裁き
前回の物語:侵入
サムトは試練を、一門を、それまでの人生を捨てた。彼女はここ数日を逃走して過ごし、また世界を変えた侵略者と対峙するまで生き延びようと必死だった。この街はわずか数十年前に道を踏み外したことを知り、彼女は昔からの最愛の友人デジェルにそれを信じさせようと決意する。そして直接の説得が不可能とわかり、サムトは彼を助命できる唯一の神へと向かう。
一つの影すら投げかけることなく、サムトは三日間を過ごした。太陽の光は逃亡者にとっては贅沢なものだった。彼女は隠れ場所から隠れ場所へと駆け、都市の暗い裂け目へ身体をねじ込みながら、天使や選定の死者の視界から逃れていた。
この日、サムトはかつて使われていた不朽の間に潜んでいた。彼女はそこへ飛び込み、乾ききった軟膏や内臓壺が乗ったままの机を蹴り倒し、重い石扉を固く閉じた。そして燭台に火を灯し、待った。
侍臣と選定の死者らが彼女を捕えたのは三日前のことだった。無分別な造反の叫びを聞いた彼らはサムトの腕を掴み、口を塞ぎ、人々の前から引きずっていった。肩の脱臼という小さな代償で彼女は捕獲者を振りほどき、都市の影へと全速力で逃走した。だが何故あれほど軽率な行動をとったのだろう? 何千もの市民が、息詰まるような嘘の覆いを幸福に受け入れている。単純に街路で叫ぶだけで彼らの心を動かせるなど、自分は何故考えたのだろうか?そう、もうそのような事はしない。今、彼女は一人の心を動かすことだけを考えていた。
こする音が扉から聞こえた。彼女は扉を押し開け、塵が舞う光線に目を細めた。人影がひとつ現れた。頭から爪先までを包帯に巻かれた護衛ミイラ。サムトは手招いた。
そのミイラは一歩一歩、足を引きずって入口をまたいだ。それが部屋へ入ってくると、彼女は再び扉を強く引いて閉じた。砂岩と砂岩がこすれ砕ける音がした。
ミイラが彼女へ顔を向けた。きつく巻かれた包帯が松明の光にひらめいた。
サムトはにやりと笑った。「さて。もう私を抱きしめていいのよ」
ミイラの肩がすくめられた。「こんなのは罰当たりだ」 それはよく知る男性の声で呟いた。
「でもここに来るのを見つかったら、私達どちらも殺されちゃうでしょ」
「動くのもやっとだ」 ミイラはそう言って、締め付けられた両肩を伸ばした。「解いてくれ」
彼女は手を貸し、ミイラの包帯を解いた。友人デジェルの健康そうな顔が現れ、彼は残りの変装を解きながら肩をすくめた。彼女が見たかった顔だった。世界にただ一人だけ残る仲間――同門であり、兄弟と言ってもいい存在であり、友だった。
彼女はデジェルの肩に腕を回し、耳へと囁いた。「よかった、生きててくれて」
デジェルはその抱擁を解き、腕を伸ばした距離まで離れた。「どうやって逃げて私を呼び出した? 君は捕まったと聞いた、あの……造反を唱えた後に」
サムトは彼の目を探った。「異説で、そう言いたいのね」
「神々の法に背いたことで」 彼は静かに言った。
「だからあんたをここへ呼び出したの。デジェル、私はもう自由。あんたも自由になれるのよ」
「自由? 何からの自由だ? 私にも法を破って欲しいというのか?」
苦悩。彼の目から見て、それは逮捕される程の罪だということ。デジェルは自分達の友情を捨てる気なのだろうか?「間違ってるのは法よ。神々も」
デジェルはかぶりを振った。「君は王神様にも異議を唱えるのか」
サムトは両手を組んだ。「でも、王神こそ世界を堕落させた張本人なの! 王神よりも前の古い文化があった、試練よりも前の。王神は世界そのものに忘れさせた。世界を作り変えて、自分の思うように神々を作り変えたのよ」
「だから私をここに呼んだのか? そんな物語を伝えるために?」 彼は憤慨に両手を振った。「サムト、私は訓練に行く。激情の試練はもうすぐなんだ。それとも君は忘れてしまったのか。それが修練者にとって何を意味するかを」
「あんたにとって何を意味するのかは忘れてないわ」 彼女はデジェルの腕に触れ、掴んだ。「でも嘘を真実と言うことはできない。あんただってそうすべきよ」
「何を言っているんだ?」
「最後の試練には行かないで」
「サムト」
「自分を投げ出さないで。死を求めないで、ただの――娯楽のために」
「娯楽だと? 君は、私が人生を賭けて求めてきた神聖なる頂点を娯楽と――」 デジェルは即座に気分を害し、憤慨した。
その物言いは誤りだった、痛いほどに。「ごめん、ごめんなさい。ただ――私は見てきたの、侍臣が見て欲しくないものを。私達の社会がどうやって――ねじ曲げられたのかを。世界の骨格が取り除かれて何か別のものに取り換えられた。あんたは自分が蓋世の英雄デジェルだってことを示したいのだろうけど、それはきっとあんたがデジェルをやめるってことよ」
彼はサムトに指を突きつけた。「そうでなくとも、君が私にデジェルをやめさせようとしている。ここまで辿り着くためにやってきた全てを投げ出させることで。私自身を冒涜して神々を冒涜しろと」
彼の心が離れようとしていた。何を言うべきかわからなかった。「神々はあんたに死んで欲しいの? ナクトは、あんたに死んで欲しいの?」 サムトはそう言ったが、それは本当に言ってはいけない言葉だったと即座に気付いた。
「あいつの名前を持ち出すな」 デジェルが言い放った。「ナクトは無価値に死んだ。あの砂漠で、私達が馬鹿なことをしたために。愚かな侵入のために。あいつは今も砂漠を彷徨って、乾いた屍の内臓に噛みついている。あんな過ちは二度とごめんだ」
サムトは叫びたかった――「あんたは只の馬鹿よ! そうやって威張り散らして!」「偽物の王様に騙されるくらいなら死になさいよ!」 だが彼女は声を平静に保とうと努めた。もし叫んでしまったら、街路でわめき叫ぶあの名も無き造反者に戻ってしまう――そしてデジェルを、自滅的なその信念に失わせてしまう。
「デジェル、私たち友達でしょ。ナクトは、人生が突然断ち切られるのはどういうことかということをその身を以って見せてくれた。死の、見苦しい無益さを」
「違う。あいつの死は無意味だ」
サムトの中で何かが砕けた。「じゃあ、あんたも無意味に死ぬのよ!」 彼女は吼えた。その言葉は炎ゆらめく部屋の中に満ち、石の壁にこだました。
デジェルは顎を上げ、儀式的な厳粛さで自身の胸を拳で叩いた。「私は永遠へと昇るべく死ぬ」 修練者の詠唱の律動で彼は言った。
顔を上げていられなくなり、サムトはうつむいた。彼女はゆるい円を描くように歩き、首の後ろをこすってきつい巻き毛を引っ張った。デジェルをその意志から守る望みはない、あらゆる本能がそう告げていた。その決断をさせられなかったのは当然だった――自分が押せば押すほど、彼は引き下がるのだから。自分は離れて、彼自身に決めさせるべきだったのだ。
ただ、離れるというのは得意な所ではなかった。
「試練に行かないで」
彼は苦々しい、中途半端な笑みを作った。「君が私をここに呼んだのは、助けを求めてだと思っていたのだけど」 彼はかぶりを振った。「元の道へ戻るために私の助けが欲しいのだと。テムメトへ証言して欲しいと。どこかの石棺の中で君が腐っていかないように」
「デジェル」
「私は自分の生命を投げ出している、そう言いたいのか? 君は私達の世代でも最高の修練者かもしれなかった。サムト、勿体ないことを。君がそうなることを選ぶとは」
「あんたが私をどう思うかはいいの。ただ、死なないで」 彼女は呟いた。
「神々なら君に信仰を教えられるかもしれないか、造反者」 デジェルはそう言って扉へ向かった。「ハゾレト様に、君のことを嘆願してみる」
彼は扉を押し開けた。しばし、外からの眩しい光があった。そして砂岩が砂岩にこすれ、そして薄暗く静かな部屋が戻ってきた。松明の光に影が揺れていた。
サムトはしばしそこに立ち尽くし、失敗という霞の中でのたうち回っていた。気が付くと自身の気分と議論をし、友の生命を守るべく全力を尽くしたとしてこの先の展開を考えては楽しんでいた。あるいは、会話するだけで十分だったのかもしれない。デジェルが王神の欺瞞をはね付け、試練を放棄するほどの疑問を植え付けたかもしれない。そして自分に介入するほど気にかけてくれたことを感謝してくれるかもしれない。あるいは彼は友として自分に歩み寄るかもしれない、謝罪に頭を下げて、許しを請う――それは、ありうる事じゃない?
丸々三秒、彼女はそれを信じ込もうとした。
デジェルは揺るがなかった。最後の試練を前にした貴重な日々に、恐らく自分と再び話をしようとは絶対にしないだろう、まして心を変えるなど。同時に、この街には今も自分の死を願うミイラと侍臣が歩き回っている。もし公衆の面前にまた顔を出したなら、それが最後になってしまうだろう。
それでも、サムトはデジェルの言葉を心の中で繰り返した。厄介な感情が彼女を引っかいた。「ハゾレト様に、君のことを嘆願してみる」とデジェルは言っていた。哀れみなのだろうが、それはむしろ好機のように思えた。
彼女は扉を押し開け、影から出て、双陽のぎらつきの中へ駆けた。
猛烈な速度で碑の入口を越えてサムトはようやく制動をかけ、足元の儀礼用の敷物を皺くちゃにした。振り返って後ろを見ると幾つもの刃が構えられており、だが彼女を追跡してきたミイラの軍勢は入り口で止まっていた。その何もない顔が彼女を見つめ、包帯を巻かれた曖昧な笑みを向け、だが身動きはしなかった。彼らが神々の家へ入るには、明白な許可が必要なのだ。
サムトは息を整え、刃を鞘におさめた。幅広の階段がどこまでも上へ続き、それぞれの段にはジャッカルの姿に彫られた火鉢で照らされていた。その階段の先は見えなかった――碑のどこか最上段の内部へ。神の頭部へ。
サムトはひざまずいて頭を下げ、額を床につけた。「強大なるハゾレト神よ、謁見を請います」 そして声が聞こえるまで、彼女は動かずにいた。
「修練者よ、入るがよい」
その声は全方角から聞こえてきた。古風な発音、重厚な言葉。サムトは立ち上がり、ミイラが外に留まったままで待っているのを確かめた。彼女は儀礼の炉から蝋燭を手にし、火鉢の一つからそれを灯した。そしてその蝋燭を注意深く掌の上に保ち、最初の段に足をかけた。友の生命を救うために、神へ何を言えばいいのだろう? 実際、自分にはその覚悟ができているのだろうか?
彼女は昇った。
階段は一歩ごとに狭まり、昇るごとに闇の壁が迫ってきた。その影の中に立つ人影があった。ミイラが微動だにしないまま至る所に構えており、それらの身体は布とハゾレト神のヒエログリフで覆われていた。彼らは過去にハゾレト神の怒りを受けた犠牲者なのだろうか、この先に待つ楽園に相応しくない成り上がり者だったのだろうか?
高段に出て、サムトは息をのんだ。目の前には高さ三十フィートもの炎の緞帳が、壮大な黄金のアーチに縁どられていた。炎の緞帳から火花が散り、サムトの髪を焦がした。顔が焼け、だが炉の蝋燭を倒さないよう気を付けた。
炎の緞帳が開き、サムトが最初に見たものは、足だった。顔を上げるとハゾレト神が見下ろしていた。輝く輪が穏やかに回転し、ジャッカル神の顔の周囲で波打った。それは生ける黄金の光輪。
神の口が動き、だがその声はあらゆる方角から響いた。「その蝋燭が燃え尽きるまで話そうではないか。修練者よ、座るかね?」
気が付くと、サムトは様々な椅子に囲まれていた。背もたれがあるもの、ないもの、詰め物付きのもの、華麗に飾られたもの――どれも定命の人々のための大きさで、きらめく蝋燭で照らされていた。ハゾレト神の最奥の神殿は心地良い昔ながらの炉辺のようだった。家族の集まりのための場所だった。
サムトは咳払いをした。「感謝致します、大いなるハゾレト神よ。ですが私はもはや修練者ではありません」
「其方の言葉と心は同意しかねるようだ。座すがよい」
儀礼の蝋燭を持ったまま、サムトは無言で座った。
神は暖炉の真正面に陣取り、気楽に足を組んで座った。「この歓喜すべき時に、其方の苦悶は何ゆえか?」
瞬時に魂を見透かされ、サムトは狼狽した。無論以前にも神の姿を見たことはあるが、一対一で会話するのは初めてだった。「熱烈の神よ、お許し下さい。私は来たる試練に喜びを感じることができないのです」 サムトは震える息をついた。「私の友人、デジェルが死を望んでいるのです。貴女様の試練にて、貴女様の手によって」
「ならば、祝すがよい! 其方の友は至上の座を勝ち取ろうとしている。其方もそうすべきであろう」
蝋燭を包むサムトの手が震えた。その小さな炎は揺らめき、蝋が融けていった。デジェルと対峙した時の自信と確信は何処へ行ってしまったのだろう? 神々は欺かれている。今、その一柱へと直接そう告げる好機だというのに、自分の信念は何処にあるのだろう? 「存じております、そう教えられました。私達は皆、来世での地位を勝ち取らねばならない、侍臣が教えてくれたように」
「賢き教えだ」
「そして――知っています、デジェルは私に邪魔をして欲しくないと」 気が付くと彼女は神ではなく、蝋燭へ話していた。もしこれを激情の神へ言うのであれば、熱情をもって言わねばならないだろう。「ですが私は我慢できません。彼は来世や試練の真実を知らないのです」
ハゾレト神は首を傾げた、それは面白さからではなかった。神の両目は冷たい挑戦の炎となった。「だが修練者よ、其方は知っているというのか? 知っていると?」
サムトは羞恥にうつむいた。返答すべく口を開いたが、言葉を出すことができなかった。不意に自分の小ささと横柄さに彼女は打たれた。神の差し出した椅子に座しているのに、神の家に招かれているのに、ただ神の招きによってここにいるというのに。今、自分を歓迎するにあたって、強大なるハゾレト神は至高の寛容だけを示している。そして自分は子供じみて厚かましい不満だけを持ち込んでいる。困惑の、冷たい涙がサムトの目に滲んだ。
高段が震えた、まるで碑そのものが低い振動に揺れるように。ハゾレト神は続けた。「その冒涜の罪で其方を打ち倒しても良いのだが。それは判っておろう」
「はい」 サムトは呟いた。
「とはいえ戦士の心を檻に閉ざすは決して我が本意にあらず。そして其方の心は戦いに焦がれている。ならば修練者サムトよ、戦うがよい。其方の心が抱く真実のために」
サムトは目の前の、獰猛と優雅の頂点を凝視した。そして圧倒的な崇敬を抱いた――ハゾレト神への憧れは、自身の誇りだった。そして恐ろしい結論から、神を失望させることを絶望的に怖れた。
だが神へ願わなくては、代わりにデジェルを失うことになる。
「尋ねなければならないことを、どう尋ねれば良いのかわからないのです」
床が震えた。生ける黄金の棘がハゾレト神の顔の周囲に広がった。「戦士が躊躇するというのか? 話すがよい!」
サムトは頭を下げ、涙を拭った。「偉大なるハゾレト神、門の守り手よ。デジェルの助命を嘆願します。彼が貴女様へ命を差し出したなら、それを奪わないで頂きたいのです」
ハゾレトは座り直した。その両目の鮮やかな点がサムトから天井へ、そしてサムトにわからない何か精神的な遠方へと泳いだ。少しして、神は再びサムトを見下ろした。「真剣かつ痛ましい問題だ。その者はそれを望むのか?」
「彼と話しましたが、拒否されました」
「ならば其方はその者の道を歪めるのか? 意思を無視し、その者の心を檻に閉ざしたいと望むか? 私からの其方への好意を、其方はその者に与えぬというか?」
サムトの全身が羞恥に縮こまりたがった。消えかけの蝋燭を投げ捨てて逃げ出したい気分だった。だが血を流して倒れるデジェルの姿が心にひらめいた。身体に開けられた二つの穴からその生命が流れ出る――一つは頭に、一つは心臓に。戦の兄弟が、夢見た無益な死に満たされて。その考えは拳のようにサムトの心臓を握りしめた。
「彼は嘘の下に苦しんでいます」
「その修練者。デジェル。其方はその者を友と呼ぶのであろう?」
「そうです」
「かつ其方は友の信念を、その心に燃える信念を知りながら――それを過ちと呼ぶというのか?」
「過ちです、強大なるハゾレト様。ですがもし……」 サムトはぐっと息をのみ、勇気を鼓舞してハゾレト神の両目を見つめた。「もしも、あるいは……貴女様が間違われているとしたら」
神は返答せず、だがサムトは足元の台が震えるのを、そして周囲の壁であらゆる煉瓦が鋭く鳴るのを感じた。こする音が階段の遥か下から響いてきた――召喚されたミイラがやって来る、容赦のない足音。
ハゾレト神は身をのり出し、突然その神は十倍も巨大になったように、サムトの視界を満たした。黄金に波打つジャッカルの顔以外には何もなく、熱く、焼けるように迫っていた。
サムトは詰め物の中で身をよじり後ずさった。だが今、神の熱烈な怒りに包まれながらも、凄まじいほどの愛に貪られるのを感じた――ハゾレト神の愛に。これほどの近さの中、彼女はハゾレト神の歓迎を、内にある温かな寛容を感じた。暖炉にも似た神殿の歓待を、神の大いなる家の分厚い壁の守りを。これはハゾレト神の、恐らくは、かつての姿。親しみと繋がり。
「寛大なるハゾレト様」 彼女は囁いた。「かつてどう呼ばれていたかを覚えていらっしゃいますか? この世界の人々は貴女様を今、門の守り手と、試練の終焉と呼びます――ですが、激情の母とも。心を育む者とも。私達は貴女様の子供、家族です。貴女様は死の門にて槍と炎を構える残酷な神ではありませんでした。貴女様はその燃え盛る心で人々へと最も偉大な達成を奮起する、共感と霊感の神です」
ハゾレト神の広い黄金の表情に光の揺らめきが走り、その神は瞬間的に、ごく僅かに後ずさったのをサムトは見たと思った。
「貴女様は確かに熱烈の神です」 サムトは続けた。「ですが貴女様を偉大たらしめている激情によって、忘れてしまったものはありませんか。生命を祝すのではなく、死を与える道具となって。王神以前の時代の記憶は、僅かな一片でも、今も貴女様の内にありませんでしょうか?」
ハゾレト神の顔は彼女の上空に留まり、雄大な炎に揺れていた。サムトの頬を涙が伝い、それは蒸気と化した。彼女は神の審判をただ待つだけだった。
そして、ハゾレト神は口を開き、その言葉が轟いた。
「アムムトが其方の心臓を食らわんことを」
ハゾレト神は背筋を伸ばして立ち上がり、さっと離れた。神は今やよそよそしく無表情で、親密さは全く無くなっていた。サムトはうつむいて蝋燭へと咽び泣こうとしたが、それは一掴みの蝋の塊と消えていた。
召使ミイラが神殿に満ち、神はサムトへと最後の言葉を放った。その言葉はサムトの心を砕いた――審判の宣告ではなく、歓迎の撤回によって。
「選定の者らよ。この造反者を捕えよ」
サムトは自身の息が顔に当たるのを感じた。石棺は狭く、皮膚の表面から指一本程の余裕があるに過ぎなかった。両腕は袖の中で組まれ、両手だけは身体から離されて外の乾いた空気にさらされていた。彼女がこのように閉じ込められてから数時間が経過しており、主陽が空に昇ると、牢獄の室温も共に上がった。
数時間前には乾きが不快感を上回り、絶望が乾きを上回ると、彼女は時間の感覚を失った。
当初サムトは力ずくで脱出しようとした。速度上昇の呪文を込めて壁に肘を叩きつけたが、擦り傷を作って骨を痛めただけだった。身をよじって棺を押しのけようとしたが、内側から開かないような魔法がかかっていた。
泣くことは断固拒否した。理由の大部分は決意から。残りは、これ以上の水分を失うわけにはいかないために。そして全面的に、まさに自分が必要とされる場所にいるとわかっていたために。
更に、自分は一人ではないとすぐに判明した。左右には同様の石棺があり、それぞれの中に同じような造反者がいた。彼らの異説は様々だったが、次に何が起こるかを新入りに知らせるのが義務と知っている程には集まっていた。
「激情の試練に怪物はいない」 サムトの左の人物が言った。「最後の試練で修練者が戦う怪物は、造反者だ」
「彼らが言っていたことは何もかも嘘なの」 サムトがかぶりを振ると、額が牢獄の内側に当たった。
「修練者は造反者や異端者と戦って信念を示す。すぐに奴等が来るはずだ、次は俺達だ」
「私達が最後だろう」 サムトの右の人物が言った。「副陽の頂点はもう間もなくだ」
列の下から声があった。「かの御方が疾く帰還されんことを!」
「黙れ!」 そしてサムトの両脇から。
「王神はこの世界の存在じゃない」 サムトが言い、他の者らは黙って耳をそば立てた。「私、古い神殿を見た。神々は本物だけど、王神は違う」
他の者らは押し黙った。サムトの声は次第にひどく真剣なものになった。
「王神が帰還した時に私達が世界を救いたいなら、まず命を救わないといけない奴がいる」
「何故そいつを?」 左からの声。
「そいつは強くて、信念に満ちてる」 サムトは返答した。「自分達は欺かれているって神々に確信させられる奴がいるなら、それはあいつしかない。私があいつを説得できれば、あいつは何だってできる。そして私達は侵略者の影響から解放された人生を送ることができる」
そうしたならデジェルは自分を憎むだろう、サムトはそうわかっていた。彼は戦い、吐き捨て、きっと自分を殺そうとするだろう、栄光ある死を汚したとして。だが必要なことだった。来たるものに、彼なしで対峙はできなかった。
暑い昼が過ぎて凍りつく夜となり、牢獄の中で壁にもたれかかるとサムトの皮膚が凍えた。睡眠は無益な望みであり、石棺の冷たさから身を守ろうと彼女の筋肉が強張った。
彼らは朝にやって来て、自分を闘技場へ連れていく。そうしたら今一度デジェルを説得して、生き延びて、そもそもの世界を汚した侵略者と自分達二人は戦う……
彼女の不眠は外からの声に遮られた。
「ニッサがあの人を探した時、ここに――」
「あの手は――」
「前にはなかったわ。中に人がいるってことよ。せえの――」
焼け付く熱と光の筋が注がれて石棺が割れた。牢獄は両側に開き、サムトは眩しさに瞬きをした。目の前には見知らぬ人物が二人立っていた。赤毛の女性と、長身の屈強な男性。
最後の試練へ自分を連れていくであろう者達ではなかった。おかしかった。救助なんてされる筈がないのに!
サムトは駆け出し、だが強張って消耗した両足はよろめいた。彼女を牢から助け出した一人がそれを止め、その男はギデオンと名乗った。彼いわく、自分達は数日前に捕獲を逃れようとする自分を見て、助けに来たのだと。
その横柄さにサムトは笑い出したかった。しかしその代わりに、何故よりによって自分を必要としているのか、彼女はそう尋ねた。
男の隣の女性はチャンドラと名乗り、サムトへ尋ねた。数日前に「刻」の欺瞞を人々へ警告しようとしていた、その意図を。
そもそもどうやって自分を見つけたのかという混乱はさておき、サムトは自身が学んだことをその見知らぬ者らへと伝えた。空の墳墓、激情の試練で死んだ者は何処かへ連れて行かれる、かつて存在した舞踏と死した世代。二人が顔を見合わせて頷き、助けを呼ぶのをサムトは見つめた。やがて、もう三人がやって来て加わった。彼らは情報を交換し、王神の帰還の前に何をすべきかを推測し合った。
順番にニッサ、リリアナ、ジェイスと紹介され、サムトは何とかその名を覚えた。彼女も加わって他の造反者らを石棺から救い出し、そしてその者達は情報を交換し合った。
ジェイスは新たな知り合いへ目を向けた。「サムトさん、王神は他の世界から来たドラゴンなんです。そいつは何か必死な理由があってここに来たのだと思います。そうれなければ、自分で自分の世界を作れたでしょうから」
ニッサはナクタムンの壁に発見したものを皆に伝えた。「以前は八柱の神々がいたわ、今は五柱。三柱に何が起こったのかはわからないけど、生き残った神々も全員、ニコル・ボーラスの意図に沿うように改竄された」
「野望の試練では、修練者が殺し合っていた」 ギデオンが言った、その声は困惑に重々しかった。「試練は、死体を大量生産するためのものだ。激情の試練で死んだ者は別の所へ連れて行かれるが、何故なのかはわからなかった」
リリアナが深呼吸をした。
「三体目の悪魔がここにいるの」
その言葉に会話は静まった。サムトにその女性の言葉の意味はわからなかったが、他の者らは憤怒とともに押し黙った。
「で、それを言わなかったってこと?」 チャンドラは激昂した。
ニッサは目をすっと狭めた。「一緒にボーラスと戦うんじゃなかったの、それとも、それがあなたの本当の目的?」
ギデオンは一団の注目を青ずくめの男へと向けた。「ジェイス、君は知っていたのか?」
その男は気まずそうに身動きをした。「……これは俺達の優先事項としては二番目だ。リリアナが契約から解放されれば、全力で戦えるようになる――」
ニッサはかぶりを振った。「ジェイス、それは私達がここに来た目的じゃない」
チャンドラは踏み込んだ。「とっても賢い誰かさん、あんたは脳みそ以外の所で沢山考えすぎてるんじゃないの、馬っ鹿――」
「リリアナ、君は本当に思っているのか、私達がここに来た目的を諦めて君のために戦うと?」 ギデオンは紫色をまとった女性へ視線を向けて尋ねた。
彼女は顎を上げ、片手をぼんやりと右のポケットへ動かした。「そうよ。何故なら、私なしでボーラスを倒せやしないもの!」
「黙って!」 サムトが割って入った。全員が苛立ったまま、彼女を見つめた。彼女は声を落ち着かせ、この侵入者達それぞれと目を合わせた。
サムトは言った。「一つだけはっきりさせておくけど、言い争ってる時間はないのよ。激情の試練へ行って、ある人を救わないといけない。ナクタムンの民を集める力がある人を。王神は帰ってきてないし、到着するまでそいつに何ができるかはわからない。皆、私を手伝って。友達を助けるのを。だって誰も他の計画はないでしょ。いい?」
恥じ入ったように、五人はそれぞれ頷いた。
「ん」
ギデオンが進み出た。「約束しよう、君の友人は助けると」
簡単に約束をしてくれる、サムトはそう思ったが、同意に頷いた。
そして凍り付いた。
目にするよりも早く、それらを感じた。
神々を。
五柱全てを。
一列になって彼らはやって来た。ハゾレト神を先頭に、もう四柱をすぐ背後に。王神の帰還が迫る今、その四柱は見物に来たに違いない。
サムトは動けず、黙らせられるのを感じた。他の者らも同じ呪文を被っていた。
「造反者らよ、時が来た」 ハゾレト神が言った。その声は鋼のように硬かった。「来るがよい。そして最後の試練にて残る修練者と対峙せよ」
靄が一同を圧倒し、全てが暗転した。
造反者らは支配のカルトーシュを首から下げて目覚めた。巨大な闘技場の中央、死者のように動かず立っていた。双陽がぎらつき、首の付け根に汗が滲んでいた。
サムト、チャンドラ、ジェイス、ギデオン、ニッサ、リリアナは輪になり、それぞれ外を向いて立たされていた。闘技場の隅には巨大な演壇があり、上には激情の神ハゾレトが立っていた。その両脇をアモンケットのもう四柱が挟んでいた。
神々の姿を見つめるのは困難だった。視線を合わせると、造反者らの心に羞恥が満ちた。サムトだけが神々と目を合わせた。その腹の中にある炎は神々への怒りではなく、それらを汚した何者かに対してのものだった。彼女が信じる神々は善き存在だった。素晴らしい存在だった。それらに成したことは罪の中の罪。侵略者が何者であろうと、報いを受けるべきだった。
神々を囲んで、選定された者らが動かず静かに立っていた。かつての修練者らの敬虔な沈黙はサムトを重々しい畏敬で満たした。その存在は、最後の試練に参加した者に待つ特別な未来を考えさせた。
神々の台の下に立つのは四人の修練者だった。それぞれが興奮に張りつめ、勝利を必死に求めていた。
他の造反者らがカルトーシュの静止の魔術に凍りつかされている中、ジェイスは自身の首周りのカルトーシュへ精神攻撃を放った。それは彼の動きを縛り沈黙させていたが、対抗する心の自由はあった。
『ジェイス、私、何とかできると思う』
ニッサの声が、白い花のようにジェイスの心をとらえた。両目を左へ動かすと、カルトーシュの魔法に逆らってニッサの手がその意思の通りに動くのを見た。
『どうやって?』 ジェイスは心で尋ねた。
彼女は心の中で肩をすくめてみせた『これは力線みたいに働いてるの。マナの源は違うけれど、同じ原理』
完全にその呪文を打ち消す時間はなかった。ハゾレト神が闘技場の隅でその槍を掲げ、口を開いた。
その声は鐘のように闘技場に響き渡った。
「修練者らよ。其方らの前に立つのは異端の者、王神と其方らの人生を否定した忌むべき魂。其方らの役目はこの最後の試練において、全員を殺すことにあり」
サムトはデジェルの姿を探し、必死に前方の修練者らを見た。彼はもう行ってしまったのだろうか? 間に合わなかったのだろうか?
いや、いた。端に。デジェルは手にコペシュを持ち、熟練の動じない姿勢で立っていた。達成感と誇りに満ち、確信の笑みを見せていた。
神々に感謝を。彼はまだ生きている、そしてサムトは彼を生かし続けるつもりだった。
同時にギデオンも彼を認め、その胃袋が恐怖に落ちた。デジェルを殺さねばならないのだろうか、デジェルが慈悲深くも門友を殺害したように?
デジェルの方は、サムトを見て心の昂りを感じた。無論、この身体で過ごす最後の日に、親友とこうして対峙する。全くもってこれが運命というもの。
ハゾレト神は槍を振り下ろした。
「刻は近し。最後の試練を開始するがよい」
ハゾレト神が手を掲げるとともに、その戦いの激憤の印がそれぞれの頭上に現れた。
無論、サムトはハゾレトの魔術について学んでいた。だがそれを経験するというのは文字で読むこととは全く異なっていた。
戦わねばならなかった。
勝利し、宥め、王神の選ばれし娘の好意を引き止めねばならなかった。
ハゾレトの魔術は喜ばしく、心に激情の炎を、四肢に力のうねりを与えるものだった。全てが魔法の影響下に、同じ呪文の下にあった。全員が傷つけ、殺し、理性を捨ててハゾレトの熱を受け入れるよう駆り立てられた。
意識的な思考は失われた。
あるのは戦いへの欲求だけだった。
支配のカルトーシュが造反者らの胸骨から消え、再び身体が自由になると、異端者の一団は前方へ駆けた。
狂乱の造反者らもまた駆ける隣でサムトはデジェルへと急いだ。戦え、殺せ、精神と身体にうねる魔術が語りかけていた。心だけが彼女に目的を思い出させていた。
デジェルを生かしておく。どんな手を使っても。
最初に魔法を唱えようとしたのはジェイスだった。反射的に彼は手を掲げ、向かってくる修練者の精神を壊そうとした。光は現れず、彼の命令に従うマナもなく、彼は驚きに目を見開いた。迫った修練者は腰を落とし、彼を掴み上げ、ジェイスは仰向けに投げつけられて喘いだ。
チャンドラが巧みにジェイスを庇った。彼女は容易くハゾレト神の魔術を受け入れ、とはいえ拳に炎は燃えず、目の前の修練者を全力で殴りつけては引っかいた。彼女は激しく笑い声を上げた。素晴らしい開放感、そして掴みかかり蹴ってくる修練者を避け、攻撃を放った。だがチャンドラが放つのは癇癪であり、訓練されたものではなかった。対峙する修練者は彼女の腎臓を殴りつけ、頬骨を殴った。チャンドラは怒りに吼えると修練者に体当たりをして地面に倒した。即座にリリアナがチャンドラに加勢し、その修練者を押さえた。魔法なしに最善を尽くして戦う中、彼女らの表情はハゾレト神の憤怒に歪んでいた。
ニッサだけが、魔法無しに十分戦えていた。彼女は対峙した三人目の修練者から数発の拳を受け、だが地面からジェイスを持ち上げて相手へと投げつけた。ジョラーガの戦鬨をジェイスと修練者へ叫ぶと、ハゾレトの印が彼女の頭上で赤く鮮やかに輝いた。
ギデオンも同じくハゾレト神の術に我を失っていた。彼は駆け、持ち上げ、闘技場の端にいるデジェルへと唸りながら近づいていった。
だがサムトの方が速かった。彼女がまず追い付いた。その目がデジェルと合った。魔術の下で、彼の驚きを感じた。
デジェルは反射的に彼女へコペシュを振るい、サムトは容易く避けた。次の瞬間、彼女は体重を移動させて友と背中合わせに立った。
彼は直ちに、無言で理解した。
サムトは自分を守ろうとしている。共に戦おうとしている。
ギデオンはハゾレト神の魔法を印されて戦いへの渇望に狂い、友人二人へと視線を定めた。彼は技術に欠けた、力まかせの拳を振るった。
デジェルは武器を固く握りしめ、詠唱を始めた。
「ハゾレトよ、来世の門の番人にして王神の最愛なる者よ!」
彼は動きながら詠唱を続けた。熟練かつ熟達の戦闘様式はサムトの動的な格闘技術と完璧に調和していた。
デジェルが崇拝の言葉を叫ぶと、ハゾレト神の両目が彼とサムトに定められた。その修練者の声は豊かで確固として、戦闘の動きの中、呼吸と奮闘の合間合間に唱えられた。
「ご覧あれ、強大なるハゾレト神よ、貴女の子らの激情を!」
彼のコペシュは上方へ振り抜かれ、ギデオンの上腕に細く浅い切り傷を作った――焦点の定まらないギデオンの両目がその腕を見つめた、まるで自分の血を初めて見るように――
「この身体での最後の祈りは私のためのものではありません。貴女様の慈悲を最も受けるべき者のために!」
サムトの脚がギデオンの顔面に直撃した――彼女はその動きに乗り、続き、立ったままのその男を容易く地面に倒し――
憤怒と奮闘に息を切らしながら、デジェルは続けた。「神よ、願います、サムトへ、私の親友へ赦しを! 私にはない鋭さの、価値ある力の持ち主なのです!」
束の間、二人は視線を交わした――『どういうつもり?』『ああ、こういうつもりだ、サムト』――二人の身体は共に動き、仲間の造反者を掴み、完璧な調和で、コペシュと熟練の蹴りが隣り合わせに踊り――
「彼女の罪をお赦し下さい! 疑いを抱いたことをお赦し下さい!」 デジェルは荒い息の間に願った。
ギデオンは熱い血を拭って叫んだ。「命を投げ出すつもりか! 何故死を望む!」 デジェルはそれを無視した――ギデオンの鼻に肘を叩きつけ、腎臓に拳を突き、その傲慢な頬を切り裂き――
「古の道にあるサムトの信念をご覧あれ!」 コペシュを振るいつつ、デジェルは途切れ途切れに叫んだ。「彼女が過去を学び、人々の文化を体現した様を!」
サムトの足が骨にひびを入れ、両手が撫でると掌型のあざができた――また一人、彼女はデジェルを槍で突こうとした造反者を完全に叩きのめした――
「どうか、サムトに栄光の死を」
修練者二人は嵐のような舞踏を織り上げた。引き、突き、肩を外し、耳を打ち――
デジェルの熱い涙が怒りの皺を流れ落ちた。「彼女のいない永遠を過ごすことはできません。ナクトの運命を被らせることはできません」
ハゾレト神の呪文が弱まりだした。時の流れが緩くなった。色彩が戻り、感覚が戻り、サムトは動きを止めた。デジェルは生きている。どうやってこれを続けていたのだろう?
デジェルはコペシュを地面に置き、形式にのっとった降伏で終えた。「ハゾレト神よ、我が祈りをお聞き下さい!」
「聞き届けよう、デジェルよ」
戦の魔術が消え去った。
デジェルの詠唱が終わった。
ハゾレト神は闘技場の端に、背筋を伸ばして立っていた。
「来るがよい、デジェル、サムト」
二人の周囲では血が散乱し、修練者三人の死体があった(首はねじ曲がり、喉を裂かれ、死体は無造作に転がっていた)。ゲートウォッチという者らは生き残っており、瞬きと混乱とともに、再び魔術が使用できることに気が付いた。
そのわずかな沈黙の間に、デジェルはサムトの手をとった。「サムト、私はこの死を選ぶ」
サムトはかぶりを振った。「あんたの力が必要なの、最強の侵略者を打ち倒すために。力が必要なの。私も、あんたの魂がいなければ、できない」
「楽園で会おう、サムト」
挫折に、サムトは目を閉じた。
デジェルはハゾレト神へと向かっていった。
デジェルが塵と石の中を黙って歩くと、闘技場は引き伸ばされたようで、時間そのものも止まったようだった。彼の存在は自分と神とを結ぶ一本の線を歩くことに凝縮されていた。賜物を受け取るために、意志をもって片足をその前に出す。
サムトは待てなかった。生き続けるよう全てを尽くして説得した後、彼女は空しく立ったままでいた。
『こちらへ、サムト。我らが過去の娘よ』 ハゾレト神の声は、サムトの心の中でパチパチと音を立てて燃える炎のように暖かかった。彼女はデジェルを追い、気が付くと友の隣、神の面前に立っていた。
ハゾレト神は二人の修練者を見下ろした。そして最初にデジェルへと語りかけた。
「其方は残る造反者を殺さなかった」
デジェルは息をのんだ。「最後の試練で見出すべきは、造反者の死ではありません。彼らは私達の道を知らないのです」
ハゾレト神は僅かに頭を動かし、同意を示した。
「永遠の中に地位を欲するか、デジェルよ?」
涙がデジェルの頬を伝った。栄光の死こそ彼がずっと求めていたものだった、欲していたものだった。彼は頷いた。その地位が手に入る。自分の死に、何らかの意味ができる。
何をすべきかを把握し、サムトの心臓が更に沈んだ。デジェルは決して許さないだろう。許すなどありえない。
ハゾレトはサムトを見た。
「其方の価値は、その信念が真であるならば示される、サムト。我が賜物を受け取るか?」
躊躇なく、サムトは首を横に振った。
「最強の侵略者が間もなく来ます」 彼女は言った。かすれた声で、目はハゾレト神のそれに定めて。「私にはやるべき事があります」
ハゾレト神は小さな、失望の溜息をついた。デジェルは衝撃と失望に目を見開き、ただ見つめた。彼は返答しなかった。ただ飲みこみ、彼女の肩を掴んだ。それは無言の別れだった。
あんまりな仕打ちだった。
サムトは震える息を吐いた。「ごめんね、デジェル。いつか私を許して」
その謝罪に、デジェルは困惑から眉を寄せた。
「こちらへ、デジェル」
デジェルは神へと踏み出し、崇敬に目を閉じた。彼はひざまずいて両腕を広げた。
ハゾレト神は槍を掲げ、サムトは意志を固めた。
デジェルは生きなければ。生きなければ。もう戻れない。意味のない死で再び友を失うわけにはいかなかった。サムトは踵に力を込め、姿勢を緩め、速度上昇の呪文を込め、ハゾレト神の槍が構えられると差し迫った介入の瞬間を待った。
神は放ち、サムトは跳んだ。
一瞬の出来事だった。
サムトは跳ね、横からデジェルへと体当たりをして彼を地面に倒した。同時に、大きな金属音とともに背後で黄金色の爆発があった。
サムトも地面に倒れて、その音が背後、ギデオンから発せられたのだと知った。彼は自分達とハゾレト神の槍との間に立ち、滑らかな黄金色の魔法が彼と死とを隔てていた。
この人は約束を守ってくれた、サムトはごく僅かに笑みを浮かべて思った。
目を見開いた友の驚愕に、その笑みは即座に砕かれた。デジェルは彼女の下、闘技場の地面に押し付けられていた。
サムトは必死に目を逸らしたかった。だができなかった。裏切りの衝撃に表情を歪め、デジェルは憤怒に震えた。
「どういうつもりだ!」
「デジェル、あんたが望んではいないのはわかってたけど――」
「どういうつもりだと言ったんだ!」
彼はサムトを突き飛ばして拳を振るい、彼女はそれを落下する羽根のようにたやすく避けた。デジェルの目に涙が湧き上がり、神々は不意に息をのんだ。
その時、全員の頭上で、副陽が地平線の角の間を通過しはじめた。長く待ちわびた年月が遂に終焉を迎えようとしていた。
デジェルは気にしなかった。彼は不本意なサムトと格闘しようとしたが、その苦悶の溜息は躊躇うことのないすすり泣きと化した。
神々は空を注視しながら、闘技場の出口へと足を向けた。
今しがたの出来事に奇妙にも呆然としながら、ハゾレト神だけが残っていた。その神は不確かな手で槍を握りしめていた。
ギデオンは取り乱しながらも、狼狽に口を開けて目を見開くハゾレト神を見つめた。彼は困惑に視線を落とし、そしてデジェルへと向き直った。
「デジェル、あの神はあなたを――」
「わかってますよ、何をしようとしたかなんて!」 デジェルは表情を歪めて言い放ち、彼はサムトを脇に突き飛ばすとその男に飛びかかった。一撃ごとにギデオンの防御が揺らめき、柔らかな黄金色の光の下でその表情は同情的な困惑に歪んでいた。彼は防ごうとはせず、ただデジェルが攻撃を放つままにさせていた。
「私は勝ち取ったんだ、それなのにもう! 失われたんだ、お前のせいで!」
ギデオンは信じられず、黄金色にきらめく防御魔法の下でかぶりを振るだけだった。その天性の防御はただデジェルを怒らせるだけだとサムトはわかっていた。デジェルがどれほどその壁を砕き、壊し、腹を貫き、この邪魔者の腱を裂き、この魔法をはらわたで汚してやりたいかがわかった。彼女は哀れみを感じたが、後悔はなかった。彼がどれほど怒っているかはわかっていた。自分と、この異人が親友の人生を汚したのだから。
ギデオンは遂に両手を挙げてデジェルの攻撃を止めた。触れはせず、だが後ずさった。
「何故死にたがるんだ?!」
「存在したいからだ!」 デジェルは涙とともに叫んだ。
そして彼は膝をつき、むせび泣いた。
大気がしんとしていた。闘技場に響く音はその打ち負かされた戦士のものだけだった。他の侵入者らは遠くから黙って見守っていた。サムトの心が沈んだ。当然、彼はそれを怖れていた。ナクトの出来事の後では、他に何があるだろうか?
その悲嘆は静かに立つ何百体もの選定された者にこだました。世界は存在を止め、残されたのはその失敗だけだった。神々はハゾレトを残して立ち去った。彼らはルクサ川に向かわねばならなかった。「刻」が始まろうとしていた。
サムトは慟哭するデジェルの肩に両手を置いた。
彼女は身体を寄せ、そして静かで小さな声で、囁いた。
「やる事は沢山あるし、助けられる人々が沢山いる。あんたの訓練はそのため。このためじゃない」
デジェルは返答できなかった。ただ泣くことしかできなかった。
サムトは囁き続けた。「デジェル、一緒に年を重ねましょう。そしていつか、今からずっと未来に、皆長生きして、寿命を全うして、そしてやっと、来世へ歩いていくの、手をとり合って。あんたが望んだように行けなかったことはごめんなさい、でもここにいてくれて嬉しい」 彼女は感謝の意にデジェルの額へと口付けた。
彼は悲嘆するだけだった。サムトは彼の肩を掴んだ。
「お願い、デジェル、立たないと」
しばし時間を要したが、彼は立ち上がった。
そして地面を見据えるギデオンへ、彼は鋭い視線を送った。
『介入するとはな』 温かな声がサムトの心に響いた。見上げると、ハゾレトの黄金の凝視があった。サムトは頷いた。
『其方自身には何と言う?』
『信じています、賜物を与える者』 サムトは祈りを込めた。『貴女様は、そう強いられた存在ではないと信じています。そして、私達の火急には、貴女様がその子供らを守って下さることも』
ハゾレト神は立ち尽くしたままだった。不確かに。その両耳がひねられ、二つの太陽の光をとらえた。
「ハゾレト様、刻は始まっています」 遂にサムトは大声を上げた。
古の角笛のような大きく鈍い爆発音が響いた。街じゅうに、そして闘技場の席にも。
サムト、ゲートウォッチ、ハゾレト神、そして完全に打ちのめされたデジェルは空を見上げた。まるで雲が頭上を通過するように、一つの影が全員を覆った。
副陽が投げかけた影は闘技場をゆっくりと拭いはじめた。全員が立ち尽くし、それが通過するのを見つめていた。ゆっくりと、歩くほどの速度で端から……端へ。
光は落ち着き、全員の視界が戻った。今や半ば暗くなり、それまでの世界に冷たく浸みていた。
「始まった。刻は始まった!」 ハゾレト神はサムト、デジェル、ギデオンをまたいで過ぎた。その両目は地平線の構造物のどちらの側も輝かせて過ぎていく光を追っていた。
「立って、デジェル。行かないと」 サムトはデジェルを引いて立たせた。
デジェルは涙に濡れた顔を拭った。「まだだ。刻が始まったというなら、王神様はまだ私達を連れて行って下さるはずだ」
サムトはかぶりを振り、口は閉ざしたままでいた。副陽の影からの寒気が身体に上ってきた。
彼女はその冷気に震えた。
闘技場の外では、人々がルクサ川の岸辺へと殺到し、叫び、泣いていた。その先には来世への門がその先に横たわっていた。「刻の書」の最初の予言によれば、副陽が完全に角の間へと入った時、その門が開いて王神の約束が叶えられるのだと。
「デジェル、走らないと。今から数時間のうちに、できるだけ多くの人を救わないと」
副陽は決して沈むことはなく、だが今それは街全体に影を投げかけ、何もかもが薄闇の中にあった。何もかもが冷たかった。デジェルはこれまで、寒気を感じたことはなかった。
「サムト、川へ行かないといけない。来世への門が開いて刻が始まる。かの御方が帰還される。王神よ、私に慈悲を!」 デジェルは闘技場の出口へ、その外の敬虔な市民の群れへと駆けだした。
リリアナ、ジェイス、チャンドラ、ニッサも続いた。
ギデオンは残っていた。
彼は上腕を、自身の血が親指へと細く流れ下る様を見つめた。
走り、皆に追い付くべきだとは心のどこかで知っていた。だが彼は立ちすくんだまま、デジェルが切り裂いた腕の傷を見つめていた。
一つの太陽の暗がりに、その血は濃く暗かった。滑らかに流れ落ちていた。
胸の中で、心臓が不安に高鳴った。
ハゾレト神とデジェルの間に立った時、心に囁かれた言葉があった。神の言葉はギデオンの心に、狂乱の律動を刻む心臓とともに何度も繰り返した。
我は、其方に受難を課す最初の神ではなく、最後でもない。
過去を忘れた忌むべき者よ、
其方の死が見える、キテオン・イオラ。
其方は神ではない。
その言葉にギデオンは震え、腕の血が足元の石に滴るのを見つめた。
彼方の巨大な碑、角の背後を太陽が過ぎるのを見つめながら、難攻不落の男はただ寒気と空ろな恐怖だけを感じていた。
(Tr. Mayuko Wakatsuki / TSV Yohei Mori)