメーナが反応するよりも速く、窓から彼を投げ捨てた。

 クメーナは両目を見開いた。窓から落ちながら、上でヴォーナが躁的な悪意の笑みを向けているのが見えた。

ヴォーナの飢え》 アート:Zack Stella

ヴラスカ

 ジェイスは苦しみながら砂洲に横たわっていた。その髪は自らの血に汚れ、その目は制御不能の魔力に輝いていた。

 ヴラスカは彼へと泳ぎ、濁った水を吐き出して滝の飛沫に目を狭めた。滝の底には尖って巨大な岩があった――ジェイスが生き延びたのは全くもって奇跡だった。

 深刻な負傷が記憶を失わせる、もしくは問題解決を難しくするとヴラスカは知っていた。彼女が若かった頃、オクランの暗殺者仲間の一人はそのような傷を負った後、気短になった。ジェイスはテレパスで幻術師、つまりその脳は彼の道具だった。その道具が傷を受けたらどうなるかを今ヴラスカは目撃しているのだった。結果は弱体化ではなく、閉じ込めていた記憶の栓が取り除かれたのだと。彼は今や記憶を途切れ途切れに撒き散らしていた、明らかにそれらを制御しようと苦しみながら。

 終わった、ヴラスカの心によぎったのはその想いだった。あいつは全てを思い出しつつある――自分達の戦いを、私の職業を、あいつの地位を。きっと、私を憎むだろう。ゴルゴンは嫌われるもの。ヴラスカは苦しみ、それでも友へ向かって泳いだ。胸の内に生まれた悲しくてたまらない想いとともに。

 岸辺はすぐそこだった。鋭い痛みがこめかみを突き、ヴラスカは呻いた。また別の記憶が心に現れた――

海門の残骸》 アート:Zack Stella

 その映像は、ヴラスカが訪れたことのない次元のものだった。荒れ狂う空に映える、白煉瓦の巨大な壁。門の右側は奇妙な虹色の模様に汚されていた、まるで巨大な刷毛がその上に病を塗りたくったかのように。入口は裂けており、粉々になった港へ海水が流れ込んでいた。そして破壊された門の瓦礫が浮かび上がると空へ向かっていった。

 映像に心を引き裂かれ、ヴラスカは苦痛に悲鳴を上げた。それはまるで凄まじい片頭痛のようだった。水の流れの中でもがく筋肉を凍りつかせるような、突き刺す痛みと気配のひらめき。

 見せつけられているというより、連れて行かれたようだった。まるでその場にいたように感じた。

 足先が川底に触れると、映像は消えた。彼女はジェイスの名を叫び、気を逸らそうとしたが無益だった。

 彼はまだ苦しんでいた。

想起横溢》 アート:Magali Villeneuve

 ヴラスカは水から身体を引き上げ、這うように岸のジェイスへと向かった。そしてその隣に膝をつき、安心させようと手をぎこちなく伸ばした。

 だがヴラスカはよろめき、地面に手をついて自らの身体を支えた。

『ジェイス――』

『――ヴラスカさん――』

 ヴラスカはきつく目を閉じた。自分がどちらを言ったのかも完全には定かでなかった。混乱しきっていた。

 額に皺を寄せ、彼女はジェイスを見つめた。「ジェイス、誰かが都を目覚めさせた。そいつを見つけないといけない。幻影を作りな、私らの場所が皆にわかるように!」

 精神魔道士は目を固く閉じ、ヴラスカはその記憶から溢れ出たものを見た。

 川の水音は消え、密林の熱い空気は冷え込んだ。

アート:Karl Kopinski

 そこは暗い部屋だった。鋼が縁どる壁、そして半ば金属の男がいた。大気には強い金属臭が漂っていた。彼女は僅かな明かりの中で、その奇妙な男の腹部の金属部分に隙間が空いていることを見分けることができた。その向こうの床にジェイスがいた。痩せて厭世的、今よりも数年だけ若く見えた。

 その男は片膝をつき、輝く金属の拳でジェイスの髪を掴み上げた。

「失敗したらどうなるかを心から学んでもらわねばな」

 ヴラスカが見つめる中、その男はジェイスの上着をたくし上げるとマナブレードを押し付け、長くまっすぐな傷を背中につけた。そして右上腕にももう一本。ジェイスが悲鳴を上げると、彼女は恐怖に縮みあがった。喉で息が詰まり、心臓はまるで籠に閉じ込められた鳥のように暴れた。それは拷問だった。彼女はぞっとする罪悪感を覚えた――彼も同じ傷を持っていると、何故わかっていなかったのだろう? 共感に胸を掴まれ、ヴラスカは震える息を吐き出した。ジェイスとそのナイフの光景はあえて触れずにいた自身の記憶を呼び戻した。今じゃない。こんなふうに記憶が混ざった時じゃなければ。

 現実のジェイスが喘ぎ、ヴラスカの認識もイクサランの陽光の岸辺へ翻るように戻った。彼は身体を二つに折り、血に染まった自身の髪を両手で掴んでいた。

 どうすべきかヴラスカはわからなかった。安心させてやりたかったが、方法はわからなかった。そのため彼の認識を取り戻させようと語りかけた。

「ジェイス、それは昔の記憶だ――大丈夫だ、今起こってることじゃない」

 ヴラスカは眩しく揺らめく光を見て、またも深い痛みを頭に感じた。これは次の感覚的侵害の合図であり、衝撃に備えるべきだと彼女は把握していた。次の幻影がやって来ると、彼女はよろめいた。世界が裂け、水のように流れ、やがて薄暗い路地の幻へと定まった。

 ヴラスカは安堵の溜息をついた。見知った光景。再びラヴニカが目の前にあった。

グルールの芝地》 アート:John Avon

 目の前のジェイスは哀れを誘うほどに子供だった。

 せいぜい十五歳ほどの彼は、瓦礫の中の壊れた椅子に座していた。木々や壊されてまもない建造物の多さに、この地域はグルール一族支配下の一つだとヴラスカはわかった。吊るされたぼろぼろのカンバス布から火明かりが透けており、彼の傍ではやつれた見た目をしたグルールのシャーマンが手に魔法を灯して忙しく動いていた。シャーマンの両腕は肩から手首まで、下町で見る刺青に覆われていた。

 少年のジェイスは椅子に座ったまま、消え去りたいと思っているような、同時に目を引きたがっているように見えた。その衣服は乱れており、見慣れない裁断だった。記憶の骨組みから、このジェイスは初めてラヴニカにやって来たばかりだとヴラスカは察した。

 グルールのシャーマンの手は眩しい白色に輝いていた。「初めてか?」 その男は不機嫌そうに尋ねた。

 ジェイスは不自然に長考した後、おずおずと返答した。「はい」

 この記憶にヴラスカは微笑まずにはいられなかった。こんな臆病そうな少年は見たことがなかった――格好良い刺青を入れたがっているに違いなかった。とても可愛らしかった。彼女は街路をうろついて生きた若いころを思い出し、にやりとした。少女の自分と少年のジェイスがつるんでいたらどんなことになっていただろう?

 街を引き裂いてやっただろうね、彼女は陽気にそう思った。無事でいられる本屋なんてないよ。

「なら、それを飲みな」 シャーマンは記憶の中でそう言い、少年ジェイスの左にある瓶を指さした。「ラクドスの馬鹿騒ぎみたいに痛いぞ」

 ジェイスがその芸術家の指導に従うのを見て、ヴラスカは笑みを漏らさずにいられなかった。彼はその味に顔をしかめ(それは責められない)、決意の表情を固めた。

 シャーマンは身体を乗り出し、その指でジェイスの頬に一本の線を描き、鮮やかな白の刺青を残した。そして顎と腕に続け、一生懸命に描くと同時に、神経質な少年の顔を勇敢なそれに変えていくのをヴラスカは見つめた。

 シャーマンが参照する紙を彼女は垣間見ることができた。一連の模様が荒く描かれていた――未来のジェイスが纏う外套の、あの模様が。引き延ばされた輪、底が開いて、その中央に浮かぶ円。何を意味するのだろうか。

 その幻は砕け、そして消え、滝の音とオラーズカの揺らめく黄金が続いた。

 ヴラスカの知覚が揺れた。まるで不測の幻影が今なお現実を塗りつけているかのように、全てに作りもののきらめきがあった。彼女の両手は今も岸辺の泥を掴み、現実へと物理的にしがみついていた。

「ジェイス、もう大丈夫だ。けどお前に幻影を作ってもらわないと、皆がこっちを見つけられるように」

 だがその声はまだジェイスに届かずにいた。その両目は今も魔力に輝いたままで、四肢に力は戻っていなかった。途切れ途切れの呼吸とともに、その胸が上下するのがヴラスカには見えた。鋭く息を吸うと次の記憶の波が彼に襲いかかり、そして見ているものに反応し、驚きに唇を開いて完全に沈黙した。

 新たな記憶から生まれた幻が凝集すると、二人の頭上の光は弱まり、夕闇の重苦しさと熟れすぎた林檎の匂いを運んできた。

 小さな寝室、むき出しの壁、暖炉の前に置かれた二つの椅子。どこの次元かはわからず、だがそれは無意味だった。この部屋そのものが一つの世界、家具は大陸、絨毯は海、まるでその外の空間は何ら意味を持たないかのように。窓枠には埃が溜まり、扉の脇に置かれた半ば空の果物籠には、傷のある林檎が幾つか入っていた。もちろんジェイスはそこにおり、その顔は心地の良さそうな炎に照らされていた。記憶の感触は滑らかで友好的、だがヴラスカはその場面に喜びは何も感じなかった。

 ジェイスは暖炉の前に座っており、その向かいには紫に身を包んだ女性がいた。

アート:Mathias Kollros

 その女性は全身から退屈を漂わせ、だがジェイスは身を乗り出して熱い関心を放っていた。ヴラスカはとても居心地が悪かった。これは親密な時間。こんな場面を見るつもりはなかった。

「もうチェスをやりたいとは思わないよ」 ジェイスはそう言って、額を掻いた。

 その女性は全くの無関心とともにジェイスを見て、鈍い同意とともに言った。「チェスは退屈」

 ジェイスの外套はコート掛けに吊るされ、靴は暖炉で乾かされていた。見ているべきではないとヴラスカは察したが、去ることもできないともわかっていた。

 ジェイスの左人差し指が無意識に素早く腿を叩いた。その声はためらいがちで不確かだった。「イニストラードで言ってくれただろ、その、俺が死んだなら……」

 その女性の長い髪が顔に半ばかかった。一日の終わりに口紅は薄れ、その両目は無関心とは程遠く、このジェイスが気付いていることをヴラスカは願った。

「あの話を覚えているの?」

「あんな話、忘れろって方が難しいよ。君はそうするつもりがない限り、感情的に世話なんて焼かないだろ。だから……本当にそうなのか?」

「何が?」

 ジェイスは止まり、言葉を選んだ。「俺が死んだら悲しい?」

 ジェイスはその紫をまとう女性を熱心に見つめていた。期待を込めて。その質問の奇妙さに、ヴラスカは気分が悪くなるのを感じた。まるで不確かであるような問いかけ、とはいえジェイスを取り巻くこの状況は、彼とこの女性は知人以上の関係であると示唆していた。

 紫の女性は横座りに膝を休め、眠そうな目でジェイスと視線を合わせて言った。「そうね」 半ば感傷のように。愛玩犬に与える骨のように。「あれを、あなたがそう呼びたいなら……少なくともそのくらいはあるわ」

 それだけ? ヴラスカは唖然とした。愛情を求める真摯な嘆願を、残酷に払いのける。この場面はヴラスカへと告げていた、とにかくこの女性について把握しなければいけないと。触手が当惑にうねり、だがこの哀れな男から、この女性から、この小さな恐ろしい部屋から目を離せなかった。

「君がくれた言葉としては、最高のものじゃないかな」 ジェイスはそう返答した。

 紫の女性は笑い声をあげた、まるで冗談を聞いたかのように。貴女の同意が欲しい、そう顔に書きながら必死の熱望とともに言ったのではないかのように。

 親密な時間を侵略しているとヴラスカは感じた。とても危うい、この内密なやり取りは他人が見るものではなかった。

「戻った方がいいわよ。今夜帰らなかったら皆気付くでしょ」

 ジェイスは肩をすくめた。「まだ日が沈んだばかりだよ。時間はある」

「ふうん」 明らかにその心に何かを検討しながら、その女性はジェイスを眺めた。

 女性は不意に立ち上がり、部屋を横切って棚へ向かった。ヴラスカは脇に避け、その女性が引き出しを開けるのを見つめた。彼女は一本の酒瓶と二つのグラスを取り出し、炉辺へ戻ると優雅な動き一つで巧みに瓶のコルクを抜き、そして尋ねた。「何に乾杯しようかしら?」

 帰って欲しい相手のグラスを満たすなんてことはしない、ヴラスカは愕然とそう思った。

 ジェイスは微笑んでいた。「エムラクールに乾杯を」 それは皮肉だった。「俺達に俺達のやるべき事をさせてくれた」

 その女性は半ば満たしたグラスを掲げ、彼のそれと打ち鳴らした。

 そして二人は喉を鳴らすほど飲んだ。

 女性はグラスの縁まで再び満たした。

 そして二人は黙ったまま飲んだ。

 暖炉で炎が音を立てていた。

 ヴラスカはこの女性から目を離すことができなかった。チェスを嫌いながらも、達人の冷たい観察眼で確かにジェイスを見つめていた。

 やがて紫の女性は手順を決め、無気力な一口に隠して探りを開始した。「あれから佳い人はいたの?」 ヴラスカは「あれから」に込められた重みを察した。名称、共有する知識。「あの空民の女の人といい感じだったじゃない」 意図的にそう付け加えて。ポーンをEの4へ。

 会話の背後で進む駆け引きに、ヴラスカはこの部屋の出口を引っ掻きたくなった。

 ジェイスはグラスの液体を回し、その物腰が不意に揺らいだ。彼は紫の女性を上目遣いで一瞥した。「人妻だよ」

「そうなの?」 表面上はその事実が嬉しく響くように、女性は言った。同時にその隙はとても攻撃的だとよく知りながら。ナイトをFの3へ。

 ジェイスの頷き。「あの人は学者だよ。道徳的によくわからない。人妻。それにさ、あの人がそうじゃなかったとしても、俺が言いたいのはそういうことじゃないし」

 紫の女性は彼をじっと見つめた。

「ならどういうことかしら?」

『この女はお前を引き留めようとしてるんだよ』、ヴラスカは叫びたかった。お前は賢いだろ、この女はお前の想いに報いはしない。罠にはまるんじゃない。

 ジェイスは椅子に背を預け、グラス越しに女性を見つめた。多大な狼狽と論理に欠けた思考に、返答が口をついて出た。「そんな悪いことじゃないよ」

『悪いよ!』 ヴラスカの心が痛んだ。だが彼は誘惑のカーテンの向こうへ行ってしまい、退屈で残酷な熱意を目にしている。もう引き戻せなかった。

 女性は返答した。「今はただの昔からの友達同士が、勝利の後に寛いでいるだけ。古き良き日々を懐かしんでいるだけ」

 ジェイスは無意識に右の手袋を引いた。「いい事ばかりじゃなかった」

「私達、どちらにとってもね」 抑えた、危うい声色。

 その瞬間、遊戯は変貌した。チェス盤は床に投げ捨てられ、卓にあるのは隠喩の賽。この女はもう一戦を、もう一声を面白半分に誘うギャンブラー。いらっしゃい、そこの貴方。最悪なことが起こるかもね。

「今は違う関係」 紫の女性が付け加えた。「でもまだ帰る必要はないわ」

 ジェイスはグラスから顔を上げ、期待に満ちた目で視線を合わせた。

 女性は互いのグラスを満たし、自分のそれを掲げた。「古き良き日々を新しく」

 そこで幻影は消えて岸辺へと戻り、ヴラスカは安堵した。

》 アート:Dimitar

 ヴラスカは吐き気を感じた。ジェイスの人生はずっと、彼自身やその力を利用しようとした奴ばかりだったというの?

 彼女はその不安を抱いた。追憶の攻撃は緩まなかった。「ジェイス、ごめん、最後のを見るつもりはなかった。でもあの女性は……」

 かすかな咆哮がそれを遮った。遠く、だがあまりに巨大な音にヴラスカは固まり、身構えた。彼女は立ち上がり、その音が聞こえた方角を見つめた。恐竜には違いないだろう、だがそれほどの大きさが?

「ジェイス……ここから動かないと」

 ジェイスは驚きに喘ぎ、その両目は今も自身の魔力が溢れて青に溢れていた。彼は一つの単語を喉に詰まらせた。「ヴリン――」

 ――そして巨大な輪状構造がヴラスカの視界に瞬いた。

魔道士輪の魔力網》 アート:Jung Park

 この場所をヴラスカは美しいと感じた。文明の隅の、砂だらけの開拓地。疑いようもなくわかった、ここはジェイスが生まれた次元。

『ジェイス、今もお前と同じものを見ている。どうやってお前を助ければいいかわからないんだ!』 ジェイスがそれを聞いてテレパスで反応してくれることを願い、ヴラスカは必死に心で伝えた。

 返答として彼女が感じたのは、完全な絶望が映し出された波だった。

 ジェイスは完全に制御不能だった。古く、深い記憶が心から溢れており、その奔流を追うのは困難だった。

 女性の顔。血色のよい肌にそばかす、疲れた目の後ろで栗色の髪がまとめられていた。小さな台所を行き来しながら、歩き始めの子供へと筆記帳の内容を読み上げていた。夕食のために野菜の皮を剥きながら、新しい治癒技術について熱く語っていた。皮がひとひら、栞のように本の頁に落ちた。

 その場面はスミレの香りに浸されていた。魅力的な女性だった。今回はジェイスの過去を見ることが気にならなかった――心地良い記憶だった。

 同じ女性が再び現れ、この時は子供の足に靴を履かせようと奮闘していた。幼子はすすり泣いて足を蹴り上げ、だが突然屈みこむと自身の靴紐をぎこちない手で結びはじめた。母は驚愕した、やり方を教えたことなんてないというように。

 映像は更に素早く過ぎていった――その女性が繰り返し現れた。

 コートを着て。

 髪を梳いて。

 壁を修理して。

 解剖学の教本の端を折って。

 息子の寝台の下を調べて。

 涙を拭って。

 打ち身傷に口付けをして。

 出来事のごた混ぜは更に混沌としていった。一人の男性が不機嫌な声で力説している。特待生になれば街へ行ける。怠けるな、息子よ。

 いじめっ子の嘲り、粘つく唾。

 学術的テレパス用語の連打――ホルムベルグの誤信とシソッコの法則と小規模及び大規模の回顧的処置、

 最初の次元渡りを忘却させられていたこと、

 二度目も、

 そしてその次も、

 何年もの訓練と改竄と精神への侵害、その度に、自分は何なのかを思い出す――

 現実のひらめき――本物のジェイスが地面に屈み、両手で髪を掴んで額を土に押し付けている。彼は追体験に消耗しており、ジェイスの心は幾度となく改竄されてきたのだとヴラスカは恐怖の内に悟った。精神魔術に熟達したのは僅か十三歳の時(ヴラスカは震えた――たった十三歳であんなことが?)。奪われていたとわかった、何度も改竄されていたかを知った彼の怒りと悲しみ。

 それをもたらし、圧倒し、支配する……それは、スフィンクスだった。

 周囲の世界が不意にせり上がり、夕闇の屋上となった。

 ヴラスカの知覚が揺さぶられ、ジェイスの目を通して彼女はその記憶を見た。

 あの巨大な輪が列を成して彼方へ続いていた。空は怒れる赤色に変わり、大粒の雨は打ちつけるように降り、そのスフィンクス、アルハマレットは目の前で攻撃の体勢にあった。服の下に彼女はジェイスの打ち身傷を感じ、噛みつくような冷気にもかかわらず、首筋には恐怖の汗があった。

 ジェイスの過去の怒りが胸に渦巻くのを感じた。師がいかにして彼を裏切ったか、改竄したか、彼を教えるべき生徒ではなく有用な道具という型にはめたかを知った。少年の言葉とともに口が動くのを感じた。声は男性のもので、だが若く、声変わりを過ぎたばかりのそれだった。「俺の限界を示してよ。俺から情報を探り出してよ」

 スフィンクスは後ろ脚で立ち上がり、ヴラスカは互いが互いの心へ飛び込むのを感じた。

意思の激突》 アート:Yan Li

 アルハマレットは凍りついたようで、その心は本棚のように開かれていた。脳の奥深くは無形の、かつ複雑な構造をしていた。大理石が張られた、まるで果てのない井戸。ヴラスカは呆然とし、自分のものとあまりに違う魔法を振るうことがいかに奇妙に感じるかを知った。アルハマレットの心、その奇妙な大理石の井戸が攻撃に映るのを彼女と過去のジェイスは共に感じた。秒にも満たぬ間に、本能の一瞬に、ジェイスは自身の心を防御した。彼の力は目に見えないものとして前へ放たれた。まるで拳のように、槌のように、そして何度も繰り返し打ちつけられる破城鎚のように、その全力をスフィンクスの脆い心へと狙いをつけ、壊すために。

 アルハマレットの精神内でその攻撃は、あらゆる爆発よりも破壊的で、あらゆる地震よりも壊滅的で、あらゆる隕石よりも惨事をもたらした。知覚をつんざく猛烈な内破によって、摩耗した大理石の井戸は激しく自壊していった。

 だがジェイスは熱心に攻撃しすぎた。あまりに強く、そして彼自身の記憶も精神的破壊の過程で引き裂かれていった。

 長く間延びしたすすり泣きに、ジェイスとヴラスカはスフィンクスの心から激しい雨の打ちつける屋上へと引き戻された。その巨体はかしげ、両目は混乱に見開かれていた。アルハマレットは手で大気を口に入れようとし、押し出そうとし、叫びはじめた。それは幼児が怯える叫びだった。あまりに大きく騒々しく、ひどく聞き慣れない、世界へと怯えるすすり泣き。

 彼は何らかの作用から四肢を動かせないらしく、更に叫び、巨大な翼が屋根のコンクリートを叩いた。吼えるごとに彼は更なる空気を求めて喘ぎ、そして息を吐くごとに、その恐怖と混乱が声になった。

 過去のジェイスは自身の記憶を閉ざされて膝をつき、すすり泣くスフィンクスの頭を両手で掴みながら、アルハマレットの心の残骸を感じていた、その破片を繋ぎ合わせようとするかのように。

『俺がやったんだ』 彼女はジェイスが自らへ向けた言葉を聞いた。『俺がこれを』

 スフィンクスの悲鳴は止まなかった。彼は目を見開いたまま、自身の生命の危機に泣き叫び続けていた。

 ヴラスカはジェイスの恐慌を感じた。アルハマレットは彼を破滅させ、乱用し、繰り返しその心を裂いた。だが今、スフィンクスは死よりも悪い運命を被っていた。アルハマレットは死に値する、けれどここまでの報いを受けるべき存在は何もない。

 その瞬間、ヴラスカはジェイスが本能的にプレインズウォークしようとするのを感じた。ジェイス自身の損なわれた心は今も能動的に閉じこもっていた。それはまるで尖った岩の通路を駆けて通るようなもので、速度を上げてプレインズウォークで逃げようとするほどに、更なる記憶が両脇で引き裂かれ、心からこそげ取られて剥がれ落ちていった。

 そうして彼は母親の顔を、家族を、故郷を、過去を失った。

 残ったものはスフィンクスの襟周りの映像だった。引き延ばされた輪、底が開いて、その中央に浮かぶ円。記憶の布地にそれは残された――彼と共に残されたただ一つの記憶。ヴラスカは悟った、その模様は彼が自身の名を覚えておくための、本当に唯一の手がかりなのだと。

 ヴラスカは自身が起こされて記憶から荒々しく追い出されるのを感じ、そして世界の幻影は急速に去って消えた。息を吸うや否や、彼女は滝の側の岩と泥に、陽光とオラーズカの尖塔が見下ろす中に立っていた。現在のジェイス、彼女の知るジェイス、幻術師にして海賊にして一人の仲間は、岸辺にて悲嘆に我を失っていた。

 ヴラスカは即座に駆け寄り、その腕にジェイスを抱え上げた。

 彼は一生分の涙にむせび泣いていた。

 彼女はジェイスを強く抱きしめ、胸元にその頭を抱え込んだ。自ら望んで他者に触れたのはこの数年で初めてのことだった。その感覚は異質で不安、だが断じて必要なことだった。腕の中でジェイスは泣き続け、彼女は更に強く抱きしめた。彼は人生の半分以上を、子供の頃の記憶を完全に失って過ごしてきたのだ。あまりに多くのことを忘れて。あまりに何度も忘れて。投獄された時に誰かに抱きしめてもらいたかったその長さ分、彼女はジェイスを抱きしめた。助けを求めて叩かれた回数だけ、彼を強く抱きしめた。彼女は人生のあまりに長い間を孤独に、そして閉ざされて過ごしてきた。だから拒むことなどできなかった、自分と同じように、これほど酷い傷を負ってきた者を慰めることは。

 ヴラスカは顔を上げ、そして自身の幻影を見た。

 汚れた岸辺は大嵐海の勇み立つような日の光に変わった。彼女は船長の姿で、乗組員らが船の清掃をする中、このヴラスカは肺の限りにゴルガリの歌をうたっていた。何もかもが幸せかつ優しかった時間。ジェイスもその変わった旋律を共に歌おうとしたことが、まるで遠い過去のようだった。

 ヴラスカは微笑んだ、彼女もその時を覚えていた。そして彼がその音を外さずに歌えたことに驚いたことも。

 幻影のヴラスカは変貌し、そしてヴラスカの希望も自ら崩れた。

 そのヴラスカの記憶は残酷に、醜悪に、獣のようなものになった。触手が宙に踊り、衣服は影で作られたかのようだった。ラヴニカの石造りがそびえ、ヴラスカはジェイスの目を通して自らを見た。それは二人が初めて出会った時のことだった。過去のヴラスカはジェイスを狙っていたが、ヴラスカには過去の自分に直接狙われているように見えた。仲間に加われ、さもなくば相応の報復を。ヴラスカはジェイスの恐怖を、狼狽と怒りを感じた。彼女の問いかけの意味がわからなかった。何故そんな事をしているのかがわからなかった。わからない、そして彼女を見る目には、ただ殺し屋、獣としてその姿は映った。

 吐き気がした。自分をそのように見るのは嫌だった。世界の全てが自分を怪物のように見る、それと同じ姿だった。目の前のゴルゴンは殺そうとしており、ヴラスカはそのような残酷さをまとう自分を恥じた。何もかもが終わった。ジェイスが全てを思い出し、全てを理解したなら、怪物としか見てくれなくなるだろう。自分達のこの数か月がどんなに素晴らしいものだったとしても。

 その記憶は消え、岸辺が戻ってきた。

 ヴラスカはジェイスを放して後ずさった。激しい涙は落ち着き、疲労が見えはじめていた。幻影は消えた。魔力の輝きは収まった。ジェイスは頭から両手を離し、それを覆う血と川泥の混じったものを見つめた。

 ヴラスカは彼が完全に回復するまで、離さずにいたかった。多元宇宙の彼方の隅へプレインズウォークしたかった。ジェイスの傍にいたかった、だが同時にここから消えたかった。どちらを選ぶべきかを決めかねていた。

 ジェイスは彼女を見上げた。その両目は悲嘆に赤く染まっていた。

「全部見たんですね」 空ろな声。

 ヴラスカは恐怖を感じた。「見たよ、お前が仕舞っておけなかったものを」

 彼はきまりが悪そうに顔をそむけ、記憶が落ち着くと確信とともに言った。「暗殺者、なんですね」

「そして友達だよ」 彼女は率直に、悲しく返答した。

 ジェイスはまだぼんやりとしていた。溢れ出る記憶を塞ぐ手段を見つけたのかもしれないが、彼は思考を内に留めておこうと目に見えて奮闘していた。その声は空ろなままだった。「イマーラ。ニッサ。俺の友達は凄く少ない……」

 ヴラスカの心が痛んだ。何を言うべきか定かでなかった。

 彼は目をきつく閉じ、苦痛に顔をしかめた。自制が戻っていた。蓋がされ、それ以上の感情を見せないよう決心したらしかった。それとも、ただ感情のままに叫ぶのをこらえているだけか。ヴラスカは後者だと感じた――彼はまるで長い距離を駆けてきたかのようだった。待つのが最善だと彼女は結論づけた。ヴラスカは上着を脱ぐと川の水を絞った。打ち身と捻挫を確認し、そして頭上の都へ続く階段へ首をもたげた。その間ずっと、ジェイスは自らを落ち着かせようとしていた。時々彼は記憶の重みに溜息をつき、だが最悪の時は過ぎたようだった。

 彼は慎重にかぶりを振った。「全部思い出したわけじゃないんです。途切れてる所もあります。どうやって記憶を失ったのかは思い出せてません、どうやってここに来たのかも」

「瘡蓋を剥がそうとしない方がいいよ」 ヴラスカは静かに言って、一瞬後に自分の助言の響きがどれほど奇妙で平凡かを悟ったが遅かった。

 あまりに多くの辛い記憶を取り戻したばかりの相手へ、かけられる言葉があるだろうか?

 ヴラスカはジェイスから数歩離れた場所を選んで腰を下ろした。太陽は温かく、衣服の湿気が乾くのを既に感じていた。彼女はジェイスの刺青を見て、それが何のためにあったかを思い出した。アルハマレットの首飾り、彼が自身の名に添えていた模様。少年でありながら、当時のジェイスは賢明にもそれを皮膚に記すことを知っていた、決して忘れないように。

「悪かった。ラヴニカで、お前を殺そうとしたこと」

 ジェイスは心を痛めたように目を閉じ、また別の苦痛を感じて震えた。「何故かを説明してくれたなら、話を聞いていたと思います」 彼は居心地悪く身動きをした。「あの時、俺の気を惹くために貴女が殺した……」

「殺人者、汚染者、悪徳商人、どんな呼び方をしてくれたっていいさ」 彼女は肩をすくめつつ、確固としてかぶりを振った。「そいつらの死を悼みはしないけど、お前に耳を傾けさせる唯一の方法だと思ったことは後悔してるよ」

「俺を殺そうとしたことは、いいです」 ジェイスは柔らかく、正直に返答した。「貴女はそちらにとって正しいと思うことをしたんですから」

 二人とも、次に何を言うべきか定かでなかった。

 ヴラスカは立ち上がって岸辺を歩き回り始めた。新たに露わになったオラーズカの都、ようやくそれをしっかりと見ることができた。

 黄金の城壁と尖塔は密林の最も高い梢から更に空へ伸び、陽光に輝いていた。ヴラスカはその両脇に大きな男性と女性の彫刻を確認できた。都の中央には他を凌駕する一本の塔があった。

 彼女はコンパスを取り出した。思った通りに、光の針はまっすぐにその塔を指していた。

 ヴラスカの場所から、果てしない階段が見えた。それは新しい川の向こう岸から、都へ続くであろうアーチの道へと伸びていた。

 彼女はジェイスを振り返った。彼は異様なほど静かで、その両目は遠くの何かを見つめていた。まるで川岸のその場所に釘付けにされたかのようだった。あまりに重く、どんな風でも彼を悲嘆から離せないかのように。ヴラスカは見つめずにはいられなかった。神童からスパイにされ、犠牲者にされ、強制的に心と記憶の何もかもを取り払われた。奪われ、怯え、それらを餌食とする者に更に奪われ、怯えた。痛めつけられ、無視され、改竄され、その全てにもかかわらず、それでも、彼であり続けた。生き延びてきたのだ。

 それは驚くべきことだった。

「記憶の完全な自分はどんなだろうなんて、考えたこともありませんでした」 疲れた声、だが率直さとともにジェイスは沈黙を破った。「すごく色々な人が、俺を使って誰かを傷つけようとした。そして時々俺は自分の意思でそうした。凄く簡単なことでした」

 それがどれほど簡単か、ヴラスカは直接知っていた。

 彼女は隣に腰を下ろした。

「お前は傷つけられて改竄されて悪用されてきた。その回数だけ死んでいたかもしれない、それでも、お前はしなきゃいけない事をして、生き延びてきた。それはさ、祝ってやりたいくらいの奇跡だよ」 ヴラスカは真摯な感情を向けた。「この三か月を覚えてるか?」

 ジェイスは頷いた。そして確固とした意思で微笑んだ。「俺の人生でも、最高の三か月でした」

 ヴラスカはあえて瞬きをしなかった、そうしてしまえば自分達の間に流れる誠実さの魔法が壊れてしまうかのように。「そのジェイスは、私が会った中でも最高の人物さ」

 ジェイスははっとしてヴラスカを見つめた。その両目には疑念が宿っていた。才気に溢れ、ダガーのように鋭く、炎のように目ざましい彼は、まるでその賛辞が直接自分へ向けられたものだと理解していないように見えた。まるで、彼女の称賛には値しないと自分を決めつけたかのように。

 ヴラスカは言葉に本心を溢れさせた。「私が会ったジェイスは誰とも違って、私の話に耳を傾けてくれたんだよ。それがどれほど特別かってわかるか? 誰も私の話なんて聞いてくれなかったし、そもそも私が耳を傾けるに値する存在だって気にかけてくれる奴すらいなかった」 ジェイスは僅かにかぶりを振り、その瞳には悲哀のきらめきがあった。まるで代わりにそうしてくれたかのように。ヴラスカは続けた。「あのジェイスは信じていたよ、誰だって新しい自分になれるって。あのジェイスはまだお前の中にいて、あのジェイスこそ本物のお前だって私は思うのさ」

「俺がなろうとした者、ですよね」

「なら、そうなれたのか?」

「そう信じたいです、でも思い出したんですよ、何度も沢山の人が俺を利用してきたことを。それなのに、なりたい自分をどうやって選べっていうんですか。俺はどれだけの人を傷つけて……」

「犠牲者になることを選んだ奴なんていないよ」 ヴラスカは口を挟んだ。「お前は弱くなんてない、利用されたって事はそれだけの力があるってことだ。そいつらがお前にさせた悪事はそいつらの映しであって、お前じゃない」

「自分が馬鹿だって思わずにいられません」

「わかるよ。でもお前は違う」

 ジェイスはしばし無言のまま、何かを思い出していた。(ありがたいことに)それはヴラスカの心まで零れてくることはなかった。

「母さんは――」 ジェイスはわずかに口ごもり、そして一息入れて続けた。「母さんは、俺に街に出て学者になって欲しがっていました」

 ヴラスカは微笑んだ。彼女の言葉はゆっくりと、慎重に発せられた。「お前はすごくいい街へ来たじゃないか。そしてすごくいい学者になった」 彼女はそう言って、ジェイスがその簡素な断言に喚起された感情のうねりと戦っていることに気付かないふりをした。

 ジェイスは目を閉じたままでいた。「俺は両親に嫌われてたって思い込もうとしてました。それなら、忘れてしまっても罪悪感はありませんから、それなら、俺がどんな道を選んでも、誰かを失望させてたって感じることはありませんから」

 その正直な言葉に、ヴラスカははっとした。「母親を失望させたって思うのかい?」

 彼は返答する前に言葉を探した。やがて、彼はヴラスカを見た。「俺はたぶん……きっと、母さんに誇ってほしいんだと思うんです」

 そう言い終えた彼の言葉には希望があった。幸福、そう言ってもよかった。この真面目な男は望遠鏡を分解して戻し、背の高い船をその心で隠し、略奪では背中を守って戦い、謎解きと海賊行為を喜ぶ。そんな男だった。

 ヴラスカは微笑んだ。「それなら私が思うに、お前は望み通りの存在になってるよ」

 黄金の階段が頭上にそびえていた。

 ヴラスカは手を差し出し、ジェイスが立つのを助けようとした。彼女はオラーズカへと続く崖に曲がりくねる階段を顎で示した。

 ジェイスはその手をとって立ち上がり、頭痛にひるみながらも感謝を込めて握り返した。彼もその階段を見上げた。

「一年前だったら、あれを登る体力はなかったと思います」 ジェイスは少し誇らしく言った。「もしくは、そんな事をしたら半分で倒れていたか」

「前に会った時は、そんな身体じゃなかったからな」 ヴラスカはからかうように返答した。

「知らないんですか、俺はよく幻影であの姿になっていたんですよ」

 彼女は目を見開いた。「本当か?」

「実は」 ジェイスは認めた。彼は感情を隠すことなく、今も充血したままの両目で、気楽そうに唇を突き出した。馬鹿正直な人間。彼は笑みを浮かべた。「俺はずるい奴だったんです」

『今は違いますよ』、その言葉は口に出されず、だが二人の間に漂った。ヴラスカが彼の笑みを受け止めると、ジェイスは黄金の階段へと向かった。オラーズカへと、一歩また一歩力強く。

(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)


『イクサランの相克』物語アーカイブ

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プレインズウォーカー略歴:ヴラスカ

次元概略:イクサラン

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